近辺のあまり知られていない城の遺構を訪ねてみました。
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中世の「城」と「館」と「城館」…どれも敵を防ぎ味方を守るという軍事的防御を目的に築造された遺構は、住まいの比重が高いのが「館」、軍事的な防御を強めたのが「城」、両方を兼ねたのが「城館」というように使われていますが、明確には定義があるわけではなく、現地に建つ城里町教育委員会の案内版ではどちらも「館」でした。
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さて高久館は案内版では永仁元年(1293)に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたと書かれていますが、関谷亀寿著「茨城の古城」では、佐竹氏8代行義の6男で野口城主になった景義の子、義有が嘉元年間(1303∼05)に高久の地頭になり高久氏を名乗り築城したと載っています。
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正長元年(1428)3代義本と長子義景は、山入の乱で挙兵するも佐竹宗家側の大山城主大山義道に攻められて落城、やっと5代時義(義行)の代になって旧領に戻ることができました。天文4年(1535)には10代義貞が部垂の乱でまた宗家に叛くも佐竹義篤に攻められ降伏、二度も宗家に逆らいます。その後佐竹氏の支配下に入って天文12年(1543)、佐竹氏が伊達氏に味方し相馬氏と戦った陸奥の関山(白河市)合戦に従軍した際に、義貞と父義時、子宮寿丸の3代が揃って討ち死にし城は廃城になりました。
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那珂川の河岸段丘上の標高50m比高30mの台地にあり、三方を切り立った崖に守られた天然の要害です。
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1郭跡は、館部落共同墓地になっています。まさしく城址である舘という地名が残っています。
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1郭とは堀で遮られた2郭は農地になっています。
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2郭北側にある堀跡、この先も大手までは城の一部ですが、農地や宅地で遺構は消滅しています。
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ほとんど消滅していますが、大手とされる場所の堀跡です。
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3郭南側に天王神社があります。
天王神社は、牛頭天王(ごずてんのう)と素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀っているそうですが、仙人の田舎にも神輿が仕舞われている天王さんという神社があったのを思い出しました。
歩いてみると南北約200m、東西約100mの広大な高久館は、「館」というより「城」という規模で、高久一族の滅亡後も佐竹氏の軍事拠点として拡張整備されていたのかもしれません。
もう一つの館は、高久館から約1.5km北にある平治館です。
案内板では元弘2年(1332)当地方を治めていた常陸大掾高幹の世、佐貫氏が初めて築きのち穂高平治が居住した。天正年間徳ヶ原合戦の時は大山氏の出丸城であったと書かれています。
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この城に関する詳しい資料が見つかりませんが、鎌倉初期に進出してきた大掾一族の築城というのは高久館と同じで、その後佐竹一族の支配下になり、天正年間(1573~1592)に一族の大山、石塚、小場氏が争った頓化原合戦では大山城主の出城的役割を果たしたということのようです。
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約100m足らずの方形単郭の館は、確かに3方を天然の堀に囲まれてはいますが、防御施設としては物足りず、やはり「館」の分類に入るのでしょうか。
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主郭はもと農地だったようですが、現状は一面の草に覆われ、特に奥の色違いの草は、悪名高き引っ付き虫「コセンダングサ」の群生、ズボンにびっしりと付き、入るのを拒んでいます。
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北側の低地に下りる道も台地を横切る空堀になっていて、主郭側にはL字型に土塁が築かれています。
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南面は高さ20mくらいの崖になっていて下には天然の池があります。
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主郭入り口の西側の道路も、かっては堀として機能していたかもしれません。いまは低地に下りる道路になっています。
あまり知られていないため詳細な歴史は分かりませんが、その分を空想でカバーして、当時の多くても守備数十人規模の館に思いを馳せたひとときでした。