元禄9年(1696)水戸藩2代藩主徳川光圀公は、この地にあった広栄山心岸寺という寺を金砂郷に移し、元禄2年に水戸徳川家菩提寺として建立した浄土宗の向山浄鑑院常福寺の末寺として、この引接寺を建てました。
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この寺は、光圀公をはじめ水戸徳川家歴代藩主の御神葬式に際し、瑞竜山徳川家墓所に埋葬の御霊柩の宿寺として明治初年までその役目を果たしてきました。(第10代義篤公までか?)
水戸城から瑞竜山墓所までは約25キロ、その街道沿いのちょうど中間あたりに引接寺があるので、ここで葬送の行列が一泊したのでしょうか。
引接(いんじょう)とは仏が衆生を極楽へ導くことなので、寺の名前も一連の埋葬の儀式の意味を持つような気もします。
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山門です。光圀山攝取院引接寺(こうこくさんせっしゅいんいんじょうじ)と読みます。
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仁王門には仏法の守護神である阿形と吽形の金剛力士像を左右に安置されています。
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パワーあふれる金剛力士像、木目が際立っていました。正面から見て門の左側に阿形像、右側には吽形像が安置され、通常とは逆の配置になっています。
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本尊の阿弥陀如来は、安良川村(高萩市)の八幡宮に奉安してあったものを 光圀公が引接寺に寄進したものと伝わり、背面に元禄9年(1696)に徳川光圀寄進の自筆刻銘があります。
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水戸徳川家の葵紋と浄土宗紋の月影杏葉がついていました。左側は盗られてしまった…?早く戻されることを祈ります。
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なお、光圀公が向山浄鑑院常福寺を建立したため、延元3年(1338)創建で家康公や水戸藩初代藩主頼房公の手厚い保護を受けてきた瓜連の常福寺は衰退し、やがて向山に移されて蓮華院と改称され、向山の隠居寺となりました。
しかし天保14年(1843)斉昭公の梵鐘供出命令に従わなかったため、向山常福寺は瓜連に戻され、伽藍なども幕末の天狗の乱で焼失してしまいます。寺宝等は直前に瓜連に移されて無事でしたが、再興の動きは明治維新で途絶えてしまいました。
(写真は瓜連の草地山蓮華院常福寺、三つ並んだ山門で知られています)
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