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1月6日の拙ブログ「台渡里遺跡群…飛鳥~平安時代の役所、寺院跡」で紹介させていただいた飛鳥、奈良、平安時代の台渡里遺跡群は、常陸国那賀郡の郡役所や寺院の跡ですが、その遺跡群と重なる東の部分に中世の長者山城址があります。
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城址の入口に「一盛長者伝説地」という石碑が建っています。
碑文には、「この長者山は源義家によって滅ぼされたという一盛長者の伝説地である。後三年の役のとき10万の兵を率いて奥州に向かった義家は、長者の家に泊まって豪勢なもてなしを受けた。奥州平定後ふたたびここに泊まり前に劣らぬ接待を受けた義家は、このような富豪は後日災いになると考え、急に長者を襲って滅ぼしてしまったという」と書かれています。
この地は奈良時代から陸奥の国へ通じる古代の東海道に面した土地で、長者といっても財力のほかに一帯を支配する軍事力を持った勢力が、城のような防御を固めた屋敷に住んでいたと思われます。
その伝説の地に現在残る土塁や堀の跡は、中世(15世紀半ば)に水戸城主となった江戸氏の重臣である春秋(はるあき)氏一族の居城で、水戸城の北西の守りを固めていました。
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土塁と堀の一部が残っているだけですが、比較的形状が残るⅠ郭のほかⅡ郭、Ⅲ郭も民家の敷地になっています。Ⅳ郭、Ⅴ郭などの外郭は、ソーラーパネルで覆われて確認することはできませんが、フェンス越しに高い土塁らしきものが見えます。
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Ⅰ郭の南側の土塁と空堀です。
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Ⅰ郭の南側の堀、直角に曲がって急斜面につながります。
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東側にも深い堀が複雑に巡っています。その先の北東側は約15mの断崖で敵を寄せ付けません。
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立ち入りできない本丸西側の空堀はGoogle Mapでのご紹介です。
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台渡里廃寺跡に建つ八幡神社の西端の土塁も、長者山城の外郭の一部という説もあります。
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約300m南方にある勝幢寺です。ここの棟札に「大旦那春秋駿河守」とあるそうですが、他には春秋氏と長者山城の資料はほとんど残っていないのが現状のようです。
春秋(はるあき)という名前の人はいま全国で約60人とか、もとは常陸国鹿島郡春秋村出自の桓武平氏大掾氏の家系で、水戸地方に進出して江戸氏の麾下に入り、江戸氏が河和田城から水戸城へ移ると河和田城の守将となり、一族を見川城、長者山城に配置して水戸城の備えとしました。
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長者山城址で発掘された遺物が水戸市埋蔵文化財センターで開催中の「悠久の水戸史」で展示されていました。
常滑大壺(15世紀後半~16世紀前半)
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志野菊皿や丸皿(16世紀後半~17世紀前半)
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刀の鐺(こじり)や武具の飾り金具、棹秤(さおばかり)の分銅も発見されました。
さて、この長者山城の最後です。
天正18年(1590)8月1日、豊臣秀吉は常陸と下野両国にある佐竹氏の所領を安堵しましたが、その中には大掾氏や江戸氏の所領など、佐竹氏に服属していない領主の支配地もあったといわれます。秀吉の朱印状による水戸城明け渡しの要求を拒んだ江戸重通に対し、12月19日佐竹義宜は三方に分けた軍勢で水戸城を急襲しわずか一日で攻めおとし、江戸重通は子の実通とともに城を棄て、妻の兄結城晴朝を頼って落ち延びました。この戦いで長者山城も西方から攻めあがった長倉義輿の軍に瞬く間に蹂躙されてしまったようです。
翌20日には残った河和田城などが攻められ、主な武将が前日の戦いで応援に出て討死にしていたため一日で落城したと伝わっています。江戸氏による約160年の水戸支配の終焉、勝者の佐竹氏も関ヶ原の戦いでの中立的態度を徳川家康に咎められ、わずか12年後の慶長7年(1602)に出羽国秋田に移封されてしまいます。
伝説ですから、真偽に関してはわかりません。
県内には、彼が通って行った道だろうと思われる所、
あちこちに、義家に関する伝説があるようですね。
長者が滅ぼされた伝説も他所でも見かけます。地元汐ヶ崎の
「折居の泉」にも義家説もありますので、手子后神社とは直線
5キロくらいで繋がります。もっとも古代の奥州への道(東海道)は
もっと西側の台渡里を通っていたというのが通説のようですが…。
中学生の頃、川尻港の北の崖上の松林に「八幡太郎馬の足跡」という
直径5mくらいの大穴があり、底には波が押し寄せていたのを見ました
が、こんな怪しい伝説も多いのではないかと思います。