記録的な猛暑も過ぎ、さすがに秋の気配が濃厚になってきた偕楽園です。萩も今年は長く暑い気候の影響で開花が遅れて短期間の咲き方で終わってしまい、今はちらほらと花をつけている二季桜が見られるくらいで、春の梅まで花の一休みの季節に入りました。
しかし好文亭の奥御殿では、部屋ごとの襖に描かれた四季の花が満開…、その襖絵の花を園内で探した写真を並べてみました。
水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、天保13年(1842)に偕楽園を開設した時に、文人墨客や家臣、領民を招き、養老の会や詩歌の会を催した二層三階の好文亭を建て、その北側につなげて藩主夫人と御付の婦人方のために奥御殿を造りました。
残念ながら昭和20年(1945)の大空襲でどちらも焼失し再建されたときには、奥御殿の襖絵は東京芸大の須田珙中、田中青坪両画伯が植物に因んだ部屋名に合わせて描きました。
左手の杮葺き二層三階建ての好文亭に対し右手にあるのが茅葺の奥御殿で、一部杮(こけら)葺きの部分が明治になって水戸城中屋敷から移築した斉昭公夫人の貞芳院の居室だった所です。
菊の間
奥御殿入ってすぐの菊の間は、12畳相当の松板張りで、厨として使用されていました。10枚の襖に、咲き乱れるいろんな菊が描かれています。
園内で探してみると、南崖の七曲り坂の下に野菊が咲いていました。多分カントウヨメ(関東嫁菜)という品種で、この辺で一番多くみられる野菊です。
桃の間
同じく厨として使われた桃の間も松板張りの18畳の広さです。襖いっぱいに紅白の桃の林が描かれています。
桃の木は偕楽園公園の窈窕梅林の近くに、花桃が植えてあります。
躑躅の間
躑躅の間は藩主夫人お付の婦人たちが詰めたお休み処で10畳間…、向かい合わせの襖8枚に紅白の躑躅(つつじ)の絵が描かれています。
園内にはツツジやサツキなどが約250株あり、ゴールデンウイークの時期に華やかに咲き誇ります。写真の見晴らし広場の真っ赤なキリシマツツジ(霧島躑躅)は、樹齢約300年のものもあるといわれています。
紅葉の間
紅葉の間は、松の間の控えの間(次の間)として使用されました。真っ赤なモミジが床の間付き9畳の襖8枚いっぱいに描かれています。
ちょうど「紅葉の間」の外には、いつも鮮やかな色を見せてくれる紅葉の木があります。
松の間
松の間は床の間付きの9畳、藩主夫人や高貴の方の御座所や奥対面所として使用されました
園内には手入れの行き届いた黒松、赤松、多行松など見事な松が約250本あります。
さて、茅葺の奥御殿の中で東側に張り出した一画だけが屋根が杮葺きになっています。ここにある竹の間、梅の間は、もと水戸城下柵町の中屋敷にあったものを斉昭公の正室貞芳院の住まいとして明治2年(1869)にこの奥御殿に移築したものです。南側に一間の入側を付け「清の間」を付属した奥御殿内の最も高貴な部屋で、貞芳院は明治6年(1873)までここに居住し、その後水戸藩下屋敷(向島小梅邸)に移って余生を送りました。
竹の間
竹の間は11畳、隣の梅の間とここは藩主夫人貞芳院の居住空間でした。梅の間との境の欄間には、節枝付きの自然のままの丸竹が並べられています。
偕楽園表門を入ってすぐにある竹林は、開園時に京都の嵯峨、男山地方から移植したモウソウ竹が約1000本植えられており、大杉林とともに「陰の世界」を表しています。
梅の間
紅白の梅が描かれた梅の間は床の間付きですが、藩主夫人の住まいにしては狭い葵紋縁付きの畳6枚のスペース、水戸城を立ち退いてここでの生活はいかばかりだったでしょうか。
もちろん梅で知られる偕楽園、100種3000本という梅が春に先駆けて咲く梅まつりが盛大に行われます。
清の間
3畳の清の間は梅の間の付属で、配膳のための部屋というのが通説になっています。
なお、貞芳院の居住空間であった3部屋の南側には、入側という濡れ縁と座敷の間にある1間(1.8m)幅の畳敷き通路があります。
萩の間
萩の間は藩主夫人お付の婦人たちが詰めた畳10畳のお休み処で、襖14枚に萩の絵が描かれています。この天袋の小襖4枚については拙ブログ「萩の偕楽園…好文亭奥御殿「萩の間」2022.9.12」で紹介いたしました。
園内にはいろんなハギが約750株、ミヤギノハギ(宮城の萩)は伊達家(仙台藩)から頂いたといわれています。のちに斉昭公の9女八代姫が仙台藩主に嫁いでいます。
桜の間
桜の間も藩主夫人お付の婦人たちの詰めたお休み処で、8畳の襖に満開の桜が描かれています。
園内には山桜、二季桜、十月桜などがありますが、見晴らし広場にあった由緒ある「左近の桜」は残念ながら2019年9月の台風で倒伏してしまいました。今年3月には宮内省から同じ系統の苗をいただき、佳子さまがお手植えされたので、数十年後にはまた雄姿を見せてくれることでしょう。
(写真は倒伏前の左近の桜と、3月に植えられた苗木の現状です)
なお、「左近の桜」は、貞芳院が水戸家に御降嫁の際、仁考天皇から下賜された京都御所の桜の鉢植を弘道館に植えたものが枯朽してしまい、昭和38年に宮内庁から再び苗をいただいて植えたものでした。
ところで天保13年の開設時の襖絵は、藩絵師の萩谷遷喬や三好守真、岡田一琢が描きましたが、水墨画のようで弘道館の襖絵に似ていたという話が残っています。
戦災を免れた弘道館の正席の間の袋戸にある萩谷遷喬によって描かれたこの梅の絵で想像するしかありません。
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