顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

大山寺…花の寺めぐり(第3番寺)

2023年06月07日 | 歴史散歩

茨城県の北西部の寺院八ヶ寺が宗旨を超えて設けた、十二支の守り本尊と花めぐりの「花の寺」の3番寺は、城里町にある真言宗豊山派の高根山閑心院大山(たいさん)寺です。



弘仁元年(810)弘法大師の開創と伝えられ、かつては符貴山金剛王院妙法寺と称されましたが、長禄元年(1457)に宥阿上人が佐竹氏庶流の大山城主義成公祈願所として中興し高根山閑心院大山寺となりました。江戸時代には徳川将軍より代々御朱印地十石を拝領して末寺二十余箇寺を所有し、虫封じ、子授け、開運厄除に霊験あらたかとされ、近隣の信仰を集めてきました。

桜の時期の仁王堂と鐘楼です。


鐘楼は下層がスカートのように広がった優雅な袴腰造りになっています。




仁王門と筋肉の表現がすごい阿吽の仁王像、製作年代は新しいもののようです。


仁王門をくぐるともう一つの門、山門があります。切妻造りの四脚門で、蟇股、木鼻、海老虹梁などに典型的な室町末期の様式を残しています。


入母屋造りの本堂は間口十間、奥行八間、本尊の大日如来像が祀られています。


弘法大師御真筆の乾闥婆王尊画(けんだつばおうそんが)が祀られている乾闥婆王尊堂、屋根が二重になっていますが銅板葺きの平屋建てです。
堂内には卯年の守本尊文殊菩薩や不動明王2体と千手観音像もお祀りしてあります。
大山城主8代の義勝は子がなく乾闥婆王尊に祈願したところ、男子が誕生したので、願文を記して大山寺に感謝の意を表した書が寺宝として残っています。


光明殿は回廊で本堂、婆王尊堂と結ばれている檀信徒館です。


弘法大師堂中央の高さ五尺余の台石の上に弘法大師の座像が安置されています。


大畠祖先碑というお堂がありました。木札には「大畠飛騨守藤原四郎兵衛吉方公廟」とあり天正14年11月28日没と書かれています。天正14年(1586)といえば織田信長憤死4年後で豊臣秀吉が政権を確立した時期、この地で大畠吉方のどんな歴史があったのかは不明です。

ところで大山(たいさん)寺を祈願所とした佐竹一族の大山(おおやま)氏の居城大山城は、約850m東にある比高20mの台地の上にありました。現在はホテル大山城の城郭風の建物がそれらしい雰囲気は出しています。

大山城は長承元年(1132)大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の築城が最初といわれています。康安2年(1362)佐竹氏9代佐竹義篤の子義孝が修築し大山氏を名乗り、約230年の間居城としました。

延徳2年(1490)山入の乱という一族間の争いでは、本拠の太田城を追われた佐竹氏16代義舜が母方の大山氏を頼り、支城孫根城に約10年間匿われたため戦闘の舞台になりました。結局、明応9年(1500) 攻め寄せた山入氏に追われた義舜は、金砂山城に逃れて応戦し、2年後にはこの戦いに勝利して常陸太田城を奪還、この内戦に終止符を打ったターニングポイントの城でした。
しかし慶長7年(1602)には佐竹氏の秋田転封に大山氏も従ったため、城はすべて廃城になりました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿