水戸藩2代藩主徳川光圀公は、寛永年間(1660年代)に約百種類の樹木を那珂川沿岸に植え「百色山」という見本林を造りました。それから約275年後、義公生誕300年にあたる昭和3年(1928)、水戸の豪商で井傳醤油4代目の木村伝兵衛が衰退した百色山の再現を模して、祖父の土地約0.7haに樹木園建設を計画しました。
当時帝国大学に勤めていた牧野富太郎博士にも指導を仰ぎ、旧制水戸高校の教授など学者有志の協力のもと裸子植物3科61種、被子植物61科324種、総数856本が分類収集され、5年後の昭和8年(1933)「百樹園」として開園しました。
なお、後を継いだ5代目の木村伝兵衛は、14代水戸市長を勤め水戸市森林公園の開設や桜田門外の変以来の歴史的わだかまりを超えて彦根市と親善都市盟約を締結したことで知られています。
なお、この百樹園は昭和61年(1986)に水戸市に移管され都市公園として市民の憩いの場になっています。
碁盤の目のような整然と区切られた60区画の間に園路がめぐっています。
それぞれに名札の付いた樹木は、見上げるような大木もあります。
樹木ばかりでなく草花も植えられています。
ツツジ類が終わり、カルミヤ(西洋シャクナゲ)が咲いていました。
東屋もあり市街地の中とは思えない静寂な空間、普段は人影もありません。
たまたま水戸市植物公園では、牧野富太郎を紹介する展示コーナーが設置されていました。
当時百樹園内にあった洋館に掲げられていた博士揮毫の百樹園という書も展示されていました。
昭和3年、園主木村君の依頼により、牧野結網と雅号が書かれています。なお、博士は百樹園の開園式典にも列席されました。
水戸市植物園の園長が学生時代に古書店などで収集した牧野博士の書籍や、精密な博士の書いた植物図なども並んでいました。
さて、「百樹園」の原点である光圀公創設の「百色山」を訪ねました。往時の姿を留めてはいないようですが、残念ながら護岸工事の真っ最中でした。
立ち入り禁止の柵外から撮った那珂川です。ちょうど遠方に舟の見える一部中洲状態に見えるあたりが百色山になっています。
光圀公は水戸城から那珂川を舟で下って訪れた行程が航空写真で見ると良く分かります。那珂川河口にある那珂湊や大洗、涸沼などにも舟でたびたび出かけたという記録が残っています。
護岸工事は今年いっぱいかかるようですので、完成後に機会があったらまたレポートしてみたいと思います。
また、百色山は職場からの帰りに、疲れてしまって、時々休息を取った所です。
どちらも馴染み深い場所だったのですね。
40年位前に百樹園でギンナンをたくさん拾った記憶
があります。家からまっすぐですので、百樹園前の狭
い道路はよく通りますが、入園したのはそのギンナン
の時以来でした。最近北側に広い道路ができましたが、
なぜか狭い道の方を選んでしまいます。
牧野博士が絡んでいたのは、今回初めて知りました。
コメントありがとうございます。