goo blog サービス終了のお知らせ 

顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

紫蘇の実の収穫時期

2017年09月16日 | 家庭菜園
紫蘇の実の収穫時期は、紫蘇の穂先に白い花が2,3個残っている頃です。この最適の時期は思ったより短く、遅くなると食感がゴソゴソになるし、また早すぎると紫蘇の実のプチプチ感がなく、採取時に指でしごくと穂が途中で切れてしまいます。
紫蘇の実は、抗酸化作用が強いβカロテンやビタミン類を多く含み、繊維質も多いそうですが、何よりもその爽やかな香りが魅力です。
手にアクや色がついてしまうので、薄いビニール手袋をつけてせっせと実をしごいた結果、写真の山が3つ収穫できました。指についた汚れは石鹸ですぐ落ちますが、紫蘇のいい香りは一日中鼻腔に残り、ほかの匂いを受け付けません。
我が家ではこれを味噌漬けにして、田舎の道の駅で売っている野菜の味噌漬けを細かく切って混ぜ、保存瓶に入れて長期間食しています。
季語は、もっぱら葉を詠む「紫蘇」は夏ですが、「紫蘇の実」になると秋です。

紫蘇の実をしごけば小さき花残る  佐藤茅江
紫蘇の実の匂へば遠き母のこと  伊藤伊那男
紫蘇の実をしごいては嗅ぐ生に倦み  山口誓子

偕楽園萩まつり 2017

2017年09月14日 | 水戸の観光
第50回になる偕楽園の萩まつりが9月20日まで行われています。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が、開園時に仙台藩から譲り受けた宮城野萩の他、山萩、江戸白萩、日光白萩、丸葉萩の5種類、何株かを寄せ植えした群が約750群あり、涼しげに咲き競います。

また、まつり期間中は毎日、偕楽園の開園時間を夜9時まで延長し萩をライトアップしています。
萩はマメ科の落葉低木、偕楽園では10月末頃にすべて刈ってしまい、その枝を竹林周りの柴垣(萩垣)の材料とします。残った株から春にたくさん芽を出すため、生え木と呼ばれ、それがハギに転化したといわれています。

さて、マメ科の花のかたちを蝶形花冠といい、5弁の花びらにはすべて名前が付いています。

旗弁(きべん・はたべん)は、最も大きく,目立つ花弁で昆虫を呼び寄せる役目をします。翼弁(よくべん)は鳥の翼にたとえた左右の花弁、舟弁(しゅうへん)は舟の形の下部の花弁で二枚合わさった中に蕊が隠れています。
蜜の在り処を示すランドマーク(蜜標)は旗弁の根元にあり、昆虫が顔を突っ込んで蜜を吸う時の足場が翼弁で、その時に昆虫の腹に押されて舟弁が開き雄蕊、雌蕊が昆虫に触れて受粉するという自然の仕組みになっているそうです。

いつ刈ると問はるる萩を不憫とす  後藤夜半
さびしさをこぼれて見せつ萩の露  立羽不角
猪も抱かれて萩のひと夜かな  高尾太夫


なお、梅の花に雄蕊の一部が花弁になる旗弁現象が見られます。昆虫を呼ぶためにさらに高く旗を上げるのか、その理由は解明されていませんが、種類によっては数多く見られ面白いので説明させていただくことがあります。



高舘山の麓、西明寺  (益子町)

2017年09月13日 | 歴史散歩

西明寺城(高館城)は平安時代後期頃、紀貫之の子孫が宇都宮氏の家臣としてこの地で益子氏を名乗り、標高301.8mの高館山に築いた山城。南北朝時代には南朝方の関東六城(関、大宝、真壁、伊佐、中郡、西明寺)の最北端の城として活躍しましたが、天正17年(1589)主家の宇都宮氏などによって滅ぼされ廃城となりました。

城域は高館山山頂を中心として、北・南・西の三方に伸びる尾根に郭を設け、南西側は西明寺のある辺りまで城郭遺構が残っています。

城郭の一番下付近に位置する西明寺は、築城より300年以上前の天平9年(737)行基菩薩の草創で、天平11年(739)落慶供養が行われたと伝えられますが、たびたび兵火に遭って建物は消失しています。天文7年(1538)に益子家宗によって建立されたものだとされる三重塔は、九輪の上の水煙が独特の形をしており、関東甲信越四大古塔とされ、国指定の重要文化財なっています。

同じく重要文化財の楼門は入母屋瓦葺き、阿吽の仁王像が配置されており、明応元年(1492)の建立、室町時代の特色をよく表しています。

本堂のご本尊十一面観音立像などの仏像を納めている厨子(扉の付いた物入れ)も、重要文化財に指定されており、内部の柱に応永元年(1394)の墨書がありますので金閣寺の建てられた頃のものです。輪違い紋が所々に見られますが、真言宗豊山派の紋だそうです。

この寄棟茅葺きの閻魔堂は正徳4年(1714)建立、寛保3年(1743)再建されたもので、中には5体の仏像が並んでおり、主役の怖い閻魔様が笑っているので「笑い閻魔」として知られています。

確かに右の善童子は笑みを浮かべ、中央の閻魔大王もつられて笑っているように見えます。鎌倉の円応寺にある運慶作の笑い閻魔も有名だそうですが、西明寺のホームページによると、「閻魔の横には地蔵菩薩が立っていますが、閻魔はそのお地蔵の化身といわれます。他人のためなら地獄にも行くという、お地蔵は決して怒りません。いつも笑みを浮かべており、その真言は「ハハハ」という笑い声。だから、その化身である閻魔は笑っているというわけです。」

天然記念物の樹齢750年の高野槙や椎の古木群に囲まれた鬱蒼とした境内…、参道脇にこれも天然記念物の四角竹がありました。写真ではわかりませんが、確かに円筒ではなく角型の竹でした。

なお、ここの住職で3月に亡くなった田中雅博さんは、慈恵医大卒業、国立がんセンターに勤務、その後立正大学で仏教を学び西明寺を継いだ方、境内に入院病床を備えた診療所などを建て内科医としても働き、緩和ケアなどスピリチュアルケアを訴え続け著書も何冊か出しましたが、ご自身も癌に倒れてしまいました。

散歩の道すがら

2017年09月09日 | 散歩

アレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)は北米原産、1965年に大阪で帰化を確認され、あっという間に全国へ広まりました。名前の由来は、実が知らない間に盗人のようにこっそり服に付く、または実の形が盗人の忍び足の足跡に似ているという2説があります。

畑の一画に毎年ダリアを栽培している家があります。多種多様な色や形の花が栽培され、花壇ではおなじみの花ですが、これだけまとまると見事です。名前は、スウェーデンの植物学者ダール氏の名前にちなんでつけられたそうです

ショウジョウソウ(猩々草)もほぼ野生化しています。クリスマスの花ポインセチアの仲間です。花の下の苞葉が赤く色づくことから、酒好きで赤い顔の架空の動物、猩々を連想して名づけられました。

花壇の端のオミナエシ(女郎花)、近くの山野では見かけなくなりました。楽しみにしていた高速道の側道のいつもの場所に、今年は発見できませんでした。

祝儀に使われる水引に似ている花、ミズヒキ(水引)はタデ科の小さな花ですが、地味ながら野趣に富んだ魅力があります。

でっかーいカボチャ!重さを競う品評会にでも出すのでしょうか。ゆうに1mはある大きさです。

かたまって出ているきのこ、ハタケシメジ?色が茶色過ぎる?傘の頂点の膨らみがない?クワバラクワバラ、分からないきのこは止めておきましょう。
いつの間にか秋の気配…金木犀の匂う頃になると、きのこのシーズンになりますが、すっかり遠ざかってしまいました。

中世の城郭…小幡城 (茨城町)

2017年09月06日 | 歴史散歩
巨大迷路のような堀と高い土塁、幾つもの郭など…当時の姿がほぼそのまま残っている中世の城、小幡城址は知る人ぞ知るお城マニアの高評価スポットです。

Google mapで見ると、水田に囲まれた森のような台地が平山城の小幡城です。北東の鬼門方向には香取神社があります。

香取神社から見た小幡城、この神社も出城の一つだったかもしれません。当時も豊穣な大地がこの地方を潤していたことでしょう。

築城は大掾詮幹の三男義幹による室町時代(1420年頃)と、小田知重の三男光重の鎌倉時代(1220年頃)という二説があります。
室町時代には水戸城の江戸氏の間で主従に近い関係でしたが、5代小幡義清はそれまで親交を深めてきたその江戸氏と不和となり、北進を狙っていた小田城の小田成治の助勢で文明13年(1481)、江戸通雅の軍と大掾・小田連合軍が七日七夜戦って勝敗がつかなかった小鶴原大合戦が伝えられています。(史実ではないという説もあります。)

その後、微妙な勢力バランスが続きましたが、天文元年(1532)、8代小幡春信は江戸忠通に内通する者により大洗磯崎神社参拝の帰路、襲われて死亡、小幡城も留守を預かる城主の伯父秋葉三郎義行が奮戦するも落城、城は江戸氏の属城となりました。さらに天正18年(1590)には、秀吉により常陸の所領安堵を受けた佐竹義宣が、水戸城の江戸氏から城を奪い、府中城の大掾氏は滅亡、この時小幡城も落城して城の歴史を終えました。その後慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封までの12年間、小幡城は佐竹氏の支配下に置かれていたようです。

現地案内板にある通りの土塁と空堀がほぼ残っています。長い年月で今は巨木に覆われていますが、空堀を掘って高い土塁を盛り上げる土木工事は、地方の小領主にとって、相当な労働力を必要としたことでしょう。

左が二の郭、右が武者走りのある土塁です。突き当りは直角に曲がる鍵の手になっており、堀底道を攻めてきた敵軍は、武者走りのある土塁の上から狙い撃ちされてしまう仕掛けになっています。

中世の城は水のない空堀が多く、ここ小幡城も堀底は通路として利用され、いざ戦いの時には敵を誘い込む役目もしました。左側が本丸、右手は五の郭です。

本丸跡は、周りを五つの大きな郭で囲まれた平らな一画で、ここと二の郭は城主と重臣の居住地と思われます。鬱蒼とした暗い空間に、白いヤブミョウガ(薮茗荷)の花が鮮やかでした。

落城の際、姫君が家宝の金の鳶を抱いて身を投げたという井戸の跡です。佐竹の大軍の前に城主一族は腹を切り、喉を突いて果て、近隣十城十八砦一夜にして滅ぶと伝わっています。

お城好きの春風亭昇太のブログ「ザブトン海峡・航海記」にも「「小幡城」はお城好きの、どなたのHPをのぞいても最大級の評価がされている、茨城の名城なのだ!土橋、虎口土塁の高さ、それを作った土木量!噂に違わぬ名城の迫力に開いた口が塞がらない!」と書かれています。