水戸藩の郷校「時雍館」は弘化元年(1844)の創立ですが、この年に藩主斉昭公が失脚したため開館延期になり、藩政参与を許された嘉永3年(1850)より郷医を中心に郷士、神官や農村の有志が和漢の学問や医学の研修に励みました。安政4年(1857)より野口郷校と称し、この頃から武芸の訓練も始まり農兵が徴集されるようになり、文久2年(1862)に18歳で館長になった田中愿蔵は、元治元年(1864)3月天狗党に200余名を引き連れて参加しました。
その後の悲惨な末路は、拙ブログ「田中愿蔵刑場跡」で紹介させていただきました。
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この年の8月1日、市川三左衛門派の農兵勢力が留守の時雍館と幹部の家を急襲し、開館時に村内の有志達の献金によって揃えられた15000冊もの書籍もろとも館も焼失してしまいました。
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敷地の南には、那須地方から那珂川が流れ、御前山が立ち向かっています。
ここにも御前山城がありましたが、城主など一切は不明で、また奈良時代に孝謙天皇が下野に配流となった弓削道鏡と暮らしたなどとも伝えられるので、余計に怪しくなってしまいます。
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野口郷校は明治になって最後の水戸藩主徳川昭武の命で再建され、その後仮の郡役所にもなりましたが、やがて小学校として教育の場を継承しました。その野口小学校も伊勢畑小学校、長倉小学校と合併して平成21年御前山小学校となり廃校となったのもまた時代の流れです。
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時擁館の東側には土塁らしき一段高くなっている所があり、その先が野口城の跡です。
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野口城は正暦2年(991)に藤原秀郷の子孫通直が築いたのが始まりといわれ、那珂・川野辺両郡を支配したので川野辺城とも呼ばれました。応永元年(1394)、佐竹景義がこの城を治めましたが、山入の乱では天文9年(1540)に佐竹義篤が反乱した野口城を攻め城主野口直之允を殺害し、城は廃城になったと言われています。
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子供の去った校庭はやけに広く静かに感じます。郷校時代の軍事訓練の声も、小学校の運動会の歓声も秋の渓の中に埋まり、校庭の雑草の間には野菊(シラヤマギク)が咲いていました。(10月26日)
その後の悲惨な末路は、拙ブログ「田中愿蔵刑場跡」で紹介させていただきました。
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この年の8月1日、市川三左衛門派の農兵勢力が留守の時雍館と幹部の家を急襲し、開館時に村内の有志達の献金によって揃えられた15000冊もの書籍もろとも館も焼失してしまいました。
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敷地の南には、那須地方から那珂川が流れ、御前山が立ち向かっています。
ここにも御前山城がありましたが、城主など一切は不明で、また奈良時代に孝謙天皇が下野に配流となった弓削道鏡と暮らしたなどとも伝えられるので、余計に怪しくなってしまいます。
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野口郷校は明治になって最後の水戸藩主徳川昭武の命で再建され、その後仮の郡役所にもなりましたが、やがて小学校として教育の場を継承しました。その野口小学校も伊勢畑小学校、長倉小学校と合併して平成21年御前山小学校となり廃校となったのもまた時代の流れです。
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時擁館の東側には土塁らしき一段高くなっている所があり、その先が野口城の跡です。
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野口城は正暦2年(991)に藤原秀郷の子孫通直が築いたのが始まりといわれ、那珂・川野辺両郡を支配したので川野辺城とも呼ばれました。応永元年(1394)、佐竹景義がこの城を治めましたが、山入の乱では天文9年(1540)に佐竹義篤が反乱した野口城を攻め城主野口直之允を殺害し、城は廃城になったと言われています。
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子供の去った校庭はやけに広く静かに感じます。郷校時代の軍事訓練の声も、小学校の運動会の歓声も秋の渓の中に埋まり、校庭の雑草の間には野菊(シラヤマギク)が咲いていました。(10月26日)
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