無量寿とは計り知れない寿命の意味で阿弥陀如来のことだそうです。この名前の寺は天台宗や禅宗、念仏宗などにもあリますが、浄土真宗の無量壽寺が鉾田市に2つあり、山号も院号も同じ、どちらも親鸞聖人門下二十四輩の第三番鹿島順信房信海の遺跡とされています。
無量壽寺(浄土真宗本願寺派) 光明山無碍光院 鉾田市鳥栖1013

開基は三輪宗という仏教宗派でその道場に大同元年(806)、平城天皇の勅願所として建てられました。その後親鸞聖人の関東教化の影響を受け浄土真宗に改宗、名前も無量寿寺と改めました。

親鸞聖人については次の言い伝えがあります。
「承久3年(1221)、この地方を治めていた地頭の妻が難産の末に亡くなり、この寺に葬られた。しかしその妻が幽霊となって土地の人を恐れさせていたため、親鸞聖人が笠間の稲田草庵(西念寺)より鹿島神宮へ参詣するため近辺を通ることを知り、幽霊をとりしずめてもらうよう願ったところ、聖人は村人が集めた小石にお経を1文字ずつ書いて、妻の塚に埋めたところ幽霊はあらわれなくなったという。」

このことを契機として親鸞はこの寺に三年逗留し布教につとめ、あとを弟子の順信房に譲り、阿弥陀仏信心の布教に専念しました。順信房は、京都より鹿島に来て片岡に住んだ大中臣宮司家系の鹿島神宮神官出身の僧侶でした。

境内には本堂・山門や珍しい形状の鐘楼堂などがあり、県の文化財に指定されています。
山門は、扉付き四脚門形式で、左右に袖塀がついています。屋根は当初茅葺でしたが、現在は銅板葺となっています。木鼻の繰形、板蟇股、花肘木の曲線などから判断して、元禄年間(1688~1704)の建築とされています。

葺き屋根の本堂は、慶長3年(1608)に火災のため焼失、その後、宝永3年(1706)15代順以のころ再建されました。寺宝も多く、覚如筆・土佐光信画の『拾遺古徳伝絵』(法然上人の伝記)は国の重要文化財です。
残念ながら2021年1月21日に本堂屋根裏から出火、木造平屋の本堂と木造2階建て住宅、木造平屋書院の計約740平方メートルを全焼してしまいました。
国指定文化財の絵巻「紙本著色拾遺古徳伝」は無事だったようですが。

無量壽寺(浄土真宗大谷派) 光明山無碍光院 鉾田市北富田542

親鸞聖人二十四輩第3番順信坊の開山とされます。

親鸞聖人は、鹿島神宮参拝の行き帰りにこの地方の教化に励んでおり、その際、建保4年(1216)、巴川の畔の小高い丘、塔の峰に草庵を建て休憩所とされたことに始まるといわれています。

鳥栖の無量寿寺に住んでいた親鸞の弟子、順信坊が晩年70歳ころになって塔ノ峰のこの草庵に移り、草庵を無量壽寺とし、やがて寛永10年(1633)現在地に移りました。 鳥栖の無量寿寺と同じく親鸞聖人の幽霊済度の伝説がここにも残っているそうです。

寺紋は徳川家ゆかりの立ち葵のように見えますが、由緒は分からず終いでした。
山号院号寺号とも同じ名前の無量壽寺が2.7キロしか離れていない地区にありますが、親鸞ゆかりの寺と、そこを任せられた弟子の順信坊が晩年隠居して移った寺ということのようでした。