顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

2つの無量壽寺 (鉾田市)

2018年05月13日 | 歴史散歩
無量寿とは計り知れない寿命の意味で阿弥陀如来のことだそうです。この名前の寺は天台宗や禅宗、念仏宗などにもあリますが、浄土真宗の無量壽寺が鉾田市に2つあり、山号も院号も同じ、どちらも親鸞聖人門下二十四輩の第三番鹿島順信房信海の遺跡とされています。

無量壽寺(浄土真宗本願寺派)  光明山無碍光院    鉾田市鳥栖1013
開基は三輪宗という仏教宗派でその道場に大同元年(806)、平城天皇の勅願所として建てられました。その後親鸞聖人の関東教化の影響を受け浄土真宗に改宗、名前も無量寿寺と改めました。
親鸞聖人については次の言い伝えがあります。
「承久3年(1221)、この地方を治めていた地頭の妻が難産の末に亡くなり、この寺に葬られた。しかしその妻が幽霊となって土地の人を恐れさせていたため、親鸞聖人が笠間の稲田草庵(西念寺)より鹿島神宮へ参詣するため近辺を通ることを知り、幽霊をとりしずめてもらうよう願ったところ、聖人は村人が集めた小石にお経を1文字ずつ書いて、妻の塚に埋めたところ幽霊はあらわれなくなったという。」
このことを契機として親鸞はこの寺に三年逗留し布教につとめ、あとを弟子の順信房に譲り、阿弥陀仏信心の布教に専念しました。順信房は、京都より鹿島に来て片岡に住んだ大中臣宮司家系の鹿島神宮神官出身の僧侶でした。
境内には本堂・山門や珍しい形状の鐘楼堂などがあり、県の文化財に指定されています。
山門は、扉付き四脚門形式で、左右に袖塀がついています。屋根は当初茅葺でしたが、現在は銅板葺となっています。木鼻の繰形、板蟇股、花肘木の曲線などから判断して、元禄年間(1688~1704)の建築とされています。
葺き屋根の本堂は、慶長3年(1608)に火災のため焼失、その後、宝永3年(1706)15代順以のころ再建されました。寺宝も多く、覚如筆・土佐光信画の『拾遺古徳伝絵』(法然上人の伝記)は国の重要文化財です。

残念ながら2021年1月21日に本堂屋根裏から出火、木造平屋の本堂と木造2階建て住宅、木造平屋書院の計約740平方メートルを全焼してしまいました。
国指定文化財の絵巻「紙本著色拾遺古徳伝」は無事だったようですが。



無量壽寺(浄土真宗大谷派)   光明山無碍光院   鉾田市北富田542
親鸞聖人二十四輩第3番順信坊の開山とされます。
親鸞聖人は、鹿島神宮参拝の行き帰りにこの地方の教化に励んでおり、その際、建保4年(1216)、巴川の畔の小高い丘、塔の峰に草庵を建て休憩所とされたことに始まるといわれています。
鳥栖の無量寿寺に住んでいた親鸞の弟子、順信坊が晩年70歳ころになって塔ノ峰のこの草庵に移り、草庵を無量壽寺とし、やがて寛永10年(1633)現在地に移りました。 鳥栖の無量寿寺と同じく親鸞聖人の幽霊済度の伝説がここにも残っているそうです。
寺紋は徳川家ゆかりの立ち葵のように見えますが、由緒は分からず終いでした。

山号院号寺号とも同じ名前の無量壽寺が2.7キロしか離れていない地区にありますが、親鸞ゆかりの寺と、そこを任せられた弟子の順信坊が晩年隠居して移った寺ということのようでした。

マグロ丼 (悠久)

2018年05月11日 | 食べログ
大洗町の「悠久」、名前からも寿司屋らしからぬ気構え、しかもこの辺では珍しい店舗前の竹矢来、軒下を通る犬や猫の放尿から壁を守ったり、盗み聞きをされないために京都等の町家に付けられたものです。
風が強く5月にしては寒かったので、昼間から頼んだ熱燗と自家製の烏賊の塩辛が美味しくて、趣きのある酒器に入った地元の月の井を、ついおかわりする始末でした。

さて、美味しいと食べログでみたマグロ丼は大ぶりの赤身と中トロが4枚ずつ、真ん中には口の中でとろけるトロに近い中落ちがしっかと載って、存在感のある海苔が覆っています。いっぱい載っているので、月の井のお供に少し借用しても余裕、久しぶりに美味しいマグロを食べた気がしました。

烏賊の塩辛づくりには自信のある仙人も、さすがに完敗の旨さ…、カウンター越しにオーナー板さんに聞いた塩辛の秘訣、材料のスルメ烏賊の質、一晩寝かせる肝は開く、ゲソも皮むき吸盤とる…など、ぜひ挑戦してみたいと思いました。


弘道館本開館日は、161年前の5月9日

2018年05月09日 | 水戸の観光

当時最大規模の水戸藩の藩校、弘道館は177年前の天保12年(1841)に仮開館し、さらに施設や教育制度を整えて、161年前の安政4年(1857)5月9日に本開館しました。本開館式では、鹿島神宮から弘道館鹿島神社への分祀遷座と、孔子廟へ孔子神位を安置する祭式が行われた後、正庁で教職や学生が集まり、教授頭取の青山延光が読み上げる「弘道館記」を拝聴したとされています。

今日は161年後の5月9日、本開館の日を記念したイベントが雨の中行われました。
105,000㎡(32,000坪)の弘道館敷地の真ん中に置かれた八卦堂には、建学の精神を記した斉昭公の撰文、書による弘道館記碑が納めてありますが、通常非公開の内部が公開されました。

弘道館記碑は、久慈郡の真弓山から採れる水戸藩の御用石で大理石の一種寒水石ですが、昭和20年の水戸空襲で覆堂の八卦堂が燃えた時に傷み、さらに東日本大震災では崩壊してしまいましたが、文化庁が半年以上かけて破片をつなぎ合わせた痛ましい姿で建っています。

当時の藩校には付きものの、学問の神様「孔子」を祀った孔子廟も内部が公開されました。孔子の故郷山東省曲阜を向いて建てられ、正門の戟門は創建当時のもの、両側にある楷の木は、曲阜の孔子の墓から種子を採取したものといわれ、会津藩校日新館から寄贈されました。

孔子神位を中心に、右に願子、子思、左に曾子、孟子が祀られています。屋根に置かれた架空の動物、鬼犾頭(きぎんとう)と鬼龍子(きりゅうし)が孔子廟の特徴です。

建学の精神「文武不岐」と「神儒一致」を象徴する鹿島神社でも月次祭が行われていました。空襲で焼失後、昭和49年(1974)の伊勢神宮式年遷宮の際、別宮「風日祈宮(かぜひのみのみや)」宮殿一式が譲与されたものです。そのため武の神、建御雷神に似合わず内削ぎの千木と6本の堅魚木になっています。

弘道館正庁には、本開館式の鹿島神社遷宮式で奏上された祝詞が特別展示されていました。撰者は青柳村の小川修理、奏上は静神社長官の斎藤監物で末裔から寄託されたものです。斎藤監物は、この7年後に桜田門外の井伊大老襲撃に加わり、重傷を負いながら老中脇坂邸に訴状を提出し数日後亡くなりました。39歳。辞世は「君がためつもるおもひも天つ日にとけてうれしき今朝の淡雪」です。

弘道館で学んだ斉昭公の七男で最後の将軍徳川慶喜公は、150年前の明治元年に新政府に恭順の意を表してここ至善堂で謹慎をしました。その模様を羽石光志画家が描いた時の下絵がこのたび遺族から寄贈され、肖像画とともに展示されています。

勘十郎堀① 大貫運河

2018年05月08日 | 歴史散歩

水戸藩3代藩主徳川綱條の時代、藩政改革のため宝永3年(1707)から他藩の改革に実績のあった松波勘十郎を起用し、江戸に至る物資輸送ルートの運河を掘削した勘十郎堀は、「紅葉運河」と「大貫運河」の2つの大工事でした。

そのうち「大貫運河」は涸沼川を太平洋へ直接繋ぐ長さ約1キロの工事で、宝永4年(1708)11月7月に着工、ここはかって自然の河口だったので掘りやすく11月中には海と繋がりましたが、暮れには海口が砂で埋まってしまい、改修工事をしてもすぐ大波で砂が押し寄せ、舟が入ることは出来なかったようです。写真は、現在残る堀の一部で、向こうは涸沼川です。

昭和50年頃までは、上記地図のA地点からB地点までは運河が残っており、堀河(ほっかわ)と呼ばれ親しまれてきましたが、今は海に向かう4車線の道路となり、名前だけ「大貫勘十郎堀通り」として残っています。
結局この勘十郎堀は、もう一つの長さ約10kmで深さも最大30mにもなったという「紅葉運河」が難工事で、一揆まで起きる始末になり宝永6年(1709)に中止、松波勘十郎は追放された後に捕らえられ、宝永7年(1711)に赤沼の獄にて獄死したそうです。

なお、この地区は小説「侍ニッポン」でお馴染みの作家、郡司次郎正が育ち、晩年釣舟店を営んでいたところで、堀入り口の涸沼川畔には現在も郡司釣舟の看板が上っています。

大洗駅近くの花池寺墓地には北条八十作詞の映画主題歌「人を切るのが侍なぁらぁばぁ♪恋の未練がなぁぜぇ切ぃれぇぬ♬…」の歌碑が建っています。作曲の松平信博は将軍家の始祖系の松平郷松平家の第20代当主だそうです。

連休点描

2018年05月04日 | 日記

鹿島灘の潮干狩り区域は、年々減少する漁獲高に対処する稚貝保護のため、今年から沿岸40キロあった許可区域が約3キロに縮小されました。ここ大洗海岸でも潮干狩り区域は1300mになってしまい、そのためか家族連れで海水浴時のような混雑です。

3センチ未満のハマグリは採取禁止、ヒラガイも採ってはいけませんとありますが、嬉しそうな顔の子供のバケツを覗いてみると、??です。貝の区別なんてわからないし、どのバケツもこのくらいの量でしたので、お見逃しのほど…。

大洗アウトレットが新しく大洗シーサイドステーションと名前を変えてオープン、地元のシンガーソングライター磯山純のライブが行われていました。なんとか盛況を盛り返してもらいたいものです。

いつもは静かな涸沼自然公園でも、連休の家族連れの賑やかな声が聞こえています。

散策路を覆うハルジオン(春紫苑)、一部の地方では「貧乏草」と呼ばれ、折ったり、摘んだりすると貧乏になってしまうと言われているそうなので、ご注意を。

水辺のオランダカラシ(和蘭芥子)、明治初めに在留外国人用の野菜として導入されたのが最初で、その後の野生化は、東京上野のレストラン精養軒で料理に使った茎を排水として不忍池に流して根付いたものが、やがて全国に広がったと伝えられています。

キランソウにしては茎が立っているので調べたら、園芸種のセイヨウジュウニヒトエ(西洋十二単)の野生化したもののようです。日本古来のジュウニヒトエは絶滅危惧種になりつつあります。

この時期あちこちで見かけるミズキ(水木)は、15mにもなる大木で花が階段状に咲くのでよくわかります。春先に枝を切ると、水のような樹液がでることからの命名です。ありふれた花でもよく見ると美しく、4本の雄蕊もしっかと存在感を出しています。

ツクシ(土筆)の親、スギナ(杉菜)です。優しい植物のように見えますが、繁殖力も強く、取っても取っても出てくる根の深い雑草で退治には一苦労です。地下に残っている茎から春一番に出てくるのが、胞子をつける特別な茎(ほうしけい)のツクシです。