顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

新春 蕗の薹味噌

2019年01月10日 | 日記

久しぶりの散歩道、いつも伽羅蕗の蕗を採取する土手を覗いたら蕗の薹の頭がいくつか見えました。

せっかく土の中から出てきたのを、まだ可哀想と思いながらも春の香りに惹かれて3つだけ採らせていただきました。

早速熱湯に塩を入れて10秒くらいくぐらせると綺麗な緑色になります。水を切って細かく刻みサラダ油を引いたフライパンで弱火で炒めます。
レシピには味噌に砂糖、みりん又は酒を入れるとありますが、甘さ苦手なので酒で練ったものをフライパンの蕗にまぜ、水分が飛んだら出来上がりです。

菜園で咲き出した菜花を添えて蕗の薹味噌の出来上がり…やはり味見しながら甘さをほんの少し入れたほうが、味に深みが出たかもしれません、反省。
しかし昔からいわれる冬眠の五臓六腑に春の苦さが届いて目覚めさせるという効果は、よく合った酒とともに充分発揮された気がしました。

甦る春の地霊や蕗の薹  杉田久女
蕗の薹つむりそろへし二つかな  上村占魚
蕗味噌をなめて俳諧はかく寂びし  山口青邨

佐竹氏の興亡の歴史…山方城 (常陸大宮市)

2019年01月06日 | 歴史散歩

久慈川の河岸段丘が東に舌状に伸びた台地上に築かれた山方城は、標高約80m,比高約40mの連郭式平山城で、西側に詰の城となる高館山が控えています。
佐竹氏12代義盛に男子がなかったため、応永15年(1408)関東管領上杉憲定の次男義憲(義人と改称)を養子に迎えた時、後見人として美濃山方から常陸に入った上杉一族の山方能登守盛利が居城したと伝えられています。

城は先端からⅠ郭の御城、Ⅱ郭の中城、そして家臣の住居の広いⅢ郭の外城で構成されており、Ⅰ郭には資料館にもなっている御城展望台という模擬天守が建っています。

今は農地になっている中城(Ⅱ郭)は、東西70m、南北73mの広さで居館跡と考えられます。草の生えているところから模擬天守までがⅠ郭です。

中城(Ⅱ郭)と外城(Ⅲ郭)の間の堀切です。
ところでこの上杉家からの養子に反対したのが、佐竹庶流の山入、長倉、額田の山入勢で、源氏の血統の佐竹氏に藤原氏の上杉一族の血が入ることは正統が保てないと兵を挙げました。これが山入の乱でその後100年に亘り佐竹宗家と庶流系連合の争いが続きました。

御城と中城南下の横堀跡です。
この山入の乱の備えで、佐竹15代の義治の五男東政義が一時山方城に入り、その間山方氏は龍ケ谷城を築きましたが、その後東氏は小里に移ったため御城に戻り合わせて7代に亘りこの地を領しました。やがて慶長7年(1602)の佐竹氏秋田移封に伴い山方氏は一族あげてこれに従い、城は廃城になりました。

御城展望台から西方に高館山(140m)が見えます。山上には土塁と堀切で連郭式に区画された城郭遺構が残されており、西側の攻撃を防ぐとともに、城が落ちた場合の詰の城であったともいわれています。

展望台から見ると、東の真下には久慈川が流れています。南側には皆沢川、西側に高館山を控えた要害であることを実感できます。

南側の皆沢川にかかる橋は、嘆願橋と呼ばれ城内に入ることを許されなかった領民は城の手前のこの橋で嘆願をしたといわれます。手前の集落は今でも根古屋という字名で下級家臣団の居住区とされています。

地元の方の話では、天守ができた昭和62年当時は観光バスも来たそうですが、今は訪れる人もなくひっそりとした城址です。
立地もいいし、近くに温泉も多いので何とか施策を考えていただきたいものです。なお、御城展望台の入場料は、なんと100円、申し訳ない気分で払ってきました。

新春 2019

2019年01月03日 | 日記

新しい年の感動は加齢とともに薄れ、一休禅師の「正月や冥途の旅の一里塚」の心境になってきました。

大洗サンビーチ、大晦日の撮影です。年末年始は日本海側の方には申し訳ないような好天が続き、海もベタ凪でサーファーも為す術なく浮かんでいます。
雪に覆われた苫小牧からのフェリー「さんふらわー」がちょうど入港してきました。

明けて1月2日午後、偕楽園公園内にある神社の初詣風景です。
偕楽園に隣接の常磐神社では参拝者の長い列が続き、御札や破魔矢などを求める方も切れ目なく続いています。
いろんな宗教の形式的なところだけを取り入れているわが民族のひとりですが、並んでまでのお賽銭はつい遠慮してしまいました。

ここは水戸藩第2代藩主徳川光圀公(義公)・第9代藩主徳川斉昭公(烈公)を祀る神社で、明治の初めに義公・烈公の徳を慕う人々によって偕楽園内に創立された祠堂が勅旨をもって「常磐神社」の社号を賜り、明治7年(1874)、現在地に社殿を造営、水戸大空襲での焼失後、昭和33年(1958)現在の社殿が再建されました。

茨城県護国神社では大きな篝火が焚かれていました。桜山の一画にある立地上、枯れた大木が豊富に積み上げられています。

ここは、幕末の水戸烈士1800余柱を祭神として常磐神社境内に創祀された「鎮霊社」が昭和16年(1941)桜山の東側の現在地に移され、茨城県出身の戦没者63000余柱の霊が祀られました。
境内には、昭和19年末に日米両軍の壮絶な陸上戦が行われたペリリュー島で戦死した、水戸第二連隊主体の約1万人の慰霊碑も建てられています。

偕楽園公園の梅の花は、探梅にもまだ早く、2,3輪やっと見つかる状況です。
去年建てられた俳誌「対岸」主宰の今瀬剛一さんの句碑「紅梅は水戸の血の色咲きにけり」の側の紅梅もまだ固い蕾です。満開に咲いた紅梅の色に、水戸っぽなどと称される水戸人の濃い血の色を感じて詠んだ句と解釈されています。

梅林に植えられたニホンスイセン(日本水仙)は、寒さに耐え、うなだれながら咲いています。

庭の福寿草もやっと小さく顔を出し、春の足音もかすかに聞こえてくるようです。