顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園NOW 2019.10

2019年10月08日 | 水戸の観光

萩の花も咲き終わり見晴らし広場が広く感じられます。
高さ16m、茨城一本桜番付で東の横綱を張っていた左近の桜が台風15号で倒され、まわりの竹垣だけが残っているせいでしょうか。この竹垣は偕楽園垣という水戸地方から広まった組み方で特別に作られているだけに何とも哀れです。
後継樹をという意見、このままでいいという意見などがありますが、日本3名園の名に恥じない施策をお願いしたいと思います。

60年近く親しまれてきた大きな桜の木は偕楽園のランドマークでした。園内に何本か桜の木はありますが、咲いたときの圧倒的な迫力では到底及びもつきません。
近くの二季桜が、後は任せてくれと、さも頼りなさそうに咲いていますが…。

台風の被害は、園内の老木にも及びました。この梅は多分紅梅でしょうか、梅の木は例外もありますが、紅梅の芯材は紅色とされています。

南崖の散策路にノハラアザミ(野原薊)が咲いています。日本でも100種類以上あるといわれるアザミの中で一番よく見かける種類です。偕楽園は他の大名庭園とは違って、もとの自然と地形を生かした庭造りでしかも除草防虫も自然にやさしい方法で行っているため、約300種類以上の植物が見られます。

「崖急に梅ことごとく斜めなり」…正岡子規の句碑のまわりに咲く野菊、多分カントウヨメナ(関東嫁菜)です。右上の方に曼珠沙華が見えます。

ツツジの返り花が広大な偕楽園公園を見下ろしています。偕楽園を中心にした一帯の緑地、偕楽園公園は約300haで、都市公園としては世界第2位の広さです。

表門などで料金所の工事が始まっています。今秋の有料化には賛否両論がありましたが、すでに和風建築の建物が姿を見せています。

南崖洞窟近くにある大きな柿の木の熟し柿が通路に落ち、突然のご馳走に蟻が群がっていました。

むざんやな草に熟柿の音一つ  古川太無
不機嫌なものより落つる熟柿かな  柴田奈美
地に落ちて輝やく熟柿一瞥す  松村蒼石

難攻不落…小田原城

2019年10月05日 | 旅行

15世紀半ば、西相模一帯を支配していた大森氏が現在の小田原城より約800mくらいの山側に築いた山城を、15世紀末になって伊勢宗瑞(北条早雲)が攻略し、以後北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力拡大の拠点の城として勇名を馳せました。

永禄4年(1561)の上杉謙信の城攻めと、永禄12年(1569)の武田信玄の城攻めも籠城戦で退け、豊臣秀吉の来攻に備えた拡張規模は、城下を囲む総延長9kmに及ぶ最大の総構えに達しました。しかし天正18年(1590)、約18万の秀吉軍に包囲され約100日持ちこたえましたがついに開城し北条氏は滅亡、これが戦国時代の終焉となりました。

その後、家康の重臣大久保忠世が4万5千石で城主になった時に、広大な城域は縮小され現在の場所に築城したといわれます。やがて改易になり小田原城は破却され幕府直轄になりますが、稲葉正勝が8万5千石で入封して再整備され、城の姿は一新されます。 貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

明治3年(1870)に廃城となり、多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。

天守は、江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)をもとに昭和35年に外観復元された3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、延床面積1822㎡の鉄筋コンクリート造となっています。

江戸時代に本丸を囲んでいた堀の東側の水堀跡で、幅が20m以上もあったことが発掘調査で確認されました。

本丸の正面にある常盤木門は重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。
昭和46年に復元されました。

銅(あかがね)門は、二の丸の表門で、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことが名の由来です。発掘調査や古写真、絵図などを参考に、桝形門と呼ばれる形式で平成9年に復元されました。

この住吉橋を渡って銅門前の枡形に出ると、侵入した敵兵は銃口に晒されます。

馬出門は二の丸正面に位置する門で、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造で馬屋曲輪へと通じます(平成21年復元)。

二の丸隅櫓は平屋です。関東大震災で崩落し、昭和9年に再建されたもので、崩落前より石垣も3m以上低く、隅櫓も半分くらいの大きさになったそうです。

天守閣内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。

標高約60メートルの最上階からは相模湾や天下の険といわれた箱根の山々を望むことができます。
小田原の象徴としてのこの小田原城ですが、史実に基づいた本来の工法で再現する木造天守再建の動きもあるそうです。

秋を告げる花

2019年10月02日 | 季節の花
いつの間にかすっかり秋の気配…、特に季節を感じさせてくれる好みの花が狭庭に咲き始めました。



秋海棠(シュウカイドウ)は、江戸時代に中国から渡来したといわれる帰化植物です。春に咲くバラ科の樹木の海棠(カイドウ)に似た花を秋に咲かせるので名がつきました。ベゴニアの仲間ですが、戸外でも越冬できるので野生化も見られます。
下記写真は春の海棠ですが、花が似ているというより色とイメージだけが似ている気がします。



杜鵑草(ホトトギス)は日本原産といわれるユリ科の多年草、山歩きでよく見かける黄色いタマガワホトトギスなど13種の固有種があるそうです。
花被片(花弁と萼)にある斑点が鳥の杜鵑(ホトトギス)の胸にある模様に似ていることから名前が付きました。

秋明菊(シュウメイギク)はキク科ではなく、アネモネの仲間でキンポウゲ科の宿根草、古くに中国からの帰化植物ですが、日本の気候に合いすぎて増え続け各地で野生化しているようです。
そういえば今朝の朝刊に、「菊」はキク以外の読み方がない、そして音読みである、と載っていました。

彼岸花(ヒガンバナ)は、曼珠沙華(マンジュシャゲ)の名の方が歌詞などにはよく使われています。
地面に花茎が顔を出すと1週間位でもう満開、約1週間で花が枯れると葉が伸び始め、冬から春にかけて球根に栄養を送り続け秋の開花の準備が終わる5月頃には葉も枯れてしまいます。
その咲き方や咲く時期のため死人花や地獄花などと呼ばれていましたが、最近ではリコリスという名前で園芸品種が出回っており、昔のイメージも薄れてきました。

誰が付けし秋海棠といふ愁ひ  今泉貞鳳
殉教の土の暗さに時鳥草  後藤比奈夫
枯れつゝも秋明菊に景色あり  及川貞
土佐はいま曼珠沙華國遍路行く  森澄雄