顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

畦道の春…見慣れた雑草も春化粧

2021年02月05日 | 季節の花


オオイヌフグリ(大犬の陰嚢)は「星の瞳」ともよばれる可憐な花ですが、小型の在来種イヌノフグリの二つ連なった実が、イヌの陰嚢みたいだと牧野富太郎博士が付けてしまったため、近縁種で少し大きめの当種にも哀れな名前が付いてしまいました。


ホトケノザ(仏の座)はシソ科オドリコソウ属、茎を取り囲んだ葉が蓮華座に見えることからの命名です。いまは一年中咲いている雑草ですが、この時期がやはり一番きれいな気がします。
なお、春の七草のホトケノザは、キク科で黄色い花が咲き、ロゼット葉が地面に円形に張り付いた様子からの命名です。


ノボロギク(野襤褸菊)も可哀そうな名前が付けられてしまいました。咲いた後の綿毛が襤褸屑のように見える、花が集まって咲いている様子が襤褸雑巾のようだという説などがあるようですが、英名ではなんとold-man-in-the-spring (春の野の老人)!!…せいぜい身だしなみに気を付けようと決意を新たにしました。


ナズナ(薺)は春の七草なので新年の季語ですが、ナズナの花になると春の季語です。アブラナ科の越年草で別名のぺんぺん草の方が有名です。実が三味線のバチに似るので三味線草ともよばれるそうです。

タンポポ(蒲公英)も最近はセイヨウタンポポが圧倒的に多くなりました。花粉による受粉をしなくても単独でタネが実るため繁殖力が強く、在来種の日本タンポポを駆逐しつつあり、日本の侵略的外来種ワースト100にも選定されています。
この写真を撮ったあと総苞を見たら反り返ったセイヨウタンポポでした。

最後に悪役の登場、枯れても畔道に居座っている「引っ付きむし」の代表オオオナモミです。
北米原産の帰化植物で、鉤状の棘がある実を投げ合って遊んだ少年時代を思い出しますが、衣類や動物に引っ付いて子孫を増やし、ほぼ日本全国を占領してしまいました。
なおマジックテープは、このオナモミの仲間の実からヒントを得て開発されたといわれています。

いぬふぐり星のまたたく如くなり  高浜虚子
犬陰嚢あらぬ文ン字をあてがはれ  高澤良一
畦漏りの走りわかれや花薺  高野素十
ぺんぺん草醜草であれ何であれ  阿波野青畝
三味線草咲きのぼりつつ撥つくる  山口青邨
たんぽぽの皆上向きて正午なり  星野立子
たんぽぽが絮となりゆく喪に入るごと  藤田湘子

※仙人所持の歳時記には、ホトケノザ(シソ科)、ノボロギク、オオオナモミは載っていませんでした。

五浦六角堂と岡倉天心

2021年02月01日 | 歴史散歩

北茨城市にある五浦海岸は、5つの浦(入り江)が連なる景勝地で関東の松島ともよばれています。
ここが知られるようになったのは、東京美術学校校長を務めた岡倉天心がこの地に日本美術院を移し著名な日本美術家たちがここで制作に励んだ歴史を持つからです。

海に突き出した岩の上に建つ六角堂は、天心が思索を練ったというシンボル的な建物ですが平成23年(2011)東日本大震災の津波で台石だけを残して流失、茨城大学中心の修復事業により創建当時の姿に再建されています。

明治36年(1903)、地元の画家、飛田(ひだ)周山の案内で五浦を訪れた岡倉天心はここがとても気に入り、地元の政治家で野口雨情の叔父、野口勝一の斡旋でこの地を手に入れました。2年後には六角堂を建て、冬はボストン美術館に勤務して、夏は五浦の海に遊び、国際的な活躍の拠点としました。明治39年(1906)には、日本美術院を五浦の地に移し、岡倉天心、菱田春草、下村観山、木村武山が家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史に輝かしい1ページを残しました。

大正2年(1913)天心没後は遺族の住まいでしたが、昭和17年(1942)天心偉績顕彰会が遺族から管理を引き継ぎ、現在は昭和30年(1955)同会会長の横山大観から天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)の寄贈を受けた茨城大学五浦美術文化研究所の管理になっています。

残念ながら茨城県独自の緊急事態宣言中なので、六角堂、天心邸管理の茨城大学五浦美術文化研究所は休館中で長屋門は閉じられていました。

六角堂を見下ろす南側の崖の上は、五浦岬公園として整備され絶好のビューポイントになっています。

その一画に、天心をモデルにした映画「天心」の撮影に使われたロケセットが建っています。天心がこの地に移した日本美術院を模して作られました。平成25年(2013)に天心誕生150周年を記念した映画で、天心役は個性派俳優の竹中直人でした。

長屋門向かい側の山の中にある岡倉天心の墓所です。
大正2年(1913)、50歳で亡くなった岡倉天心は、東京の染井霊園に埋葬されましたが、天心の辞世「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影」に込められた遺志を汲み、染井墓地と同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を五浦にも建てて分骨されました。
傍らには天心に師事した彫刻家平櫛田中の植えた椿の木があり、辞世の句に花を添えていました。

晩年の天心は、「亜細亜は一なり”Asia is one”」の考えから「東洋の思想」や「日本の覚醒」「茶の本」という三部作を品格ある英文で執筆し、日本の伝統文化と東洋文明の世界観を紹介したことが、海外で高い評価を受けました。