山野颯想

山野走、山野歩、山野逍遥など、山野にかかわる事柄を中心に記載しています。

蓬莱峡から座頭谷経由で東六甲縦走路

2013年10月14日 | 山野歩

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◆撮影:2010年4月25日、蓬莱峡にて

20131014日(月)

下記の山日記を間違って一旦削除してしまったゆえ、本日再度掲載させていただきました。よろしくお願いいたします。

201377日(日) 

『T山の会』

<蓬莱峡から座頭谷経由で東六甲縦走路>

■参加者:ABちゃん、MOくん、YUさん

[コースタイム]

[JR生瀬駅]900950[蓬莱峡]1315→(座頭谷)→[ハニー農園]→(車道)→[大谷乗越]→(東六甲縦走路)→[塩尾寺]→1640[阪急・宝塚駅]

<歩荷>

午前中は、生瀬駅より蓬莱峡までの歩荷と蓬莱峡での岩登り、午後からは座頭谷より東六甲縦走路を経由して宝塚までの歩荷という計画で、夏山参加メンバー三人による猛暑中の汗まみれの山行となった。

僕の今日の課題は、「本チャンを想定して、それなりの重量があるザックを担いで歩き続ける」であり、生瀬駅を出るときの僕の背中には、水4㍑余りとロープ50㍍一本、登攀用具一式、三人用天幕(ポール無し)などがあった。そして、けっして100㌫とは言わないが、課題の9割方は達成できたのではないだろうか。

MOくんとABちゃんの歩みは極めて速く、僕は懸命に歩かなければ付いて行くことは不可能であった。猛烈な暑さの中、座頭谷を離れる少し手前で一本置いたときにMOくんが言った、「ABちゃんと会長が熱中症で倒れるのではないかと心配した」と。併しだ、座頭谷を離れハニー農園に至る15分余りの登り道は、急登にもかかわらず然程辛くはなかった。それは雑木林中の道ゆえ、陽射しが届かなかったからだろう。

ハニー農園(閉鎖されていた)より“大谷乗越” へと車道を歩き、それよりアスファルト道に分かれを告げ東六甲縦走路に這入る。それまでは平坦な処は勿論のこと、上り坂であっても問題はなかったのだが、塩尾寺への下り道に這入ると左膝に明確に痛みが生じ始め、二人に付いていけない状態に陥った。また、休憩後ザックを担ぎあげるときも一苦労であった。腰に負担がかからぬように足下よりも一段高い処にザックを置き、ザックを背中があたるくらいまで腰を下ろしザックに腕を通して立ち上がるのだ。「よいこらしょッ」と。

ところで、蓬莱峡ではクラックを中心に3ピッチ三本を攀じ上った。今日の蓬莱峡は、何処かの集まりによる岩登り講習会らしき催しが開催されていて、30名近い老若男女が集っていた。その集まりも含めて、猛暑にもかかわらず大屏風前の川原には6070人ぐらいが集散していた。

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三重県立総合医療センター(有難う御座いました)

2013年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

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◆撮影:2007年11月17日、御在所岳

(前尾根より)

20131012日(土)

『三重県立総合医療センター』

<有難う御座いました>

今朝、三重の病院で頂戴した薬袋を見て、滑落事故後、915日未明に運び込まれ治療をして戴いた病院の正確な名称を知ることとなりました。そこは、三重県立総合医療センターとういう所で、退院日に車窓から周辺の景観を初めて垣間見ることとなったのだが、そこは自然に包まれた素晴らしい環境中に位置していたように記憶します。

15日未明に運び込まれた僕を治療してくださった医師が何方であったかを、今となっては知ることはできないのですが、退院するまでの毎朝、僕の様子も含めて、相部屋の他患者さんのひとり一人に優しく声を掛け、病状の説明をし、僕達の質問にも的確に答えてくださったのは、まだ若い山道茜医師という女医さんでありました。また、看護師さんは勿論のこと、食事や清掃担当の方々も皆さん親切丁寧であって、僕の勝手無頼な振る舞いにも目をつぶってくださり、お世話になった12日間を僕は快適に過ごさせて戴きました。なかでも経験が深いと思われる村田看護師さんと、若いが心根が心底優しいと思われる内田看護師さんには本当にお世話になりました。有難うございました、衷心より感謝致します。

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山岳事故後、二度目のお風呂(上さんありがとう)

2013年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

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◆2013年7月14日、八ヶ岳(大同心ルンゼ)にて

(ムカゴトラノオ)

20131011日(金)

『山岳事故後、二度目のお風呂』

<上さんありがとう>

今日夕刻、914日の滑落事故以来、二度目のお風呂を楽しませてもらった。一度目は四日市の病院で20日過ぎごろに、半ば無理やりに、横になった儘の姿勢でお風呂に入れてもらったのだが、それ以降初めての入浴であった。退院後、上さんに何度も「お風呂に入ったら」と言われ続けたが、僕は気が進まず拒否し続けて来た。それは、入浴により酔ってしまって気分が悪くなるのではないかと心配したからであったのだが、「お湯入れてあるわよ」と言われて仕方なく入った今日の入浴は、結果としてその心配は無用となった。上さんありがとう。

事故後僕は、激しい目眩に襲われ続けた。まだ自身の脚で歩くことができないときから、ベッドに腰掛けようと身体を起したときや、その逆に腰掛ける姿勢から横になる姿勢へと体勢を変えるときに、天井がグルグルッと激しく回転し続けた。また四日市の病院退院後、自宅に戻って以降の日々の近隣病院通院時の車酔いの激しかったことも、その大きな理由となった。病院に到着し診察を待つ間も、また帰宅した午後の数多の時間も、終始船酔い気分で過ごさねばならなかったからだ。

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90歳代御夫婦(奥様の柔和な微笑)

2013年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

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◆撮影:2012年10月21日、洛北鷹峯(光悦茶家裏庭)にて

(ホトトギス)

20131011日(金)

90歳代御夫婦

<奥さまの柔和な微笑>

今夏、ランニングを行なっていたある朝、三井団地を抜けて寝屋川沿いの道の這入ったところで、ご主人様が90歳代に違いないと思われる御夫婦が前方からやって来られた。それまでに二度その御夫婦を見かけていたのだが、御主人様の左側に寄り添うような形で、御主人様を支え歩いておられる奥さまの表情に、その朝は柔和な微笑があったのを拝見して僕は嬉しくなり、走りながら思わず「おはようございます」と挨拶をした。そのとき僕は、我々夫婦の20数年後の姿を思い浮かべたのだが、その御夫婦とは逆に、僕が上さんを支えて歩いている様子であった。

僕の上さんは必要が無い限り外出をしない、その原因は眼にあることは間違いが無い。「色彩が無い」「眼前にいつも霧がかかった状態」「かなり視力が弱い」等の症状があり、買物でさえも満足に一人でできない現実がある。嘗ては家族で時間を見つけては山野を楽しんだりしたものだが、なかでも家族4人に加えて姪を4名も連れて行った19988月の北アルプス表銀座は我が記憶中に明確に残っている。

山野の色彩を楽しむことができなくなり、足下であってもしっかりと見ることが出来なくなって久しい。それゆえ普段より運動不足は否めない。上さんの眼が今のような状態に陥った原因は神経的なもので、1999年の三月に長女が事故で逝ってしまって以降、数年の間に一時は両目ともまったく見えなくなってしまったのである。

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滑落事故(厭世的な思考)

2013年10月10日 | 健康・病気

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◆撮影:2007年11月17日、御座所岳前尾根より

20131010日(木)

『滑落事故』

<厭世的な思考>

今後自身の身体が如何なる状態まで快復するのかが分からないなかで、事故から12日間、現地の病院(脳外科)に入院する間、僕は厭世的なことばかり思考していたように記憶する。64歳に至るまで、職業病と思われる腰痛を除いて、病気らしい病気をしたことが無いし怪我らしい怪我もしたことが無いゆえ、今回の滑落事故よる我が身体が何処まで快復するのかに、ただ只管不安感を抱いていたのだろう。

自宅に戻って、930日以降、地元の病院に昨日まで日々通った。脳外科と耳鼻科だが、CTやMRI、そして耳鼻科による耳や舌、頬などの検査を行なった。MRIの検査結果はまだ知らされていないが、CT検査では現地病院の映像と比較するとき、後頭部脳内出血などによる心配はないそうで、来週知らされるMRI検査の結果次第だが、脳外科通院は卒業できるのかもしれない。

僕の姿を見る上さんは、「80歳の爺さんに見える」と表現をするのだが、鏡に映る我が顔をみるとき、僕自身も納得だ。「左目のみを閉じることができない」「食事時の咀嚼に苦労している」「お茶を頂戴するときにコップに口を付けて直接飲むことが難しく、ストローを使用している」というのが現実で、強打による左顔の硬化麻痺症状は明確に残っているし、まだ安定した歩行ができないのも現実である。

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山岳事故(自省するばかり)

2013年10月05日 | 健康・病気

2013105日(土)

『山岳事故』

<自省するばかり>

下記の文書は退院予定日(926日)の早朝、ベッド上にて携帯に記録したものであります。事故を起こして12日目のことなのですが、その後になって、事故現場におられたクライマーや、小屋関係者の方々、また小屋に居られた山岳ガイドさんにも、そして警察や消防署、そして病院の方々にも多大な迷惑を掛けてしまったことを知ることとなりました。心より感謝し、また自省するばかりであります。

また、帰宅してから連れて行ってもらった病院(脳外科や耳鼻科)で、「鼓膜内に血液が溜まっている」「耳奥の骨が骨折している」「左顔に神経麻痺がある」などが判明しました。咀嚼が上手く行なえず食欲が無く、ここのところ診察と点滴で毎日病院通いが続いています。

2013926日(木)

『T山の会』

■参加者:ABちゃん、MOくん、YUさん

<滑落>

前尾根P3をサードで攀じり終え、安定した所でロープを解いていたのは覚えている、しかし滑落する直前直後の記憶は皆無だ。何ゆえ滑落するはめに陥ったのかが分からない、極めて微かだが、タンカーに載せられて下山して行く様子は記憶にあるのだが、車で搬送される記憶も、病院で治療を受けた記憶もまったくない。気付いたときには、眼前に上さんと娘の姿があった。

現地での入院生活は12日、左瞼上と左耳を縫ってもらったようだが、左後頭部脳内出血が原因と思われる、酷い目眩と頭痛、そして頸椎痛に悩まされる日々が続いた。今回の事故で一番迷惑をかけたのはABちゃんとMOくんに対してだろうが、救助隊の方々や病院関係者、そして家族にも多大な迷惑をかけてしまったのだが、さて今後僕は如何なる山行を思考してゆけばよいのだろう。

ところで今回の滑落事故は何ゆえ生じたのかと考える時、神前先生から聞いたという上さんの言葉を思い出した。その言葉とは、酷暑の中僕が懸命は走っているという話を上さんさんから聞いた先生が発した、「夏期、頑張り過ぎると秋に入って某かの弊害が生じる」であった。朝6時台に6.3km7月は18日、8月は27日、9月は13日までに10日間遮二無二走った。その間、山の会例会に6日出席し、山野走や孫との山歩きにも2日行っているのだが、これらの運動量が僕には過重であったという結果なのだろうか?

本年1月初旬に酷い腰痛に陥り、半年間仕事以外では殆ど身体を動かすことがなかったのも事実だ。しかしそのことが、我が身体力の衰えを加速させたというのだろうか?その衰退した身体に鞭打って酷暑中走り続けたことが、先生が言う「夏期、頑張り過ぎると…」に繋がったのではないかと思えて仕方がない。今後走ることが可能となったおりには、我が身体力に無理の無い範疇での体力増強のための某かの運動と適度なランニングに切り替える必要性があるのだろうと考えるが、そのための効率的且つ効果的な運動とは、どのようなものなのだろうか?

滑落前後の記憶が皆無だという状況ゆえ、信じられないことだが、もしかすればその時僕は眠っていたのかもしれないと考えた。前尾根登攀終了の安堵感と疲労から極めて瞬時のことかもしれないが意識が朦朧としていたのだろうか、14日朝の目覚めは4時、朝食を頂戴し朝風呂を楽しみ、車で天王寺駅にやって来たのが730分過ぎ、8時には二人を乗せて名阪へと車を走らせていた。64歳という年齢、つるべでクライミングに興じる間も自身ではまったく感じなかった心身の疲労が知らぬ間に我が体内に蓄積していたのだろうか?幸いなことに骨折は無い、左眉毛辺りと左耳を縫ってもらっただけだが、左後頭部脳内出血の影響だろうか、頭痛と目眩が激しく、また左顔面を強打した所為で、左瞼と口が上手く動かないという症状が生じている、加えて食欲が無く、25日の計量では近年最低の57.3㎏を記録した。

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