昨日(8月9日)長崎の通称平和祈念式典での「平和への誓い」では被爆者で88歳の堀好さんが述べておられるところを聞きました。実体験ですので胸迫るものがあり目頭があつくなりました。
広島の通称平和式典での「平和の誓い」は毎年小学6年生の男女が述べるのです。
先日後半部を紹介しましたので前半部分をここでは取り上げました。
『原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。
大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました。
一緒に創るはずだった未来がありました。
広島には、当たり前の日常があったのです。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分、広島の街は、焼け野原となりました。
広島の街を失ったのです。
多くの命、多くの夢を失ったのです。
当時小学生だった語り部の方は、「亡くなった母と姉を見ても、涙が出なかった」と語ります。
感情までも奪われた人がいたのです。
大切なものを奪われ、心の中に深い傷を負った広島の人々。
しかし、今、広島は人々の笑顔が自然にあふれる街になりました。
草や木であふれ、緑いっぱいの街になりました。
平和都市として、世界中の人に関心をもたれる街となりました。
あのまま、人々があきらめてしまっていたら、
復興への強い思いや願いを捨てていたら、
苦しい中、必死で生きてきた人々がいなければ、今の広島はありません。
・・・・・・・・』
(裕編集の)平和への誓い・広島2004年~2017年
広島の通称平和式典での「平和の誓い」は毎年小学6年生の男女が述べるのです。
先日後半部を紹介しましたので前半部分をここでは取り上げました。
『原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。
大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました。
一緒に創るはずだった未来がありました。
広島には、当たり前の日常があったのです。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分、広島の街は、焼け野原となりました。
広島の街を失ったのです。
多くの命、多くの夢を失ったのです。
当時小学生だった語り部の方は、「亡くなった母と姉を見ても、涙が出なかった」と語ります。
感情までも奪われた人がいたのです。
大切なものを奪われ、心の中に深い傷を負った広島の人々。
しかし、今、広島は人々の笑顔が自然にあふれる街になりました。
草や木であふれ、緑いっぱいの街になりました。
平和都市として、世界中の人に関心をもたれる街となりました。
あのまま、人々があきらめてしまっていたら、
復興への強い思いや願いを捨てていたら、
苦しい中、必死で生きてきた人々がいなければ、今の広島はありません。
・・・・・・・・』
(裕編集の)平和への誓い・広島2004年~2017年
8月10日(安芸区のわが家付近)天候:くもり