安芸区畑賀(はたか)に建てられている「(広島市医師会運営)安芸市民病院」です。
※1933年10月(当時安芸郡畑賀村に結核診療所として)広島市立畑賀病院として開院しました。
以前から畑賀病院が(安芸区)畑賀にあることは知っていまし、病院前を(車で)通った事もしばしばあったのですが、
2003年おじさんの「原爆記」の関連資料として撮影して、歴史を少し調べました。
緩和ケアー棟増築前の2003年5月18日撮影
1945年(被爆のその年)におじさんが原爆症の治療で入院したということでおじさんの“原爆記”の資料として撮影に来たのが2003年でした。
2004年長く勤めていた会社を退職していたわたしでしたが、緩和ケアー棟増築工事に建築屋としてほんのわずかばかりのお手伝いをしました。
時は過ぎ、
2020年(被爆75年の年)妻がお世話になることになり入院させていただき、帰宅を望んだ妻を自宅に迎えましたが、訪問介護、訪問診療でこの病院の看護師さん、先生にたいへんお世話になりました。
妻を喪い一年ほど経とうとする今ですが、やはり寂しい気持ちを振り払うことはできませんので、
今週一週間はつらつら思い出につながる記事になってしまいました。
(裕編集の)安芸市民病院
※1933年10月(当時安芸郡畑賀村に結核診療所として)広島市立畑賀病院として開院しました。
以前から畑賀病院が(安芸区)畑賀にあることは知っていまし、病院前を(車で)通った事もしばしばあったのですが、
2003年おじさんの「原爆記」の関連資料として撮影して、歴史を少し調べました。
緩和ケアー棟増築前の2003年5月18日撮影
1945年(被爆のその年)におじさんが原爆症の治療で入院したということでおじさんの“原爆記”の資料として撮影に来たのが2003年でした。
2004年長く勤めていた会社を退職していたわたしでしたが、緩和ケアー棟増築工事に建築屋としてほんのわずかばかりのお手伝いをしました。
時は過ぎ、
2020年(被爆75年の年)妻がお世話になることになり入院させていただき、帰宅を望んだ妻を自宅に迎えましたが、訪問介護、訪問診療でこの病院の看護師さん、先生にたいへんお世話になりました。
妻を喪い一年ほど経とうとする今ですが、やはり寂しい気持ちを振り払うことはできませんので、
今週一週間はつらつら思い出につながる記事になってしまいました。
(裕編集の)安芸市民病院
4月10日(安芸区のわが家付近)天候:はれ