住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

いまここに存在している不思議

2022年02月21日 15時18分52秒 | 仏教に関する様々なお話
いまここに存在している不思議



今こうして大きなお寺に住まいさせていただき住職として仕事をしている不思議を語りたいと思います。何の縁もなかったこの地にきて、もう二十二年がたちます。多くの皆様のおかげであっという間の年月ではありますが、通常のお寺としての檀務に加え、広い境内の整備やまったくしたことのない山仕事などみんな檀信徒役員の皆様が毎年整備してくださるおかげで、何とか務めさせていただいているということなのですが、そうしたことも含め誠に奇跡のような得難いこの場所でこうしておらせていただいていることが誠に不思議に思えるのです。

と申しますのも、つい二三日前に思い出したことですが、今から三十年ばかり前、私がまだ四国を歩いて遍路している頃のことです。高野山の専修学院を卒業し、役僧として東京のお寺に住み込みで勤めをし、二年目にインドへ行きました。そのときにはヨガの聖地であるリシケシに行くことが主目的で、仏跡地にはブッダガヤのみに参詣し三か月ほど滞在し帰りました。そのとき一人の禅僧に出会い、その後帰国して四国の歩き方、ビニールひもで草鞋の編み方を習いました。そして、そのお寺を辞して一人団地に住まいしておりましたが、それでも年に数度もそのお寺の行事のたびに呼んで下さり役僧として仕事をさせていただきました。

そうして一僧侶として歩き出してはいたわけですが、お寺の生まれでもないため、その先の展望が何もなかったのです。自分では志を立てて僧侶の道に入ったと思っていたわけですが、はたして自分はこの先どうあるべきか、いかなる歩みをするべきか、いかなる僧侶としてあるべきか、私の役割とは何なのか、まったく自分の将来像が描けずにいたのでした。

そこで、特別何のお告げがあったわけでもないのですが、毎朝の勤行の礼拝時に、「私に、僧侶としてこの先いかにあるべきか、どうぞ役割をお与えください」と仏様に祈念して五体投地を繰り返しておりました。ついぞそんなことをしていたことも忘れておりましたが、ニ三日前にふとそのことを思い出したのです。その時期は、週に三回ほど、作務衣の上に衣を着て、脚絆を巻いて網代笠をもち、頭陀袋に鉢を入れ、草鞋を履いて、地下鉄を乗り継ぎ、数寄屋橋や浅草の浅草寺仲見世の脇で午前中の二三時間托鉢をして生活していました。そのほかにも柴又の帝釈天やとげぬき地蔵でも托鉢したことがありましたが。

そして四月から五月にかけて、托鉢姿で寝袋を担ぎ家を出て、フェリーや深夜バスを利用して四国に入り、八十八箇所を二度歩いて遍路しました。そんな生活を二年ほどしておりましたら、僧侶の友人からインドに行かないかとの誘いがあり、その気で準備を進めていたところ出発目前で友人は行かれなくなり、二回目の遍路をした翌年のことでしたが、一人一月に二度目のインドへ旅だったのでした。そしてその旅で、はからずもインドの仏教教団にご縁ができて、サールナートの日本人インド僧後藤恵照師に出会うことができました。

インドにはもう仏教は遺跡しか残っていないと思っていたのに、生きて仏教徒が存在し教団まである、さらにその仏教徒はかつての仏教の中心地マガダ地方から遠い昔にイスラム教徒の侵攻を予期してインド東部現在のバングラディシュ・チッタゴン周辺に避難した正当なる仏教徒であることを知りました。私はこれこそが自分の役割と即決して、後藤師が計画していた無料中学設立に向け協力させてもらうことにしました。

その後一度日本に帰りヒンディー語を大学の語学研修所で一年間学び、再度インド入りして自身もインド僧となり、三年半を過ごさせてもらいました。勿論この間に日本に帰って寄付をつのったり何度か行き来をしながらではありましたが、そうして丁度日本にいるときに阪神淡路大震災が起こり、ボランティアとして三度ほど神戸市の避難所に通い被災者の皆様からお話を聞かせていただく機会を得ました。夜焚火を囲み話す被災者のおじさんたちの話は誰も哲学者の様に核心をつく言葉をつむいでくださったことを記憶しています。

サールナートの無料中学は、皆様からのご寄進によりおかげさまで校舎の建設、入学生の選考から先生の選抜、学生服の仕立て、来賓の招待などが済み開校式が行われ、軌道に乗ったのでした。が、その後、ベンガル仏教会のコルカタ本部が取得したルンビニの土地にお堂を建設するため日本での募金活動を依頼されたが、時すでにバブル崩壊後で失敗に終わりました。またコルカタに滞在している時マラリヤに二度かかったこともあり、帰国を余儀なくされました。そして、上座仏教の戒を捨戒して日本の僧侶に復帰して、東京深川の冬木弁天堂に堂守として三年ほど過ごしました。このお堂は開運講という近在の方々の信者団体が管理運営しており、下町の気っぷの良い誠にストレートな物言いの皆様とともに、正月五月九月に大祭を行い、十二日ごとに己の日には護摩を焚き、正月には元旦から七日間は深川七福神の多くの参拝者を出迎えました。

そして、その間に家族が増えることから安住の地を求め、間に入ってくださることになるお寺様に挨拶に参りましたらひと月もしないうちに知らせが入り、初めてこちらに来訪したその日に入寺することが決まりました。そして、翌年一月に入寺して、二年後に住職させていただき現在があります。それが二十年ほど前のことですから、礼拝して祈願してからそのときまでで十年もの歳月を要して祈願がかない、紆余曲折を経ながらも、自分にできること、したいことをさせてもらえる場所、そこには境内整備の山仕事も含めて相応しい役割を与えてくださったということになるのかと思います。祈願してすぐにはここに入る時期は熟しておらず、その間に様々な経験を経なければ、この場にいることはかなわず、絶妙な時期に、絶妙なるタイミングにより、奇跡の様にここに得難い場を用意して入れ込んでくださったとしか思えないのです。

仏様への祈願は、真に心より念じること、願い続けること、そして信じること。まったく願いに通じると思えないことでも一生懸命すること、いつか必ずかなうと確信して学び行じ続けることが大切ではないかと思えます。そしておぼろげながらも実現するイメージをもち続けることも大切でしょう。仏様が笑われるようなことを書いているのかもしれません。まったくそんな差配はしておらんと言われるかもしれません。ですが、私にはあの時にああして願ったことが、今こうして現実として表れていると三十年の時を経て、ふと気づかせていただいたということなのです。この気づきを仏様への感謝、関係する皆様への感謝をこめて、ここに備忘録として綴っておきたいと思います。

ですが、本当は私だけでなく、誰もがいま存在している不思議を生きているのかもしれません。



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慈しみの修習

2022年02月16日 08時52分10秒 | 仏教に関する様々なお話
先月1/10投稿した「四無量心と十善に生きる」の四無量心について、
具体的な修し方について述べていませんでした。

慈悲喜捨の心を
まずは自分に向けて、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、
          願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますようにと念じます。
それから周りの身近な人たちが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、
          願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、
          と身近な人たち一人ひとりの顔や姿を思い浮かべながら念じます。
そして、生きとし生けるものが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、
          願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、
          とこの町の、この市の、この県の、この国の、世界の人々、さらには動物も昆虫も、
地中のものも空中のものも、餓鬼も天界の神々も幸せでありますようにと念じます。
そして、自分を嫌っている人も私が嫌いな人も幸せでありますようにと念じます。

下に記す慈しみの修習は南方の仏教徒たちが唱えている慈悲の瞑想についてのパーリ語『メッタバァーワナー』の和訳です。
お読みいただき慈悲喜捨の瞑想の参考にしてください。





慈しみの修習
(メッタ・バァーワナー)




和訳:
 私は恨みのないものであります。
 怒りなきものであります。
 惑うことなきものであります。
 幸あるものは、自分を守護す。

 この私のごとく、私の師、和尚、母、父、味方も、見知らぬものも、
 恨みあるものも、
 恨みなきものであれ。
 怒りなきものであれ。
 惑うことなきものであれ。
 幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
 苦しみがなくなりますように。
 自らなした業の、身に得たるものを手放すなかれ。

 この精舎における、この近くの村における、この町における、
 この国における、この閻浮堤における、この鉄囲山の境界内に住する
 自在天、神々、人々、すべての衆生は、
 恨みなきものであれ。
 怒りなきものであれ。
 惑うことなきものであれ。
 幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
 苦しみがなくなりますように。
 自らなした業の、身に得たるものを手放すなかれ。

 東、南、西、北、北東、南東、南西、北西、地下、上空の
 すべての方角の、すべての衆生、息をするもの、生き物、
 食により生きるもの、体を持つもの、女性、男性、聖なるもの、
 汚れたもの、神、ひと、人でないもの、地獄にあるものも、
 すべてのものたちが、
 恨みなきものであれ。
 怒りなきものであれ。
 惑うことなきものであれ。
 幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
 苦しみがなくなりますように。
 自らなした業の、身に得たるものを手放すなかれ。

 東の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
 南の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
 西の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
 北の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
 東方に持国天、南方に増長天、
 西方に広目天、北方に多聞天。
 彼ら、名声ある世界の守護者四天王よ
 我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。


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四無量心と十善に生きる

2022年01月10日 06時46分01秒 | 仏教に関する様々なお話
四無量心と十善に生きる


穏やかな正月を過ごされ、すでに日常に戻られたであろうか。今年も一年心身ともに健康でありたいものだと誰もが願うことであろう。今國分寺の仁王門横の掲示板には、仏陀の写真にヒンディ語の格言が入り、それを翻訳し「身体のための一番よい治療は、頭静まり平穏な心である。そして、その平穏な心のために最もよい治療は、誰の言葉であっても、胸に重く受けとらないことです。」と印刷した小ポスターを掲示している。

これは、『sacci baten(サッチー・バーテーン)』真実の言葉という意味の名前で、フェイスブックやインスタグラムに参加して、ヒンディ語で古今のインドの格言などを投稿しているグループが昨年の10月1日にアップした内容である。一昨年から時々翻訳しては掲示しているもので、過去に何度か投稿されたものに日本語訳を書いてコメント欄に書き込んだことはあるが、まさか彼らは自分たちの作ったものがこうして日本語になって紹介されているとも思わないであろう。

ところで、身体のための最良の治療は、「頭静まり平穏な心」と訳したが、これは原文ではシャーント・ディマーグとあり、直訳すると「平和な頭」となる。あなたは頭がいい、ということを「アープカ・ディマーグ・アッチャー・ヘイ」などいう具合に使うので、「ディマーグ」という単語は会話でもよく登場する言葉なのだが、訳としては、「脳、頭脳、思考力のほかに高慢、傲慢、慢心」とある。だから、シャーント・ディマーグで、頭静まり、高慢や慢心のない、穏やかで平安な、平穏なる心となるであろう。

そして、その平穏なる心のための最良の治療は、「誰の言葉も胸に受け取らない」というのが直訳で、この「胸」の原語は、「フリーダヤ」とある。これは般若心経という経題の中の心にも該当する言葉で、因みに心経はサンスクリット語では「プラジュナー・パーラミター・フリーダヤ」となるが、これは心というよりは心臓のこと。そこで胸と訳してみた。誰かの言葉に、ドキドキしたり、恐れおののくとき、また怒り心頭になってブルブルと体が震えるようなとき心臓が高鳴る。そういう状態の正反対に、誰の言葉であっても心静かに聞けて、さっと受け流し自らの心に引っかからないよう、せめて重く受け止めないように、頭を静かに平安に生きる技が必要だということになるのであろうか。

では、良いことであっても悪いことであっても、だれの言葉でも軽く受け流すにはどうしたらよいのか。人の言葉に反発したり怒ったり、落ち込んだり、悲しんだりするのは自分という存在や自分の意志を尊重しないような言動に対して、自分、自分の方針なり、考えを蔑ろにされて憤慨する心により起こるのではないか。とすると、自分という思い、いわゆる自我さえなければ、そもそも腹を立てることもなくなるのかもしれないが、それはとても難しいことのように思われる。

ところで、様々な場面で、そうした穏やかならぬ心の状態になるのは、過去の業が作用していると仏教では考える。たとえば、同じ緊張を強いられるような場面でも、普通にいられる人もあれば、そういう状態に弱い人もある。同じ災難にあっても、かすり傷一つで済む人、足腰を骨折する人、命を落としてしまう人もある。同じことを言われても、平然と受け流せる人もあれば、すぐに怒りから手が出る人、言葉で口汚く言い返す人、何もせず何も言わぬともいつまでも心に怨念をくすぶらせる人もある。人さまざまであり、それらも過去に意志をもって行った身と口と心の行いが業となって私たちに貯め込まれていることが影響するという。遺伝や生まれ育ち、生活環境や経験も影響するであろうが、それらも含め過去世も含めた業によるのだと考えるのである。

業には善業と悪業がある。善業は好いことをもたらし、心の幸せなることが期待されるのであるからよいとしても、悪業はできれば消し去ってしまいたいというのが人情であろう。そうした悪業が様々な場面で自分にとって悪しき結果をもたらしたり、不本意な反応を引き起こし醜態をさらすということにもなりかねないとしたら、やはり何としても悪業は消滅させたいものであろう。

昨年読んだ『パーリ仏教を中心とした業論の研究』(浪花宣明著・春秋社刊P276~P291)によれば、業には私がという自我の意識がなくてはならないもので、自我さえなくなれば、つまりそれは煩悩がなくなり、最高の悟りに到達することを意味するとは言うのだが、そうすれば業は消滅するという。

相応部経典S.v.320『改悔』には、「悪業を捨断し、悪業を超越する、彼はこのように貪欲を離れ、悪心を離れ、迷妄なく、正念正智をもって、慈悲喜捨の四無量心によって心解脱し、欲界の業がそこに残存せず」。長部経典D.i.251には「戒をそなえ、十悪業を離れ、慈悲喜捨の四無量心によって心解脱すれば欲界の業は残存せず」。・・・と説かれているという。

これら経典には、業のすべてが消滅するわけではないが、確かに欲界の業が消滅するとある。それ以外の色界と無色界の業は、色界無色界禅というかなり上級の禅定者にとっての修習を指すとあるので、通常の人間の世界での善悪業は四無量心の修習によって消滅すると考えてよいのだろう。

しかし、こうした欲界の業が消滅するという四無量心の修習は、その実践が必然であることは分かるが、その完成とされる心解脱(心の解脱、心修習の力による解脱。心が定により貪欲から解脱すること:ポー・オー・パユットー仏教辞典)を成就することの困難さからすると、次に本書に説かれる善悪業が異熟しない、つまり変化して結果しない場合があるという教えは私たちにとっての救いとなるのかもしれない。

これはパーリ論蔵『分別論』(Vibhanga ヴィバンガ)にある教えとのことで、悪業者には苦果があるという道理があり、善因楽果悪因苦果を不動の真実としながらも、業異熟智力の説明の中で、①幸福な趣(六道の中の天界人間界の生まれ)、②幸福な生存の素因(身体の端正なこと)、③幸福な時代(善王善人の時代)、④幸福な行為(正しい行為)により、善業が異熟し、悪業はそれらに遮られて異熟しないという。逆に不幸な趣・生存・時代・行為の場合には、悪業が異熟し、善業はそれらに遮られ異熟しないとある。

既に生まれてきて、こうして生きている私たちができうる可能なことは、唯一正しい行為をするということであろうか。そうして悪業が結果するのを遮りつつ、善業が異熟するのを待つことができることになる。私たちにとっては、『仏前勤行次第』において「十善戒」として読んでいる十善、つまり「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見」に徹して生きることが、過去の様々な悪業の業果から逃れさせてくれ、善業の異熟さえ期待されるということになろうか。改めて勤行次第において「十善戒」が唱えられることの真意を知った思いがする。

四無量心については、前回「年頭所感 他との共生により生きる」において述べたように、僧侶が修する供養法の中に必ず組み込まれ、本尊様の道場を観想する前に修習することになってはいるが、皆様には毎朝あるいは毎晩、ふさわしい時に、生きとし生けるものに、慈(友情の心から幸せであることを願う)・悲(苦しみがなくなるよう願う)・喜(よくあることをともに喜ぶ)・捨(誰をも分け隔てなく平等にみて静かな心に住する)の心を遍く念じられることをお勧めしたい。そうして自我を収めつつ、十悪を離れ十善に励むことによって業果を逃れつつ生きることが私たちには何よりも大切な生き方であることが理解されよう。

掲示板を解説するつもりが、いつの間にか脱線して、この一年ならぬ一生の生き方にまで話が及んでしまった。ともあれ、まずは皆様ともどもに、今年も心身ともに健康で平穏なる一年でありますことを心より念じたい。合掌


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年頭所感 他との共生により生きる

2022年01月02日 16時56分59秒 | 仏教に関する様々なお話
年頭所感 他との共生により生きる

毎朝薬師如来を拝む。供養法とも、行法とも言い、薬師如来を本尊とする仏様方へ心からの供養をささげる真言密教の一座作法である。本尊様を祀る須弥壇前に設えた大壇の中心に仏様をお迎えし供養をささげ、一心に行者と仏様との融合一体なる瞑想に入る。そして、世界の安泰平和と人々の安穏幸福を願うのである。

この行法の中に、いくつもの瞑想法が挿入されている。大壇前の礼盤に座る前にすでに、行者は足の下に蓮華を観じ三礼する。そのあと、半跏趺坐して身支度を整え、神仏へ挨拶を述べる。そして、四無量心観という慈悲喜捨の瞑想に入り、心を浄める。すべての生きとし生けるものに、友情の心から慈しみを願い、悩み苦しみが無きように抜苦を願い、共感の心からよくあることを喜び、分け隔てのない平静なる安らかなることを願う。

それから、心中に本尊様をはじめとする仏様方の世界の映像を観想する。つまり、胸の前に薬師如来の世界である浄瑠璃世界を現出させ、そこに宮殿あり中に曼荼羅壇あって、上に月輪あり中に八葉蓮華座あり、座の上に薬壺あり薬師如来となり、日光月光菩薩十二神将が前後左右に囲んでいる様子を観想していく。そして、外界との交渉を遮断して、閼伽水、塗香、華鬘、焼香、飯食、燈明の六種の供養を捧げてから、この行法の中心をなす三種の瞑想法を行う。

はじめに入我我入観。これは仏様が我に入り、我が仏様に入る、と観じ仏様と我との一体合一を観想する。次に正念誦。これは本尊様の真言を百八回唱え、その唱える声、音が虚空に遍満すると観想する。そして、字輪観。これは自身が宇宙そのものと観じ、宇宙全体との融合一体を観想する。

この後、本尊様他諸尊の真言を唱えてそれぞれの法悦に入り感謝をささげ、再度六種の供物を供養して、この一座の行法の功徳をすべての仏菩薩をはじめとする諸尊と一切の生きとし生けるものの菩提に廻らす。そして、お迎えした仏様方を本所にお帰りいただき、行法を終える。

ここで少し、入我我入観について考えてみたい。さきに仏様が我に入り我が仏様に入ると観ずると述べたが、我に入るのは吸気であり、仏様に入るのは我が呼気である。我が外にある空気そのものを仏と観じるわけだが、そこにすでにおられると観想した仏様そのものの息として外気そのものを仏様ととらえて、仏様が我に入ると感じとる。その場に仏様が満ち満ちておられると観じられ、吸気そのものが仏様であり、我が呼気はそのまま仏様の中に入ると感じられる。

最近になって、この観想は、とても身近な存在として仏様を感得することを教えているのではないかと思えるようになった。そして、あるとき、これは自分という存在そのもののあり方として他なるものとの関係性を教えているとも思われた。この我と仏様の関係を、自と他の関係としてとらえるのである。つまり、吸気を他、呼気を自と捉え、瞑想中にある呼吸は、自と他の交感、融合合一であると。

そう捉えてみると、私たちは、他なるものを自己に取り入れることによって生き、自己を外に出すことによって他が存在していると感じられる。生きるとは、他を取り込み、変化することであり、それを外に出す、つまり他に与えることによって、他が変化し存在すると考えられる。自と他は、そもそも相互に関係し、依存する関係としてあり、生命体が存在するとはそういうことであると言えるのではないか。仏教でいう縁起の教えも、無常・苦・無我も、こうした生きる営みを角度を変えて同じことを言っているように思われた。

しかし、いかなるものもその自然な営みを拒絶するといろいろな摩擦が生じる。上善如水というが、器や環境によって自在に変化する水のように何ものをも拒まず自然に任せることが大切なのであって、人類は今その自然体から逸脱して、所詮無理なことをしているように思える。

つまり、ウイルスは、人類よりもはるか昔からこの地球上に存在し、私たちの体の中にも常在ウイルスといわれるウイルスがゴマンと存在しているというのに、その中のあるウイルスだけなかれと格闘しているかのように感じられる。そもそも自然発生のウイルスなれば自然に任せ、それらとも共存共生共栄することが上善であり、人工的なものを体内に用いるほど、人体も社会も歪になっていることを知らねばならないのではないか。

ある日の行法中にそんなことを思ったのである。


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功徳について

2021年11月01日 17時14分48秒 | 仏教に関する様々なお話
功徳について (昨日の法事後の法話のために)



功徳というのは積むものです。どれだけたくさん功徳を積むか、それによって生き方も変わるし、よき人たちとの人間関係もでき、よき人生を送り、来世にも影響すると考えるのはインド人くらいでしょうか。いやいやミャンマーやタイの仏教徒でも、昼夜働いてたくさん稼いで仏塔をつくり高僧を招いて開眼してもらうという人もあるようです。それは自分によき来世、恵まれた幸福な来世をもたらすはずだと信じての行為であり、すさまじいばかりの信仰心だといえます。

日本にはそこまでの人はないかもしれませんが、信仰とも思わずに立ち寄ったら必ず神社やお寺で神仏に手を合わせ賽銭を投げる人はあるでしょう。きちんと仏壇に向かって毎朝お経を唱えている人も多いはずです。こちらの本堂にも毎朝お勤め途中に何人かの方々が参ってきて、賽銭を入れ、鐘を撞いて手を合わせていかれます。それも功徳。布施・愛語・利行・同事といいますが、他者に必要なものを差し上げたり、してあげたり、やさしい言葉をかけてあげたり、話を聞いたり、相手のためになることをして、一緒にいて苦楽を共にする。そうした何気ない行為にでも功徳はあるわけです。

徳を積むというのは自分のためでしょう。天眼第一の仏弟子にアヌルッダという長老がいました。この人は目が不自由で、ある時衣がボロボロで繕おうとしたのに針に糸がどうしても通らない。そこで心中で、「誰か私のためにこの糸を通して功徳を積み増そうと心を起こしてくださる方はござらんか」と問うたといいます。するとすぐに後ろから「私が功徳を積ませてもらおう」と声がかかりました。それは誰あろうお釈迦様に外ならなかったのでした。

驚いたアヌルッダは、「いやいや世尊のような道を極め、すべてなし終えた方が功徳を積むこともございますまい、他のまだまだ福徳を積むべき人に申したまでであります」と答えました。するとお釈迦様は、「何を申すか、功徳を求めることで私に過ぐるものはいないではないか、施しも、功徳も、慈しみも、説法も、求道もこれでよいということはないのだから」と説かれたという話が伝えられています。どんな人でも、もう十分ということはないのだということでしょう。お釈迦様であっても、日日慈しみをたれ法を説き施し教え諭し、道を求めておられたということなのですから。

またある時大病を年老いて患った比丘があり、身動きもできず日々痩せ衰えて、もう幾ばくもないことをさとり、最後にもう一度だけお釈迦様にお会いして礼拝して死にたいという願望を持ったのでした。それを誰彼となく話すと、そのことがお釈迦様に知れて、お釈迦様が目の前に現れ、「そなたにもなんども話したではないか、すべてものは移ろいゆく、無常のものなればすべてのものは生と滅とを繰り返していることを。私はそなたに礼拝されるためにいるのではない、法を説くためにいるのである・・・」とだけ話されて去ってしまわれました。ですが、その短い説法によって、この老比丘は解脱して、間もなくに息を引き取ったとされています。

この話から、お釈迦様にとっての功徳とは、ひと時の喜び、安心を与えることにあるのではなく、その人にとって本当にすべきこと、最後に残された命の灯にかなう最高の価値あることを授けること、この場合にはまだ最高の悟りに至っていない比丘であったので法を説きそれによって悟らせることだということがわかります。まさに、功徳の最高のものとは悟りなのだということを教えてくれている逸話のように思えます。その悟りのためにも、私たちは小さな功徳を日日積み増して、よき人間関係をきずき、それによってよき人生を歩み、よき来世に生まれ、さらにさらに精進を続けてまいらねばならないと思います。

亡くなった故人も、みんな功徳を積むために来世に逝ったのです。そこに少しでも、前世に縁あった私たちが経を聞き、ともに読み、塔婆を立て、仏を礼拝する、その功徳を来世にある故人にむけて回向する、功徳を手向けることによって、ともどもに悟り・菩提に向けて前進することを願うというのが今日のこの法事と言えます。自分のために、功徳になるからこそ故人にも手向けられるということになります。つまり、私たち自身も最高の功徳である悟りに向けて功徳を積み生きるということが大切だということになるのだと思います。・・・。

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いま、あらためて仏教徒にもとめられること

2021年11月01日 00時00分00秒 | 仏教に関する様々なお話
いま、あらためて仏教徒にもとめられること
(今年4月27日投稿分と同内容であることをお断りいたします) 




混迷を深めるこの時代に、私たち仏教徒はいかにあるべきなのか。私たちにとっての仏陀であるお釈迦様の事跡に則り考えてみたい。

①世間の通説にとらわれず自ら考える
お釈迦様は、紀元前六世紀インド北部の小国釈迦国の王子として生を享け、出産時に母を亡くし継母に養育された。そんなこともあってか、幼少の頃からよく物思いにふける方であったと伝えられている。気がつくと木の下に佇み目を閉じて黙想ないし坐って瞑想されていた。中インドの大国コーサラ国の属国として釈迦族の置かれた現実を思い、自分の立場をわきまえつつ、生きるとは何か、なぜ苦しみ多き人生を人は生きねばならないか、どうあるべきかと、沈思瞑想に耽られたのではないか。

出家された時のいきさつを語る伝説に四門出遊という物語がある。ある日西の門から城を出て街を周遊すると老人に、また別の日に南の門から出ると病人に出会い、若さや健康への傲慢な心が消滅したという。また西の門から出ると死者の葬列に遭い、自分も死によって人生が突然終わることを知り、北の門から出たときには出家者に遭遇し、その清々しい姿に憧れ俗世間を捨てて苦からの解放を目指す道に歩むことを決意されたとする。そして、ヤショーダラー妃に子息が生まれ、跡取りができたことを確認して城を出て出家なされた。

私たちもお釈迦様が思索されたように、様々な怖れ悩み苦しみ違和感を感じつつ生きている。そうした日々感じられる生きずらさ、悩み苦しみのもとを自ら問う、問い続けることが大切であろう。この一年コロナコロナに明け暮れ、様々な疑問に出会う。症状のない気道感染症とはいかなるものか。そもそも検査に、なぜ発明者であるキャリー・マリス博士がウイルス感染の判定に不向きとしたPCR法が使われるのか。PCR陽性者はなぜ感染者とされるのか無症状感染者からの感染があるとして全世界でマスクを強要するなら、徳島大学大橋眞名誉教授が指摘されるように、なぜその実証実験の一つもなされないのか。色々と疑問に感じるであろう。そうした疑問を新聞テレビの報道を鵜呑みにして受け流してしまわずに、それらひとつ一つについて自ら考える、情報を集める、思索するということが何よりも大切なのだと言えよう。

②祈りではなく真実を知る
そして、お釈迦様は、当時人々が神々の世界を信じ、神の意向によって人々の禍福が決定すると考えられ、ヴェーダ聖典に規定されたとおりに祭祀儀礼を間違わずに盛大に厳粛に勤めねばならないと考えられていた時代に、祈りではなく、この世の中の真実、真理を悟ることによって智慧を生じ、開悟された。ある経典によれば、深き禅定に入り初夜に自らの過去世を回想し、中夜に他者の業による転生を、後夜に苦を導く煩悩の生滅を如実に知見して解脱されたとする。

私たちも、悩みの元となることの真実に気づくと、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように消滅したりするが、真実を見極めることにより心は静まり平穏になる。今の世の中の恐怖や不安も、この事態に至る真相、真実を知ることによってしか解決されないであろう。祈りも大切ではあるが、何よりも私たち仏教徒は真実を知ることを優先するべきである。

そのためにはこのパンデミックはいかなるものなのか、自然発生のものと言えるのか、米国の医学者ジュディ・マイコヴィッツ博士が指摘するような計画性はなかったのか、その目的は何か。なぜ安倍総理は昨年春にこの感染拡大こそ第三次世界大戦であると語ったのか。戦争とはそもそも何か。世界経済フォーラムが今年のアジェンダとするグレートリセットとは。すでにワクチン接種が進行しているが、その必要性や中身副反応や死亡についての情報はほとんど開示されないのはなぜか。などと考えを進めていかねばならないだろう。多くの人がこのコロナ騒動の真実に気づくことなく、祈りだけで事態が収束することはないであろう。

③お釈迦様を人生の理想とする
悟りを得たお釈迦様は、この真理は世間の生きることに耽溺している人々には理解できないと考え、法を説くことを逡巡される。がその時、インドの最高神である梵天が現れ、「法が説かれなければこの世は破滅してしまう、汚れの少ない者もあります、尊師よ法を説かれよ」と懇請されて、お釈迦様が天眼により世の人々を改めて見渡してみると、確かに、蓮が水中で育ち、水の中にあって咲くもの、水面で咲くもの、水面の上に伸びて咲くものがあるように様々な生命があり、煩悩薄き者たちは説法により解脱に達することができるであろうと考え、法を説くことを決意なされた。

これを梵天勧請というが、つまりお釈迦様は、説法した人に最高の悟りを得て欲しいが故に法を説かれたのであり、それらの記録が経典である。その経典を読誦し思惟する私たち仏教徒は、お釈迦様の願いである悟りを最高の理想として生きる人々であると考えられよう。人生の生きがいや目標の先にはいつも悟りという最終目標があるのだと思って生きることが願われていると言えようか。

仏教徒とはお釈迦様の悟りを最高の理想として生きる人のことである。そう思えるならば、何があっても、どんな時代になったとしても、目標を失うことなく生きることができる。体温を計られ、マスクをつけさせられ、人との距離を測られる。さらに自宅軟禁を強いられるような不自由な時期をすでに経験した。さらに昨年7月に成立したスーパーシティ法が今後施行され、個人情報が断りなく情報統括機関に開示されるような管理監視社会に向けて歩みを進めることになるという。

しかし、そうして、たとえ自由が制限されて、検査やワクチン接種により選別されるような時代となっても、最終的な目標を失うことなく生きることが私たちには必要であろう。今生で解脱することがかなわないならば何度生まれ変わっても仏教と出会い、お釈迦様の教えを頼りに悟りを目指すことを生きる目標にすべきではないか。だからこそ私たちは故人に成仏を願い、法事でも何回忌の菩提のためにと供養をささげる。

④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す
お釈迦様は、生涯にわたり縁あった人々に法を説かれるが、その説き方を対機説法という。法を説く相手に相応しい説き方をされた。農夫なら農夫の分かりやすいように、学者ならそれに相応しく、また楽器を演奏する人ならその楽器について説きながら理解が深まるように話をされた。それぞれの個性を重んじ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれた。つまり仏教はみな同じと捉えることなく、それぞれの人の考え、それぞれのやり方、生き方を尊重する立場といえる。仏教徒は、自らの考えをもち、生き方を持つものとして扱われ、誰々が言うからではなく、みんなそうしているからではなく、人と同じようにしていたら良いというのでなしに、自らの考え、他者の個性や意向を尊重する教えである。

すでに、検査を拒否したり、飲食店などの時短命令に服さないものには罰則を科すというところまで社会がいびつになってしまったが、より寛容な姿勢が望ましいのではないか。全くウイルス予防に効果がないとされるマスクが半強制のごとくにすでに社会に浸透し、ノーマスク者を異端とみなす風潮も生まれている。医療機関にもよるのだろうが、厚労省が自己の判断に任せるとしているのに、医療関係者でワクチン接種を拒否すると職場から締め出されるような雰囲気があるという。他者の考え思いを慮ることのできない社会になりつつある。単一の価値観、思想しか認めないような、風紀がすでに漂う。お互いに監視し合うような恐ろしい時代になりつつあるということを知らねばならないだろう。故に仏教徒ならば、そうならないよう他者の考えを認め合う寛容な社会を形成することを目指すべきであると考える。

⑤妄想の中に生きるのではなく、今の現実を生きる
最後に、お釈迦様は入滅に際し、「もろもろの現象は移ろいゆく、怠ることなく修行を完成させよ」と言い残された。怠ることなくというのは、特に出家の弟子たちに常に説いた不放逸という教えのことであるという。普段何かをしていても、そのことに心はなく、様々な刺激に心が移り変わり、過去を回想し、未来を都合よく想像し妄想する。「今日の感染者数は・・・」、と毎日耳に入れていれば、怖い恐ろしい方向に妄想して自らを追い込んでしまうこともあるだろう。

いずれにせよ、今ここにない過去や未来に心を放逸に遊ばせるのはよくないこととされる。お釈迦様は常に、この瞬間にある現実の行為思考に正念正知であれと教えられている。自分が今の瞬間にしていることを、心の中で言葉で確認しつつ妄想を断ち切る事を心掛け、放逸な心の習慣を止めることが肝要である。仏教徒は、そうして常に冷静な心で生活することが求められている。もちろんそれはそんなに簡単なことではないが。だが、そうあってこそ、かつてのような大衆扇動の道具と化したメディア報道からも解放され、周囲に惑わされることもなく、自らの考えをもち真実なるものを探求しつつ、これまで通りの生活様式を生きることができるだろう。

以上仏教徒として今という時代にいかにあるべきか、何を大切に生きたらよいのか、何がもとめられているのか述べてみた。もう一度まとめると、①世間の通説にとらわれず自ら考える②祈りではなく真実を知る③お釈迦様を人生の理想とする④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す⑤妄想の中に生きるのでなく、今の現実を生きる。これら五つのことを心において生きることで、付和雷同せずに、真実を見極め、自らの見方考え方を大切にして、精進の日々を過ごすことができるであろう。世界中の仏教徒が、お釈迦様の生きざまからこの五つの指針を受け取り、自覚しつつ生きることによって、人々が昨年から続くこのつくられたパンデミックから救済されることを念願するものである。仏教を信奉する者としてお釈迦様の事跡から導き出した指針ではあるが、他の信仰を持つ方々にも当然同様な教えが導き出されてもおかしくない、ともどもにこの時代に相応しい生き方によりこの時代の難局を乗り越えてまいりたいと思う。


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寺とは何か、檀信徒とは。

2021年10月13日 13時01分28秒 | 仏教に関する様々なお話
寺とは何か、檀信徒とは。



お寺は檀信徒の菩提所であり祈願所でもある。だがそうあるためにはお寺はどうあるべきなのか。本来お寺とはいかなるものなのか。檀信徒とはどのような方々なのか。

インドで最初にできたお寺は、ヴィハーラ・精舎といわれ、修行に精励する比丘・遊行僧のための粗末な建物に過ぎなかった。勿論そこで有徳の長老僧から教えを聞き、坐禅瞑想の手ほどきを受け、ウポーサタ・布薩という、ひと月二回の戒本の読誦を聞き精進を誓った。それがサンガーラーマ・伽藍といわれるような、仏像を祀った礼拝所と宿泊所があり、のちに栴檀林といわれるような学問所ができるのはずっと時代を経てからのことである。

因みに、寺とは、中国で最初に西域から来た僧が泊まったのが鴻臚寺という役所であったため、僧侶の住まいを寺と言うようになったという。そして、実質的な運営面を考えるならば、寺は修行に精練する僧侶の宿泊する場ではあるが、彼らの信奉する教えの価値をわきまえ、その修行を支援するために、建物を寄附し食事など生活面のサポートをし、そうして、彼らから教えを聞き学び、自らも仏道に励むウパーサカ(信士)・ウパーシカ(信女)といわれる在家の人々の存在が不可欠であった。だからこそ日本でも寺院には必ず檀信徒がおられ各寺院を支えている。

しかし今日、現代の日本社会においては、寺院のその本来あるべき意義が失われてしまっているかのように見える。寺は人が亡くなった時に必要とされる葬式をつかさどり、その後の法事をしてもらうところ。ないしは、様々なご祈願ごとをお願いするところであり、そうした仏事全般を担うところとしか見られていない。そこに集う人々がそれは自らの信仰に基づく仏道のためという意識は希薄なのではないか。風光明媚な散策の場でもあり、静かに心癒す場など、その他いろいろな役割があるとは思われるが、僧俗共に最も大切な自らの仏道を実現するための道場という認識が失われてしまっているのではないかと思われる。

しかし寺院と檀信徒との関係を考えるとき、この本来の意味から捉えない限り、寺院は儀礼のみという形骸化を招く現状に荷担するばかりとなるであろう。住まう僧侶らは、自らの修行を日々行じつつ、仏の存在を自らの理想として生きる人々の、その理想に近づくための歩みを実現する場としての寺院を、檀信徒とともに維持管理し、様々な諸行事を含め円滑な運営することがなすべき大事な役割であろう。また集う人々の信仰の場である寺院を支える檀信徒は、寺院を支えることにより大きな功徳を積むわけであるが、それは自らの信仰のためでもあり、先祖代々の供養のためであると考えるのであろう。

檀信徒は、その寺院に関係する多くの人々の信仰と修行のために奉仕し支援する誠に甚大な功徳主であり、それを先祖代々続けてこられている。寺院にとって、そして仏教にとって、とても大切な御恩ある方々である。そして、その大切な檀信徒の中で、もしも万が一ご不幸あったときには、何を差し置いても駆けつけて経を上げさせていただき、有り難い戒名を授けさせてもらい、長年お寺のために尽くして下さったことに感謝を述べて、懇ろに葬儀を執り行わせていただく、年忌法要にも出向くというのが本来のあるべき仏事であろう。

昨今、こうした寺院と檀信徒の本来からの関係性をわきまえず、仏事を単なる商行為の如くに捉え、ネットにおいて安価奨励する企業もある。信仰なき媒介は益々現代人の宗教的価値を低下させ、先祖代々大切にしてきた仏壇や仏事の形骸化を招くだけであろう。葬式法事など仏事の本来的な意味を逸脱した供養ははたしてあり得るのかと問われねばならない。葬式は要らない、墓じまい、といわれ、それが時代の風潮の如くに扱われる時代ではあるが、なればこそ、頑なに本来のあるべき姿にこだわる必要があるのではないかと思える。

寺院は、本来、仏を理想として生きる、つまり自らも仏に近づいていくことを目的とする人々にとっての心の修行の場であるからこそ、そこで行われる仏事という善行功徳に対してその意味を知り随喜して、先祖も含め故人の成仏を願い、その功徳を回向することが可能となるのではないか。仏壇中段に祀られる先祖各霊の位牌は、さらにその上の仏になるべく親族に合掌され祈りを捧げられる。しかしその位牌に私たち自身の戒名が刻まれ並べられるときが来る。遺族からは成仏を願われる存在ということになる。であるならば、こうして生きているときにも私たちは命を生きる最終ゴールは仏のところにあることを知るべきであろう。だからこそ寺院があり、集う人々とともに教えを学び精進する場がいかに大事なものであるかがわかる。私たちは何のために生きているのか、しあわせとは何かをを今一度立ち止まって考えてみる必要があるのかもしれない。仏壇に託され、先祖代々承け継がれてきた信仰のありがたさ、意味を感じ取っていただけたらありがたい。


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煩悩について 3 

2021年09月12日 19時44分50秒 | 仏教に関する様々なお話
煩悩について 3


一昨日の懇話会にて、煩悩についてお話しました。煩悩とはそもそもどのようなもので、どんな心が該当するのか。そしてそれを取り除くためにどのようにしたらよいのかということについても初期経典の内容に沿ってお話しました。しかし、大まかな流れにとどまり消化不良甚だしいものだったようで、あとから、難解なお話でしたが、最後の四行に救われました、と言いに来られた方があり、もう一度わかりやすく解説することが必要のようです。そこで、前回「煩悩について 2」で述べた、煩悩を防止するための法門①から⑦までについて、あらためて順に考えてみたいと思います。

①これは、見ることとありますが、これは智慧の眼のみで見ることとテキストにもあり、煩悩が生じない思惟すべき法を見る、という意味となります。そして、欲の煩悩、生存の煩悩、無明の煩悩と三種の煩悩について生じないよう増大させないように思惟すべきであるとあります。

欲の煩悩とは、②にも該当しますが六根に入る刺激に反応して好ましいものに対して起こす欲のことで、生存の煩悩とは、来世の生存では善きところ(善趣、色界・無色界)において快適な環境に生まれ変わりたいという欲を起こす煩悩であり、無明の煩悩とは全ての煩悩のもとになるものではありますが、とくに四顛倒(常・楽・我・浄)を足場に思惟するものに生じる煩悩であるとあります。

欲の煩悩については②に述べるとして、生存の煩悩については、色界無色界に転生するほどの瞑想修行に該当する人の煩悩ですから、私たちには縁遠いものとして、ここでは、無明の煩悩について立ち入ってみてみましょう。四顛倒とありますように、無常の命であるのにそれを常と見たり、苦しみの世の中であるのに楽と見、無我なるものを我・実体あるものと見、不浄なる身体を浄と見ることをいうわけです。それによって煩悩を掻き立てているのだということなのです。

無常ということを考えるならば、私たちは生れ出てより、一瞬一瞬心がコロコロと移り変わり、そして老いて、病となり、いつの間にか死が訪れることは必定のことです。一瞬たりともその営みはとどまることがないのに、いつまでも私たちは、老いずに、このままに生き続けられることを前提に生きています。病気にならないようにサプリメントを飲み、運動して健康を気づかい、長生きが人生の目的のごとくになってしまっているとしたら問題かもしれません。勿論それが悪いというわけではありませんが、例えば身近な人が亡くなり泣き叫ぶのは、まさに自分の命を度外視して亡くなった人の命はかなきことのみを嘆いていることになると、あるスリランカの高僧に教えられたことがあります。一日一日私たちの命も亡くなりつつあることを思えば、亡き人を前に慄然とわが身の終焉を思い、残された時間に生きるとは何か、何をすべきかと奮い立つ心境にもならねばならないことなのかもしれません。

ということを考えるならば、この世は娑婆と言ったりいたしますが、娑婆とはインドの言葉でサハーといい、これは忍耐を強いられるところという意味であることを知らねばなりません。そして、私たち衆生はサッタといい、これは執着せる者という意味となります。もともと生きることそのものが苦であり、忍耐を強いられている。それに耐えることを放棄して楽を渇望して生きているのが私たち人間だということになります。楽を求めるが故にどれだけの忍耐、つまり苦を強いられているかということに思いいたらねばなりません。ですが、そのおかげか、今ではたくさんの家電製品が製造改良され快適な生活を享受しているわけではありますが、ですが、この先にあるのはそうしてさらに進歩するとそれらに監視され管理される世の中が到来することが予測されています。それでもいまも楽を求めてさまよい、例えばスマホも含めて様々なメディアから快適に豊富で必要な情報を手に入れていたと思っていたら、すべてそのやり取りが筒抜けであったり、嗜好行動を先回りされていたり、情報により思考行動を誘導操作されていたり、見知らぬ相手につながり身の危険さえあるのに、それに気づくことなくさらに欲をつのらせ使用し続けています。楽を求めているつもりなのに苦を作り出しているといえるのかもしれません。

無我ということを考えるならば、すべてのものが無我であって、実体無きものなのに、わが身や物に執着して、悩み苦しんでいます。人と比較して、自分や自分のものをより優れたもの永遠なるもののごとくに思い驕ってみたり、逆に劣って見えると嫉妬や羨望の目を向けたり。思い悩むというのは自分あっての苦しみです。自分という思いがなくなれば、一瞬のうちにそれまでの悩み苦しみは雲散霧消してしまいます。うじうじと自分のこと相手のことをあげつらい考えている状態は、まさに自分を中心にものを考えているのです。いくら悩んでも苦しんでも自分という我を捨てきれずに振り回されている我が身を振り返り、そのことを自覚することでまずは考えている習慣、心の癖を止める必要があるでしょう。

不浄ということを考えるならば、まずはこの自分をこの身の私と見ていることをやめることが必要でしょう。私とは心のことです。心の清らかさが必要なのであって、どうかすると身の清らかさではなく美しさ、たくましさばかりに気をとられ、きれいさ、清潔さを探し求めているのではないでしょうか。今ではどこの入り口にも手指の消毒剤が置かれていますが、かえって薬剤が体内に入り健康被害が起きていることも考えられます。ところで、心の清らかさとは、自分という思いのない心のことです。難しいことではありますが、自分のない、他と一体となったところの心こそが清らかな心であり、それをこそ浄とするなら、私たちの考えるこの身の自分は、汗をかき、臭いがして、鼻や唾など汚物糞尿を垂れ流す五尺のくそ袋に外なりません。それがゆえに毎日体を洗い、着替えが必要になるわけですが、わが身は不浄そのものといわざるを得ないのです。それに引き換え、仏様の世界を浄土といったりいたしますが、だからこそ私たちはそこに至ることを求めているのです。

これら四顛倒を顛倒せずによく理解し、四法印・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦をさとるために、四念処など瞑想修行がすすむと、四聖諦を正しく思惟して、いくつかの煩悩を断つことができるということになります。

つぎに、②防護というのは、私という存在の成り立ちを説明する教説である五蘊のプロセスを理解し、その過程の中に起こる煩悩について防護するという内容になります。五蘊とは、色・受・想・行・識の五つの集まりという意味で、このプロセスによって私たちは生きている存在だということです。とは、この体の、六つの感覚器官、眼耳鼻舌身意。舌とは味覚を感じる舌、身とは触覚を感じる皮膚のことで、意とは思いめぐらす心の認識機能のことです。そこにそれぞれ形あるものが眼に入り、音が耳に入り、匂いが鼻に入ると、それぞれ眼、耳、鼻が作用して、として感覚的に受容し、としてそれらが何かと概念として捉え、として何かしたいと意思が働くことになるのですが、その過程で、それらが好ましいものなら欲の心、貪りの心が生じ、好ましからざるものなら、嫌悪や怒りの心が生じます。そうして煩悩が生まれていきます。

想から行にいたる段階で、煩悩が起こらないように、防護するということが必要だということになるのです。物を見たり、聞いたりの一瞬のうちにこれらの過程は進みます。なんの余計な心を入れることなく、ただ物体を見たり、音声を聞く、・・・心に思い考えが起こった瞬間に断ち切るということが必要となります。そのように、その過程を細かく観察できるように心を鋭く余計なことにかかわることなく観察する訓練が必要となります。

受用忍耐回避除去については、すでに見てきたとおりですが、衣食住薬という生活必需品を求める際の心構え、生活環境に対する忍耐が必要不可欠なこと、心身が煩悩を起こしやすい状況をつくる危険をきたすような場所を避ける姿勢、差別や分断を生むような物の考え方を除去することによって、様々な場面において少しでも煩悩が起こらないように心がけるべきであるということです。

修習については、ここでは七覚支について述べられているわけですが、段階を踏んで、初歩から瞑想修行を重ねていくことによって、煩悩が起こりやすい心が薄れていくように励むことが必要であるということです。

以上、前回の補足として述べてみましたが、わかりにくいところがありましたら、またご質問いただきながら解説度を高めていきたいと思います。

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煩悩について 2

2021年09月04日 10時14分41秒 | 仏教に関する様々なお話
煩悩について 2


前回煩悩について、お釈迦様の時代から部派仏教、そして大乗仏教にいたり、次第に増えるたくさんの煩悩を数え上げてその内容にも触れ見てきました。今回は、懇話会でのご質問「煩悩を取り去るにはどうしたらよいのか」ということについて、順に考えてまいりましょう。

まずお釈迦様の説かれる煩悩の断ち切り方について見てまいります。パーリ中部経典の第二・『一切煩悩経』に、あらゆる煩悩を防止する法門について説かれています。邪な思惟をする者には、煩悩が生じ増大するけれども、正しく思惟する者には煩悩は新たに生じず生じている煩悩は断たれるとあります。そして煩悩を防止する方法として、見ること、防護、受用、忍耐、回避、除去、修習の七種あるとしています。

では、まず①見ることによってどのように煩悩を断つのか。思惟すべきもの思惟すべきでないものをわきまえる聖者、賢者をこそ見て、その法を熟知すべきであると教えています。そうしなければ、例えば、過去の自分にとらわれ何になりどうなったか、未来の自分にとらわれ何になりどうなるか、現在の自分は何になりどうなるかと、このような思惟をなすことになり、私に我があるとかないとか、この我は常住で堅固で不変であるとの邪見が生じ、憂い悩み苦しみから解放されることはないと説かれます。

そして、外から五官に入る形あるもの、音、香り、味、皮膚の感触などによる刺激に欲を増大させる思惟をせず、来世での善趣への欲求を増大させる思惟をせず、無常なものを常とし、苦なるものを楽と見、無我なるものを我と捉え、不浄なるものを浄と思うことによって生じる無智なる思惟をしないことによって、煩悩が新たに生じないように、すでに生じている諸々の煩悩は断つべきであるとあります。そして、これは苦である、これは苦の生起である、これは苦の滅尽である、これは苦に至る行道であると、四聖諦を正しく思惟する者には身見、疑、戒禁取が断たれると説かれています。

次に、②防護によってどのように煩悩を断つのか。眼耳鼻舌身意の六根に対する外界からの刺激に煩悩や破壊、苦悩が生じないように防護することです。好ましいものを見たり聞いたり味わうことで欲しい、もっと沢山という思い、煩悩を生じさせ、逆に好ましくないものなら怒りや嫌悪の心が生じ、過剰となればそれがもとで心身に影響したり、社会生活に支障をもたらす原因ともなるものです。

例えば対象が目(色)に入り認識(識)し、それを感じ取り(受)、それが何かととらえ(想)、それをどうかしたいと意欲(行)をもつ、これらの過程(五蘊)で欲や怒りなど様々な煩悩を生じさせていくわけですが、ただ見る聞く嗅ぐ味わう触れるにとどめ、そこに何の煩悩も起こさないように心を観察し防護するということです。そのためには対象となりがちなものをどう捉えるべきかをわきまえておくことも大切となるわけですが、それは次の受用にヒントがあります。

受用とは何か。煩悩を起こすもととなりがちな、着るもの、食べるもの、住まい、薬について、それらをどのように捉え受け取るのかということです。衣は、寒さを防ぎ、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることを防ぐため、陰部を覆うためでしかないとあります。これは出家比丘のための説明ではありますが、本来着るものとはそうあるべきと考え、形や豪華さ色などにとらわれることで煩悩や破壊苦悩をもたらすと考えられています。

食は、戯れ、心酔、魅力、美容のためでなく、身体の存続、維持のためであり、空腹を克服し、食べ過ぎの苦痛を起こさず、仏行を支えるために食を受用する。住まいは、寒さ暑さを防ぎ、虻や蚊、風や熱、蛇類に触れることを防ぐためであり、薬は、病気の苦痛を防ぎ、苦痛がなくなるためであるとしています。

忍耐によって断たれる煩悩とは何か。寒さ、暑さ、飢え、渇きに耐えること、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることに耐えること。罵倒、誹謗の言葉に、また苦しい、激しい、粗悪な、味気ない、不快な、身体の感受に耐え忍ぶこと。こうしたことに少しでも不平不満を持つならば諸々の煩悩が生じ破壊と苦悩をもたらすとあります。

回避によって断たれるべき煩悩とは何か。狂暴な馬、牛、犬、蛇を避け、切り株、棘の地、穴、断崖、沼、溝など危険な場所を避ける。座るべきでないところに座ったり、行くべきでない悪しきところに行ったり、悪友に親しんだり、そのような煩悩や危険をもたらす場に至ることを回避することで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないと説いています。

除去によって断たれるべき煩悩とは。欲の考え、怒りの考え、害意の考え、不軽蔑に関わる考え、利得尊敬名声に関わる考え、同情に関わる考え、不死の考え、地方の考え、親族の考えなど不善の考えを認めず、断ち除き、終わりにし、除去することで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないとあります。

修習によって断たれるべき煩悩とは。ここでは七覚支という最も高いレベルの修行法が記されており、それは、念・択法・精進・喜・軽安・定・捨の七つの悟りを得るための条件とも言われるものです。

念覚支とは、四念処(いまある身・感覚・心・真理)について細かく観察すること。
択法覚支とは、その観察について真実なるものを選び、他を捨てること。
精進覚支とは、前の二つの修行に集中努力すること。
喜覚支とは、実践することで精神的喜びが生じること。
軽安覚支とは、心身を軽やかに安らかにすること。
定覚支とは、一つの対象に心を集中させること。
捨覚支とは、対象へのとらわれを捨て、苦楽を離れて中道を歩むこと。

これらは正しく観察し、世間を離れ、貪りを離れ、悟りに基づき、煩悩が遮断されつつ修習されるものであるとあります。

これら七種の煩悩を防止する法門によって諸々の煩悩が断たれるならば、その人は渇愛を断ち、束縛を取り除き、正しく慢心を見て、苦の終わりを作った者であると、この経を締めくくっています。

このように、仏行に生きる者が日常に出くわす様々なケースを検討し、それによって煩悩が生じ、苦悩にいたることがないように、どのような手立てによって気をつけるべきであるかという観点から説かれていることがわかります。

それでは、次に、五世紀中頃に世親によって著された教理綱要書『倶舎論』に説く煩悩の対治法について見ていきます。分別随眠品第五に「煩悩の断滅」と題する章があり、そこには、対治に四種ありとして、断、持、遠、厭とあります。

とは、六根に入る六境を好ましいものと捉えることにより渇愛が生じ苦しむ過程を遍知して煩悩を断じます。
は、その断じている状態を持続すること。
とは、煩悩を生ぜしめる対象を遠ざけること。
とは、迷い煩悩に取り巻かれ禍を生じることを予見して厭い離れること。

断は、パーリ中部経典『一切煩悩経』に説く①見ること②防護に該当し、持は、③受用④忍耐、遠は、⑤回避⑥除去、厭は、⑦修習となるのでしょうか。

前回述べたとおり、戒を持して修行を重ね、四双八輩というような聖者の階梯を進むことで段階的に煩悩は消えていくと教えられており、阿羅漢果に至ればすべての煩悩は消滅していることになります。専門的な修行をする環境にない私たちにおいても、これらを参考に、ことあるごとに七つの煩悩防止の教えを思い出し、煩悩を避ける生活を心掛けてまいりたいと思います。

そのためには、煩悩に限らず、仏教の教え全般について学び、善友と親しみ、心の修行を実践することを生活の基本に置き、心を防護して余計なことを思惟せず、慈悲の瞑想を心掛け、坐禅瞑想して世間を離れた心の静寂を知り、善行功徳を積みつつ精進することが肝要であろうと思います。ともに励んでまいりましょう。
 

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救われるということ

2021年08月01日 07時25分25秒 | 仏教に関する様々なお話
2012年01月29日 投稿の原稿に小見出しを付けて再掲載します。



救われるということ

先月の仏教懇話会で、DVD『親鸞・白い道』(三國連太郎監督作品)を皆さんとともに拝見しました。今日では大きな宗派の開祖として祀りあげられている祖師ではありますが、そのどん底の生活ながら己の信じる教えを説き続けた生涯の、一時代を切り取った作品でした。時代背景人間関係も繋がらないいままに見終わり消化不良ではありましたが、苦労された祖師があり今があることを忘れてはいけないのだと思えました。

鑑賞会の後に、「仏様を信じれば本当に救われるのでしょうか」と問われる方がありました。時間もかなり超過していたこともあり、きちんとお答えする間もなく終えてしまいましたが、この一ヶ月、ずっとそのことを考え続けていました。仏様を信じるとはどんなことだろうか、救われるとはどんなことだろうかと考えました。漠然とそう思っているようにも思えますし、しかしそれは本当に切実な問題なのだろうと思えます。

信じるとは

仏様を信じるとは、仏様の何を信じるのでしょうか。仏様という存在でしょうか。仏様の慈悲心でしょうか。それともその教えでしょうか。仏様というものに対する私たちの漠然とした思いは、もう少しはっきり言うとやはりそのお力、救って下さるであろうと思えるその働きということではないかと思います。仏様のそうしたやさしい心を信じるということであるならば、何もしなくても救って下さるのだろうか、どのようにしていたら仏様はお救い下さるのかと考えねばならないのではないかと思います。

また、仏様の教えを信じるということになれば、お釈迦様がどんなことをお話になられたのか、どんなことを私たちに願っているのかということを知らねばなりません。お釈迦様は、この世の中はどういうものか、私たちが生きるとはどのようなことで、なぜそのような不安の中にあるのか、その心を安らかにするためにはどのように考え、どのようにしたらよいかということを教えられています。無常、縁起、四諦、十善などなど。そして私たちに早く自分のところへ来ること、つまりは悟ることを願っています。日々少しずつでも研鑽し近づいてくるように願われています。

普通、私たちが何かを得ようと思ったら、金品なり、何かすることによって、実現する、かなえられるということになります。人に何かをお願いすることを考えても、それなりに筋を通し礼を尽くしてお願いするということが必要でしょう。仏様に何かお願いする場合でも、やはり何か必要でしょう。お供えをしたり、お経を唱えたりということはだからこそなされるものなのだと思います。お経を唱え、教えを学び、一心にお唱えするところに心静まり、心清まる。

つまり信じるということは、そうした自らの心が改まる、清まる、変質することを伴うものなのだとも言えます。それこそが信じるということなのであろうかと思います。

救われるとは

それでは、救われるとは何でしょうか。どうなれば救われたと私たちは思えるのでしょうか。死後の救済ということでしょうか。死んでから仏様のところへいくということでしょうか。死後、仏国土にいけたら幸せでしょうか。仏様の世界とはどんなところなのでしょうか。浄土三部経にはきらびやかな荘厳世界が描かれていますが、私たちはそこへいけたら本当に幸せなのでしょうか。

仏の世界、それは悟りの境地のことだそうです。パラダイスのような、夢のような、何でも願い通りになるような快適な世界ではなく、逆に何もなくても憂いのない世界と表現した方がよいのだと思います。それは心の次元の話ですから、仏様の世界というのはとても清らかで簡素な品行方正な厳粛な世界なのだろうと思います。私たちの心が想像する快適な世界と思ってしまうと少し違うのだと思います。仏様方にとって快適な世界なのでしょうから。

たとえば、今でも、ものすごく心を清らかなものにするために、山に入り修行を重ねる人たちがいます。スリランカやミャンマー、タイなどでは一日瞑想ばかりして、毎日毎日それだけの生活をされている人たちがいます。その人たちは何もなくても、瞑想して心が穏やかで静かな毎日が心地よいのです。一時的にそんな生活に憧れてその場にいれたとしても、一週間、一ヶ月が普通の人には眼界ではないでしょうか。一生そこで、周りの人たちの供養を受けていられる人たちの心はどれだけ高次元のものなのか想像もつかないのです。仏様の世界とはそうした人たちよりもさらに心のレベルの高い人たちの世界だと思ったらよいのではないでしょうか。

ですから、簡単に仏様の世界にいきたい、安楽な世界にいきたいと思っても、ちょっと普通にいられるところではないと思った方がよいのではないかと思えます。それにかなう心を作らねばいられない、安易に立ち入ることが出来ないところとも言えるのではないでしょうか。ですから、死後のことよりも、今いるこの世界で、私たちのこの居やすいところで、少しでも救われてあるようにした方がよいのかもしれません。今が不安でつらいならば、死後の世界もその不安のままにそれに相応しいところに身罷ることになります。

今救われてあるために

それでは今が安心できるようにするにはどうしたらよいのでしょうか。安心できるとはどういうことでしょうか。安心とは、今のこの自分、そのままで良いと思えることではないかと思います。何の心配することもなく、憂えることもなく、苦しみもなく、不安もなく。満ち足りていると思えること。それは、とても難しいと思えるかもしれません。

誰にも不安があり、心配があり、憂いがあるものなのかもしれません。ですが、たとえ何かあったとしても、それで良い、そんなことがあっても当然だと、世の中とはそんなものですと思えるならば、それはそれで自分にとっては今の自分で良いのだと思えるのではないでしょうか。逆に、何かあると、ちょっとでも不満なことがあると面白くない、つまらないと思ってしまったら、どんなことがあっても喜べず、幸せは永遠にやってきません。

お釈迦様がこの世の中は苦しみばかりですよと言われるように、大変なことばかりなんだと諦めて、何があっても、それで当然なんだと思えたら、何があってもその人はいつも平静な心でいられますし、そうした自分でいいんだとも思えるでしょう。そして、少しでも、お経などを唱えたり、お釈迦様の教えを学んだり、日々の生活の中からその教えに得心がいく、そうしていろいろな人や者たちのお蔭で自分は生かされている、大きなそうした存在に自分は支えられているのだと思えるとき、心は清まり、心改まっている自分にも気づくことが出来るでしょう。そのとき、既にその人は救われてあるのではないでしょうか。

みんな誰もが、毎日大変なことばかりの世の中です。それでもやらなければ生きていけません。言いたいことが山ほどあっても、言ってどうなるものでもないのですから、いずれ何も思わないようになるでしょう。何も思わず毎日頑張っている自分にこれでいいのだと思える。そうしてあるからこそ生かされている自分に気づく。今に満足し安心し、自分に納得する。死後のことにも思い煩うこともなく、そうして大切に一日一日を生きたらよいのだと思います。

それはそうそう簡単ではないのかもしれませんが、日々飽きずに、大変だとは思っても、嫌だと思わずにやり遂げている、そんな自分を誇らしく思え、そんな自分だからこそまた生かされているんだと思えるならば、それこそが救いなのではないでしょうか。そうして、その人はすでに仏様に救われてある自分に気づくことでしょう。

ですから、今こうしてあることがすでに救われているのだと思えるようでありたいものだと思うのであります。

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