今日もあなたの車が駐車場にあるのを目にしてどうしているのかと心配しています。私もあなたと同じように悩み、考え続けていました。今から25年も前のことです。ですが、私はそのころ、自分一人で稼ぎ生きていく必要がありました。ですから、毎日昼間は会社に行き、晩は学校に駆けつけ、学食で簡単な夕食を掻き込み授業を受けました。ですが、今から思えばそれはただの形だけのものに過ぎませんでした。
経済学部の二部に入学したわけですが、自分が何をしたいのか、本当は分かっていなかったのです。とにかく経済学部で勉強すればどんな会社にでも入れそうな気になっていたのです。よく考えもせず経済学部を受験し、合格したから大学に通っている、単位だけ取れればいい。今から思えば随分安易だったと思えますが、とにかく大学を卒業したかったのです。
そして、やみくもにある東京日本橋にある金融系の会社に面接に行き、明日から来なさいと言われ、そのまま小さな会社の社員になりました。次の日から毎朝7時に家を出て、日経新聞を読みながら地下鉄に揺られました。会社では、経理を担当し伝票書きと帳簿付けが日課でした。
そしてその頃何より私の頭を悩ませたのが朝礼でのスピーチでした。当時日本橋兜町でも有名な厳しい証券会社の初代外国部長を務め独立した社長は、高卒入社であろうと容赦せず他の人以上に私に発表の機会を与えました。当時は為替相場が日本経済の先行きを左右する大事な局面だったこともあり、何か一つ関心事について話をさせられたのでした。
毎日海外の為替相場や商品相場に目を光らせ、時々の国際情勢を織り交ぜて経済状況を解説したり、石油相場の先行きを予測したりと当時は一つの話をこしらえることに精一杯で汗をかきながら何とか毎度話したことを思い出します。法事のあと話をしなければいけない今の立場を思えばその頃の経験が生きているのか、もしくは同じように冷や汗をかき続けるのが私の役回りなのか。とにかく私には良い勉強となり意味あることだったのでしょう。
思い起こせば、小学生の頃から人前で話をさせられる機会が多く、もちろん満足な話が出来たからではなく、辻褄の合わないこともしばしばではありましたが、とにかくそうした機会が与えられたことは、今となってみればそれらが、今あるためにすべてあるべくしてあったと思えるのです。ですが、会社での様々な仕事をこなし、それから大学に通う忙しさに、その頃は本当のことを考える余裕をわざと自分に与えないようにしていたのかもしれません。
ですが、それらは、ただ生活のために、大卒の資格を取るためだけの単なる空虚な時間だったのではなく、今の私のためにはなくてはならなかった一過程であったのであろうと、今では思えるのです。経理の仕事にしても、その後、総務課に転属し、またある関連する協会の事務局としても、会議の司会をしたりと冷や汗の連続ではありしまたが、それらの仕事のすべてがとても意味があったと、今に生きていると、回り道ではありましたが決して無意味なことではなかったと思えるのです。
高校の友人の中には「経済学部なんかに行ってどうするんだ」という人がいました。彼は先見の明があって文学部に入り、好きなだけ哲学やらさまざまな思想をその頃既に勉強していました。その彼と数人で大学二年目に出会い、議論するのを聞いていて自分も何か学ばねばと漠然と思うようになりました。
そして手にしたのが一冊のお釈迦さまの本でした。何も考えずに時間つぶし程度にブラッと入った書店で、なぜかそれまで立ち寄ったこともなかった仏教書のコーナーに、その時いました。その本との出会いが私を変え、それまで会社帰りに漫然と大学に通うだけだった私に、自ら本当に学びたいという気持ちを起こさせ、会社勤めと大学の授業の合間に仏教書を読みあさる日々が続きました。この仏教に対する情熱のようなもの、学んでも学んでも尽きない向学心は今も続いています。このような一生懸命になれるものに、この時期に出会えたことはとても幸せなことであったと思えます。
それから宗教に関心のある友人もでき、関連する様々な分野たとえば、深層心理学やインドの聖人の思想や占星術などにも領域を拡大させていきました。気がつくと、何とか会社に勤め大学の授業も取りながらですが、私にはもう仏教の世界しかなくなっていました。すぐにでも僧侶になりたくなり、当時若者たちの愛用紙だった平凡パンチという雑誌に紹介された自宅を改造して日本一小さなお寺を造ったというお坊さんに連絡をとり会いに行きました。つづく
経済学部の二部に入学したわけですが、自分が何をしたいのか、本当は分かっていなかったのです。とにかく経済学部で勉強すればどんな会社にでも入れそうな気になっていたのです。よく考えもせず経済学部を受験し、合格したから大学に通っている、単位だけ取れればいい。今から思えば随分安易だったと思えますが、とにかく大学を卒業したかったのです。
そして、やみくもにある東京日本橋にある金融系の会社に面接に行き、明日から来なさいと言われ、そのまま小さな会社の社員になりました。次の日から毎朝7時に家を出て、日経新聞を読みながら地下鉄に揺られました。会社では、経理を担当し伝票書きと帳簿付けが日課でした。
そしてその頃何より私の頭を悩ませたのが朝礼でのスピーチでした。当時日本橋兜町でも有名な厳しい証券会社の初代外国部長を務め独立した社長は、高卒入社であろうと容赦せず他の人以上に私に発表の機会を与えました。当時は為替相場が日本経済の先行きを左右する大事な局面だったこともあり、何か一つ関心事について話をさせられたのでした。
毎日海外の為替相場や商品相場に目を光らせ、時々の国際情勢を織り交ぜて経済状況を解説したり、石油相場の先行きを予測したりと当時は一つの話をこしらえることに精一杯で汗をかきながら何とか毎度話したことを思い出します。法事のあと話をしなければいけない今の立場を思えばその頃の経験が生きているのか、もしくは同じように冷や汗をかき続けるのが私の役回りなのか。とにかく私には良い勉強となり意味あることだったのでしょう。
思い起こせば、小学生の頃から人前で話をさせられる機会が多く、もちろん満足な話が出来たからではなく、辻褄の合わないこともしばしばではありましたが、とにかくそうした機会が与えられたことは、今となってみればそれらが、今あるためにすべてあるべくしてあったと思えるのです。ですが、会社での様々な仕事をこなし、それから大学に通う忙しさに、その頃は本当のことを考える余裕をわざと自分に与えないようにしていたのかもしれません。
ですが、それらは、ただ生活のために、大卒の資格を取るためだけの単なる空虚な時間だったのではなく、今の私のためにはなくてはならなかった一過程であったのであろうと、今では思えるのです。経理の仕事にしても、その後、総務課に転属し、またある関連する協会の事務局としても、会議の司会をしたりと冷や汗の連続ではありしまたが、それらの仕事のすべてがとても意味があったと、今に生きていると、回り道ではありましたが決して無意味なことではなかったと思えるのです。
高校の友人の中には「経済学部なんかに行ってどうするんだ」という人がいました。彼は先見の明があって文学部に入り、好きなだけ哲学やらさまざまな思想をその頃既に勉強していました。その彼と数人で大学二年目に出会い、議論するのを聞いていて自分も何か学ばねばと漠然と思うようになりました。
そして手にしたのが一冊のお釈迦さまの本でした。何も考えずに時間つぶし程度にブラッと入った書店で、なぜかそれまで立ち寄ったこともなかった仏教書のコーナーに、その時いました。その本との出会いが私を変え、それまで会社帰りに漫然と大学に通うだけだった私に、自ら本当に学びたいという気持ちを起こさせ、会社勤めと大学の授業の合間に仏教書を読みあさる日々が続きました。この仏教に対する情熱のようなもの、学んでも学んでも尽きない向学心は今も続いています。このような一生懸命になれるものに、この時期に出会えたことはとても幸せなことであったと思えます。
それから宗教に関心のある友人もでき、関連する様々な分野たとえば、深層心理学やインドの聖人の思想や占星術などにも領域を拡大させていきました。気がつくと、何とか会社に勤め大学の授業も取りながらですが、私にはもう仏教の世界しかなくなっていました。すぐにでも僧侶になりたくなり、当時若者たちの愛用紙だった平凡パンチという雑誌に紹介された自宅を改造して日本一小さなお寺を造ったというお坊さんに連絡をとり会いに行きました。つづく