住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

いのちの尊さとは何か-葬式簡略化に思う-

2006年06月25日 11時25分50秒 | 様々な出来事について
23、24日と東京に出張した。この度は、関東にある檀家さんの盆参りとある知人の法事を勤めるためであった。このところ東京に行くと人の多さに辟易する。つい7年前にはそれが当たり前であったのに、数年で今の環境に慣れきってしまったせいなのか、全く捉え方が変わってしまったようだ。

ところで、法事の後のお斎の席で、お墓の話からお葬式の話になり、このところの特に都会で進行している葬式の簡略化について、自分たちの身内が亡くなってもそれに追随して、戒名もつけず、家族だけの葬式で済ませたいという意見が何人かから発言された。

住職はどう思うかとの質問がよせられたので、そう言っている方たちには誠には申し訳ないが反対の意見を述べた。「このところ、不景気という理由から葬式が簡略化し、昨日も実はある仏教雑誌の編集の方とお会いしたら、都会では病院から火葬場に直行し、そのまま墓に入れてしまうケースも良くある。その後お別れ会を知人だけで済ませるということもあるが、何もしないということもあると聞いたばかりだが、それで良いのかという思いがした。

人が亡くなるということをそんなに簡単なこととして片付けてしまうのは如何なものであろうか。犬猫でもあるまいし。犬猫でもペットとして可愛がられていれば、ペット専門の供養をし火葬をする人もいる。人が生きてきたことをそんなに簡単なことと思って良いのかと思う。

人が一生をつつがなく、何とか生きてくるのには誠に数え切れないほどの人々、生き物たちの助けを必要としたはずではないのか。まわりの家族、親族、周囲の人たちのお陰で生きてこれたのではないか。その人が死んだからといって、はい亡くなりました。居なくなりました、と言って済ませられることであろうかと思う。

やはり、亡くなりましたがこれまで、こうして生きてこられたのは皆様のお蔭です。本当に有り難う御座いました、という故人の気持ちを代弁して遺族が葬儀を営み、お年寄りから小さな子供まで、その葬儀に参列して人が生きてきて、死ぬということがどんなことか。これだけの大勢の人たちが見送り、冥福を祈ってくれた。親族も、参列した人たちも、人が一人生まれ、生きてきて、死ぬということがどんなに大変なことなのかということを知る機会として葬儀があったのではなかったか。

どこの国でもそれぞれに死者の葬送の儀礼はあるだろう。どんなに未開の国や地域であっても。私たちの遠い祖先であっても、ただ遺体を焼いて川に流すような国であっても。インドで実際に私が目にした田舎の葬儀では、晩に村中の人たちが集まり食事が供養された。死者が生前沢山の人に世話になった。その人たちに感謝と御礼の意味から食事を捧げ、その供養の功徳を持って死者は来世に旅立っていくのだということだった。

私たちは、今、人一人が死ぬということをそんなに簡単に済ませていいのだろうか。何もお金を沢山使わなくてはいけない。お寺に沢山布施しなくてはいけないと言いたいのではない。そうではなくて、人が死んでも葬式もしない、簡略に済ませるという発想が、つまりは人の命を粗末に扱うということに繋がらないかと憂えているのだ。

親が子を殺し、子が親を殺す。小さな弱い者を何人もで暴力を振るう。そんな人とも言えないような人間を育ててしまった社会である。自殺する人も後を絶たない。今になって、いのちの教育、いのちを大切に、いのちの尊厳と口では言いながら、結局していることは大人自身が命を何とも思っていない、人の一生を大切にしていない、ということを表してはいまいか。

人の死をどう思っているのか。人が一生を生きてきて、死ぬことをどう扱ったらいいのか何も深く考えることもせずに、ただ今の社会の風潮だからと安易に流されているだけではないのか。小さな子供たちを法事や葬儀に参加させることもない。様々なその場かぎりの理由を付けて。騒いでも良いではないか。勉強がその時できなかったからといって受験に落ちるようなら、初めから受かるはずもない。つまらないそんな理由で私たちは最も大切な実生活からの体験による心の教育の場を放棄してしまっている。

それでいて学校でいくら、いのちの尊厳などと唱えても何の意味があろう。お金を沢山使わなくても、立派な会場でなくても、お葬式は出来る。別に仏式でなくはていけないなどと言うつもりもない。その人なりのその人にあった葬儀を工夫して、ジミ婚ならぬ、地味葬でも良いから、多くの人に参加してもらって欲しい。泣き崩れる遺族を目の当たりにして何かを感じ取ってくれる機会にして欲しい。そこから人の営み、いのちの重さ、いかに人は生きるべきかということを学ぶ機会にして欲しいと思うから」

そんなことを長々とお話した。みんな年長者も含め、神妙に聞いて下さった。葬儀だけでなく、昔からの慣習、しきたりは今どこでも簡略化し、形だけのものになりつつある。お祭りも、文化、芸能も。だが、そこには昔の人たちが様々な思いを込め、その地域社会がうまく回転していくための、人が人として生きる叡智が形となったものとしてあったはずではないかと思う。お葬式もその一つであった。

私たちはそれらの形だけしか継承せずに、時代にあわないと言い、簡単に済ませたらいいと思う。しかし継承すべきは形ではなく、その精神ではないかと思う。それらから昔の人たちが得ていた心、学び、つながりをこそ大切にすべきなのであろう。

帰りの機内で、十代の女の子の心中事件を小説化した文庫を読みながら、多感な十代の若者たちに何を私たちは伝えられるのか、彼らのどんな叫びを聞き取ってあげられるのかを思った。その時言葉がどれほどの力があるだろう。言葉ではない、言葉では伝えられない何かを心に受け取ってもらうために。私たちはしなければいけないことはしなければいけないのだと思った。

コメント (2)
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