ある方のベストセラー本にこんな件(くだり)があった。他のことを推奨するのに仏教に触れて、お釈迦様は崇高な思想を説いた、そして仏教は「この世の一切は空であるという大変優れた思想である。色即是空と言い、人間世界のすべては無に帰る。だから現世の欲を捨てて出家者はひたすら修行せよと言われる。しかし、出家者以外には現実味のない、無理の多い思想だ」と結論している。
一流の文化人においてもこうした解釈に留まっていることに些かの焦燥感を抱く。こうした一方的な仏教解釈のまま世に書籍として出回り人々の目に触れ、なにがしかの影響をもたらすことにいらだちを禁じ得ない。しかしこうした仏教理解をもたらしている仏教界の存在、今の法を説くべき人々の責任も痛感する。
まったく余談になるが少し前に比叡山で暴力団元組長の法要が行われた際、世間から非難を受けた比叡山側の弁明の中に、「死者はすべて仏なのですから、平等に扱われるべきではないか」というような説明があったことを記憶している。死者はすべて仏なのですからと簡単に当たり前のように述べてしまい、それをそのまま何の疑問を感じることなく報道される日本の仏教に問題があると私は思った。
何故に死者はみな仏なのか?そんなことを誰が言い出したのか。死ねば仏ならば、葬式も何もする必要も無かろう。難しい教理も必要なければ、戒も、修行も何も必要ない。さらには何をしようがおかまいなし、無法状態の世の中になっても仕方あるまい。何をしてもどんな悪いことをしても死ねば仏なのだから、せいぜいお縄にならない程度あくどいことをして金をつかみ、いい思いをすればいいという人生観になろう。
しかし一方で私たちはそんなうまい話はなかろう。やはり悪いことをしていれば報いはあるはずだというまっとうな考えを持つ、世の中を清らかなものにする人々の思いもある。そのどちらを仏教は支持するのかといえば、比叡山式に、つまり今の日本仏教の通念からすれば、前者の無法者を支持していることにはならないか。
やはり仏教は業論を説き、それに従って輪廻を説く。因果応報を説くのが仏教ではないか。森羅万象すべての因と縁、縁起を説く。そこから空という思想も発達してきたのであろう。だから、主題に戻ると、空とはただ無に帰するということではない。無くなってしまうということではない。何か無の世界というような不確かな超越したところに向かうということでもない。
今私たちが目にしている世界、存在する現象そのもののことだ。実体として存在するかのように思ってしまっている物も自分も実は仮の存在に過ぎない。因と縁、ある条件の下に存在しているだけだということ。それはなぜかと言えば、みんなその物一つ、一人だけでは存在していないから。他があって、他の作用によって、他の助けによって存在している。
みんな他に依存しているということ。他とともにある。すべての存在は繋がっている。共存しているとも言えよう。それは、つまりそのものだけで存在できるものなど無いということにもなる。だから、自分だけよくありたい、自分だけいい思いをしたい、自分だけ幸せに、金持ちになりたいと言ってもダメだよということになる。
私、私、どこまでいっても自分を第一に考えてしまう私たちではあるけれども、また、自分のものと思い、永遠に自分というものがあるように思ってしまうけれども、そんなものも幻想にすぎない。
では、私一人がよくあるためにはどうあればいいか、と考えたとき、やはり周りの人たちがよくあらねばならない、周りの人たちがよくあるためにはすべての生きとし生けるものたちの存在が必要だと気づく必要がある。ではどうすべきかということを教えるのが空という思想になるのではないか。決して出家者だけのものではないし、現実味のない教えではない。
しかし、最後に空が仏教の中心課題でもないことを付け加えておくことも必要であろう。日本仏教は、般若心経、それに導かれるように空ということを誇大宣伝しすぎではないか。漢字になった仏教要語を振りかざすことで何か崇高な思想が分かったような気にさせてしまい、それが実践に結びつかないことに問題があるのではないかと思う。
![にほんブログ村 哲学ブログへ](http://philosophy.blogmura.com/img/philosophy80_15_1.gif)
一流の文化人においてもこうした解釈に留まっていることに些かの焦燥感を抱く。こうした一方的な仏教解釈のまま世に書籍として出回り人々の目に触れ、なにがしかの影響をもたらすことにいらだちを禁じ得ない。しかしこうした仏教理解をもたらしている仏教界の存在、今の法を説くべき人々の責任も痛感する。
まったく余談になるが少し前に比叡山で暴力団元組長の法要が行われた際、世間から非難を受けた比叡山側の弁明の中に、「死者はすべて仏なのですから、平等に扱われるべきではないか」というような説明があったことを記憶している。死者はすべて仏なのですからと簡単に当たり前のように述べてしまい、それをそのまま何の疑問を感じることなく報道される日本の仏教に問題があると私は思った。
何故に死者はみな仏なのか?そんなことを誰が言い出したのか。死ねば仏ならば、葬式も何もする必要も無かろう。難しい教理も必要なければ、戒も、修行も何も必要ない。さらには何をしようがおかまいなし、無法状態の世の中になっても仕方あるまい。何をしてもどんな悪いことをしても死ねば仏なのだから、せいぜいお縄にならない程度あくどいことをして金をつかみ、いい思いをすればいいという人生観になろう。
しかし一方で私たちはそんなうまい話はなかろう。やはり悪いことをしていれば報いはあるはずだというまっとうな考えを持つ、世の中を清らかなものにする人々の思いもある。そのどちらを仏教は支持するのかといえば、比叡山式に、つまり今の日本仏教の通念からすれば、前者の無法者を支持していることにはならないか。
やはり仏教は業論を説き、それに従って輪廻を説く。因果応報を説くのが仏教ではないか。森羅万象すべての因と縁、縁起を説く。そこから空という思想も発達してきたのであろう。だから、主題に戻ると、空とはただ無に帰するということではない。無くなってしまうということではない。何か無の世界というような不確かな超越したところに向かうということでもない。
今私たちが目にしている世界、存在する現象そのもののことだ。実体として存在するかのように思ってしまっている物も自分も実は仮の存在に過ぎない。因と縁、ある条件の下に存在しているだけだということ。それはなぜかと言えば、みんなその物一つ、一人だけでは存在していないから。他があって、他の作用によって、他の助けによって存在している。
みんな他に依存しているということ。他とともにある。すべての存在は繋がっている。共存しているとも言えよう。それは、つまりそのものだけで存在できるものなど無いということにもなる。だから、自分だけよくありたい、自分だけいい思いをしたい、自分だけ幸せに、金持ちになりたいと言ってもダメだよということになる。
私、私、どこまでいっても自分を第一に考えてしまう私たちではあるけれども、また、自分のものと思い、永遠に自分というものがあるように思ってしまうけれども、そんなものも幻想にすぎない。
では、私一人がよくあるためにはどうあればいいか、と考えたとき、やはり周りの人たちがよくあらねばならない、周りの人たちがよくあるためにはすべての生きとし生けるものたちの存在が必要だと気づく必要がある。ではどうすべきかということを教えるのが空という思想になるのではないか。決して出家者だけのものではないし、現実味のない教えではない。
しかし、最後に空が仏教の中心課題でもないことを付け加えておくことも必要であろう。日本仏教は、般若心経、それに導かれるように空ということを誇大宣伝しすぎではないか。漢字になった仏教要語を振りかざすことで何か崇高な思想が分かったような気にさせてしまい、それが実践に結びつかないことに問題があるのではないかと思う。
![にほんブログ村 哲学ブログへ](http://philosophy.blogmura.com/img/philosophy80_15_1.gif)