外見より中身。そんな言葉が聞こえてきそうな気がする。しかし、人を外見で見るというのは、誰もがしていることであろう。外見でその人の大体の人物を見て、話しかけたり、用心したりということを当たり前にしている。不審な人に気をつけてください、と言うのも頷けよう。だが、一方で人を外見だけで判断してはいけないというのも事実である。
インドの聖地にリシケシと言うところがあって、かつてビートルズか訪ねたところとしても記憶されているのだが。私がはじめてインドに一人バックパッカーしたとき、5月の灼熱のブッダガヤから逃げていった先がリシケシであった。ドゥーン・エクスプレスという急行列車の寝台車に丸1日乗って北西に向かい、体調を壊し車中何も食べることも出来ずリシケシに辿り着き、ガンジス河の冷たい雪解け水に足を着けたときの感激は今でも忘れられない。母なるガンガー、そのものだと感じた。
そのリシケシで泊まったヴェーダニケタンというヒンドゥー教のお寺からガンがー沿いに細長くバザールがあり、店と店が離れたところにはぎっしりと巡礼者のいでたちをした乞食たちが並んで器を前に置いて行き交う人に手を差し出していた。
インドならどこでも出会う、いつものことで別に何も思っていなかったのだが、あるときその中に一人際だって目の輝いた人が座っているのに気づいた。なにげに視線が合い、その人の目の中に吸い込まれるのではないかと思われ、何もかも私のことを見透かしているかのように、またその澄んだ瞳に心が浄められるようなそんな不思議な瞬間を体験した。
後から様々な人から話を聞くと、どうもそうした乞食の中に、たまに本当のかなり到達した修行者が紛れ込み、そうして喜捨を乞い、心に何の欲も現れないことを確認するために、他の殆ど乞食と化した巡礼者然とした人たちに混じって坐っているのだと聞きた。ただの乞食だと十把一絡げに見て馬鹿には出来ないということになろうか。
脱線ついでに、インドではまた、人々の特に中年以降の人たちの歩く姿がとても美しく思うことが度々あった。田舎の路地を歩くインド服を着た、たとえば、クルターというクルーネック、プルオーバーの腿まである綿シャツに、下は長い布を左右の足に纏ったドーティといういでたちで歩く人など特に背筋がまっすぐで、堂々と大地を踏みしめて歩くその姿は同姓であってもほれぼれするほどであった。
昔お釈迦さまの時代に、ある沙弥(未成年の見習い僧)が街を托鉢するその姿の美しさに街の人々の視線が釘付けとなり、そのことをお釈迦さまに問うと、きちんと自らの行いに気づきつつ心落ち着き一つの動作にも隙が無いからであると言われたという。その沙弥は年は若くてもかなりの修行が進んでおり、聖者の階梯にある人であった。
さらには、別に学歴があるわけでもない田舎の老人でも驚くほど落ち着いていて哲学者然とした微笑みを浮かべていたりする。そうしたことを見ていくと、学歴も地位も知識も豊富な情報も関係なく、人間として身につけるべきものは何かということになるのではないか。
インドは生活の中に宗教が生きていると言われる。小さな時から様々な演劇や地域の行事などから宗教性を身につけ、なぜ生まれてきたか、生きるとはいかなることか、働くとは何か、人間はいかにあるべきか、物事の本質とは何か、世の中の有り様とはいかなるものか、そんなことを当然のことのようにわきまえ思索しつつ成人し、歳を重ねていくのであろう。
姿の美しさに裏付けられた内面の確かさというものがあるということになろうか。実は昨日も坐禅会があり、数名の方々とともに、歩く瞑想をし、坐禅をした。歩く姿、坐る姿の美しさにこだわりたいものだと思う。勿論内面の充実が現れる外見でなければならないことは言うまでもないが。
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インドの聖地にリシケシと言うところがあって、かつてビートルズか訪ねたところとしても記憶されているのだが。私がはじめてインドに一人バックパッカーしたとき、5月の灼熱のブッダガヤから逃げていった先がリシケシであった。ドゥーン・エクスプレスという急行列車の寝台車に丸1日乗って北西に向かい、体調を壊し車中何も食べることも出来ずリシケシに辿り着き、ガンジス河の冷たい雪解け水に足を着けたときの感激は今でも忘れられない。母なるガンガー、そのものだと感じた。
そのリシケシで泊まったヴェーダニケタンというヒンドゥー教のお寺からガンがー沿いに細長くバザールがあり、店と店が離れたところにはぎっしりと巡礼者のいでたちをした乞食たちが並んで器を前に置いて行き交う人に手を差し出していた。
インドならどこでも出会う、いつものことで別に何も思っていなかったのだが、あるときその中に一人際だって目の輝いた人が座っているのに気づいた。なにげに視線が合い、その人の目の中に吸い込まれるのではないかと思われ、何もかも私のことを見透かしているかのように、またその澄んだ瞳に心が浄められるようなそんな不思議な瞬間を体験した。
後から様々な人から話を聞くと、どうもそうした乞食の中に、たまに本当のかなり到達した修行者が紛れ込み、そうして喜捨を乞い、心に何の欲も現れないことを確認するために、他の殆ど乞食と化した巡礼者然とした人たちに混じって坐っているのだと聞きた。ただの乞食だと十把一絡げに見て馬鹿には出来ないということになろうか。
脱線ついでに、インドではまた、人々の特に中年以降の人たちの歩く姿がとても美しく思うことが度々あった。田舎の路地を歩くインド服を着た、たとえば、クルターというクルーネック、プルオーバーの腿まである綿シャツに、下は長い布を左右の足に纏ったドーティといういでたちで歩く人など特に背筋がまっすぐで、堂々と大地を踏みしめて歩くその姿は同姓であってもほれぼれするほどであった。
昔お釈迦さまの時代に、ある沙弥(未成年の見習い僧)が街を托鉢するその姿の美しさに街の人々の視線が釘付けとなり、そのことをお釈迦さまに問うと、きちんと自らの行いに気づきつつ心落ち着き一つの動作にも隙が無いからであると言われたという。その沙弥は年は若くてもかなりの修行が進んでおり、聖者の階梯にある人であった。
さらには、別に学歴があるわけでもない田舎の老人でも驚くほど落ち着いていて哲学者然とした微笑みを浮かべていたりする。そうしたことを見ていくと、学歴も地位も知識も豊富な情報も関係なく、人間として身につけるべきものは何かということになるのではないか。
インドは生活の中に宗教が生きていると言われる。小さな時から様々な演劇や地域の行事などから宗教性を身につけ、なぜ生まれてきたか、生きるとはいかなることか、働くとは何か、人間はいかにあるべきか、物事の本質とは何か、世の中の有り様とはいかなるものか、そんなことを当然のことのようにわきまえ思索しつつ成人し、歳を重ねていくのであろう。
姿の美しさに裏付けられた内面の確かさというものがあるということになろうか。実は昨日も坐禅会があり、数名の方々とともに、歩く瞑想をし、坐禅をした。歩く姿、坐る姿の美しさにこだわりたいものだと思う。勿論内面の充実が現れる外見でなければならないことは言うまでもないが。
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