毎月第2金曜日に仏教懇話会というお話会を開いている。もうかれこれ5年を経過して、始めた頃はネタも早々に尽きるだろうと思って始めたのだが、相変わらず毎回一時間の私のよろず話に耳を傾けて下さる檀信徒の皆様に支えられ、いや救われて続いている。
今月も8日に開かれ、「帰依礼拝について」話し及び、その対象となる仏・法・僧の三宝を説明したが、仏と僧は話しやすいが、肝心の「法」ということになるとなかなか分かりにくい。ついついホームページ・ナマステ・ブッダからコピーして南方仏教徒が唱えるパーリ語の礼拝文なども紹介したが、かえって分かりにくい話になったかもしれない。
仏法、正法などとよく言われる仏教の法ではあるけれども、それでは、この法とはいかなるものなのか。法はインドの言葉では、ダルマ(Dharma)、又はダンマ(Dhamma)という。ダルマは、現代ヒンディ語では、属性、本性、宗教的義務、善行、宗教、法則という意味がある。パーリ語のダンマは、教法、真理、現実存在を現にかくあらしめる働き、規範、性質、道などとある。
そもそもこの世の中の法則、摂理、性質を意味しており、だからこそ教え、宗教という意味にも使われるのであろう。普通宗教というと、人間を超越した存在に対する信仰やその教義。そして儀礼をともなうものを意味する。しかしインドの宗教にはそうした意味合いは希薄であることが、このダルマという言葉を見ても分かる。
ヒンドゥー教であっても、神との合一を目標とし、その境地に至る修行が重視される。仏教はもともと私たちと同じ人間として生まれたお釈迦様のさとりを目指し、輪廻からの解脱を遂げることが教えの本義であろう。神仏を崇拝し救済を願うというのは本来仏教徒のすることではない。お釈迦さまのその徳を拝しつつ、さとりに向かって歩む者としてあって欲しい。そんなことも話した。
ところで、法というと、インドのサールナートという仏教発祥の聖地にいた頃、ダメークストゥーパという大きな仏塔の前にタイの人たちが団参にみえて、盛んにチャ・ダンマ・グナ(cha dhamma guna)という「法の六徳」と訳される法の定義とも言える偈を何回も唱えていたのを思い出す。
<法の六徳・パーリ語>スヴァッカートー・バガヴァターダンモー・サンディティコー・アカーリコー・エーヒパッスィコー・オーパナーイコー・パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー・ティ
(和訳・かの教えは、①お釈迦様によってよく説かれたものであり、②自分で見るべきものであり、③時間を経ずして果を与えるものであり、④来たりて見よと言いうるものであり、⑤涅槃に導くものであり、⑥賢者によって各々知られるべきものである。)
少々専門的になって恐縮だが、少しこの法の六徳の意味するところを解説してみよう。 ①のお釈迦様によってよく説かれたとは、整然とすべて何も秘匿することなく公にされたということ。特にさとりに至る道程が不要なもの無く、加えるべきものも無く完璧に説かれているということ。秘密にされたようなものはないということ。
②の自分で見るべきものとは、さとりへの道程を進む者にとって自ら見るべきものということであり、他者の言うことを信じて進むのではなく、自らが見るべきであるということ。人に言われてそんなものかと知るものではなくて自分がその法そのものを見なければいけない。
③の時間を経ずして果を与えるというのは、世間の善行の果は時に長い時間を要するけれども、さとりに至る道程における善行は時間を要せずに果が得られるということ。さとりに近づくほどその功徳は計り知れないほど強く大きなものになるということになろうか。
④の来たりて見よと言いうるものとは、そのさとりの道程に至る道は特定の人たちのものではなく、誰にでも公開し、誰でもが見出しうるものであるということ。誰が来て見ても不快なものでも困るものつまらないものではない、それだけ自信をもってここにいたりご覧じろ、ということか。
⑤の涅槃に導くものとは、さとりに至る道程が行者を涅槃に導くということ。聖者に列せられるほどさとりに近づくと自然に悪行が出来なくなり、さとりに至る道だけが開かれているという。
⑥の賢者によって各々知らるべきものとは、さとりへの道程を歩んだ者に道は修せられ、果は得られ、涅槃が証せられたと知られるものということ。さとりへの道程を歩まない者には知ることは出来ない、つまり実践が不可欠であって、単なる知識だけではダメだということであろう。
少々難しい内容の羅列になってしまった。が、ようは、法とはさとりに至る実践の教えであって、それはお釈迦様によってすべて完璧に説かれ、決して秘密にされるようなものではなく、また生まれや階級など人を分け隔てすることなく、広く公開されたものであって、誰もが自分で歩み、最高の善行であるさとりへの瞑想行を修することで涅槃にいたり、なおかつ自らさとったと確認できるものだということになろうか。
宗教というと、手を合わせ礼拝し、神など人間を超えた存在に感謝をささげお伺いを立てる、沢山の御供えをして救いを求める、願い事が叶うように祈り拝む、という印象があるかもしれない。がしかし、本来仏教は、そうしたいわゆる宗教とは全く性格を異にしているということがこれによって知られよう。信仰や祈りよりも、この世の中の有り様、法則を学び理解して、さとりに向かって善行功徳を積み、実践に励むことが仏教徒のあり方ということになるのであろう。
日記@BlogRanking