人は人に言われたことで、心乱し思い悩み、右往左往してしまう。言われた内容によっては安心し自分の思い違いに気づき、行いを正してもいける。しかし人は思いの外、評判や周りの人の口車に乗りやすく、一度思いこむとなかなか素直に忠告を受け入れることは出来ないものである。
昨日ある方が見えて、二つある墓を一つにしたいと言ってこられた。事情を伺うと、お墓とは何かも、そのお墓のこともよくご存知でないと思われたのでお話した。
伺っていると、どうやらある人から亡くなった人が寂しがっていると言われたという。まるで50年も前に亡くなった人が二つに分かれて、墓所にない方の戒名を刻んだだけの分骨もしていない石が意思を持っているように思われているようだった。
言った人は無責任なもので、言われた人がどれほど思い悩み苦しんでいるかも分からずに勝手なことを言う。それでお金まで取っている人もあるなら、それは生活のために人を不安がらせ不幸にして、自分の生活の資にしているのであるから、大変な悪業を重ねていることになろう。
ともかく、お墓に亡くなった人がいるのであろうか。「千の風になって」ではないが、お墓に私は居ませんという歌詞は正しいのではないか。もしもお墓にその亡くなった人の心が残っているなら、それは地縛霊とでも言うのであろうか、来世にも行けず今生に執着し不成仏霊となっていることを意味していよう。
もちろんこの場合の成仏とは、お釈迦様のような悟り、阿羅漢果を成就したという意味ではなく、来世に行ったという意味であることにご注意いただきたい。日本で人が亡くなって成仏されましたという場合の成仏は、仏教要語としての成仏ではないことを私たちははっきりと区別すべきであろう。
話を戻すと、つまり亡くなった人が普通に亡くなり、きちんと葬送の儀礼をなして、亡くなった人の心が身体の束縛を離れてもなおその場に留まっているとは考えにくい。もしもそうならばもっとはっきりした形で、まだ居ることの意思表示をして来るであろう。
昔、高野山にいたとき、多くの修行僧の中には、霊がみえる人が何人かいた。それらの霊は修行中に亡くなってその場にとどまり、来世に行けずにいる霊たちだったようだ。時折、晩に寝ている私たちを見に来ていたとのことで、そういう晩には、夜中寝苦しく、その部屋で寝ていた者全員が起きてしまったりしたものであった。
ではお墓とは何かと言えば、それは、仏塔という仏教のシンボルを建立して、その功徳を亡くなった人に手向けるためにある。そこに日本では戒名を刻み、下に遺骨を埋葬する。戒名を刻むから、またそこに何かあるようにも思えてしまう。
遺骨が埋葬されていないなら、なおのこと、何も刻まずに、五輪であるとか、地蔵尊を刻んでいたら、そう亡くなった人の思いを残すこともないのかもしれない。今回の場合、戒名だけが真ん中に刻まれていたがために余計にそう思えたのであろう。
昔は地方によって違いはあろうが、埋葬墓と供養墓が別々の場所にあった。土葬でもあったためか、なるべく埋葬墓は遠くに造り、供養墓はよく参れるように近くに造られた。
その当時はお墓が二つあるのは当たり前のことで、今でも、何カ所にもお墓がある人もあり、また各宗派の本山に分骨する人も多い。だが、そうした人たちも、亡くなった人が別の所で寂しがっているとは思っていないであろう。
仏塔であるお墓は、きちんと仏教のシンボルとしてそこに存在していることが功徳になるのであるから、清掃し荘厳されているのが良いことで、仏塔に線香灯明を供え手を合わせるのは供養としてなされる。善行であることに間違いはない。
だからお墓に参るのであって、そこに亡くなった人がいるから参るのではない。だからといって、勿論、私は千の風になっていると思っているわけではない。その仏塔の功徳を再確認して回向し、来世での安穏を祈るために参るのである。
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昨日ある方が見えて、二つある墓を一つにしたいと言ってこられた。事情を伺うと、お墓とは何かも、そのお墓のこともよくご存知でないと思われたのでお話した。
伺っていると、どうやらある人から亡くなった人が寂しがっていると言われたという。まるで50年も前に亡くなった人が二つに分かれて、墓所にない方の戒名を刻んだだけの分骨もしていない石が意思を持っているように思われているようだった。
言った人は無責任なもので、言われた人がどれほど思い悩み苦しんでいるかも分からずに勝手なことを言う。それでお金まで取っている人もあるなら、それは生活のために人を不安がらせ不幸にして、自分の生活の資にしているのであるから、大変な悪業を重ねていることになろう。
ともかく、お墓に亡くなった人がいるのであろうか。「千の風になって」ではないが、お墓に私は居ませんという歌詞は正しいのではないか。もしもお墓にその亡くなった人の心が残っているなら、それは地縛霊とでも言うのであろうか、来世にも行けず今生に執着し不成仏霊となっていることを意味していよう。
もちろんこの場合の成仏とは、お釈迦様のような悟り、阿羅漢果を成就したという意味ではなく、来世に行ったという意味であることにご注意いただきたい。日本で人が亡くなって成仏されましたという場合の成仏は、仏教要語としての成仏ではないことを私たちははっきりと区別すべきであろう。
話を戻すと、つまり亡くなった人が普通に亡くなり、きちんと葬送の儀礼をなして、亡くなった人の心が身体の束縛を離れてもなおその場に留まっているとは考えにくい。もしもそうならばもっとはっきりした形で、まだ居ることの意思表示をして来るであろう。
昔、高野山にいたとき、多くの修行僧の中には、霊がみえる人が何人かいた。それらの霊は修行中に亡くなってその場にとどまり、来世に行けずにいる霊たちだったようだ。時折、晩に寝ている私たちを見に来ていたとのことで、そういう晩には、夜中寝苦しく、その部屋で寝ていた者全員が起きてしまったりしたものであった。
ではお墓とは何かと言えば、それは、仏塔という仏教のシンボルを建立して、その功徳を亡くなった人に手向けるためにある。そこに日本では戒名を刻み、下に遺骨を埋葬する。戒名を刻むから、またそこに何かあるようにも思えてしまう。
遺骨が埋葬されていないなら、なおのこと、何も刻まずに、五輪であるとか、地蔵尊を刻んでいたら、そう亡くなった人の思いを残すこともないのかもしれない。今回の場合、戒名だけが真ん中に刻まれていたがために余計にそう思えたのであろう。
昔は地方によって違いはあろうが、埋葬墓と供養墓が別々の場所にあった。土葬でもあったためか、なるべく埋葬墓は遠くに造り、供養墓はよく参れるように近くに造られた。
その当時はお墓が二つあるのは当たり前のことで、今でも、何カ所にもお墓がある人もあり、また各宗派の本山に分骨する人も多い。だが、そうした人たちも、亡くなった人が別の所で寂しがっているとは思っていないであろう。
仏塔であるお墓は、きちんと仏教のシンボルとしてそこに存在していることが功徳になるのであるから、清掃し荘厳されているのが良いことで、仏塔に線香灯明を供え手を合わせるのは供養としてなされる。善行であることに間違いはない。
だからお墓に参るのであって、そこに亡くなった人がいるから参るのではない。だからといって、勿論、私は千の風になっていると思っているわけではない。その仏塔の功徳を再確認して回向し、来世での安穏を祈るために参るのである。
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