住職のひとりごと

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幅広く仏教について考える

わかりやすい仏教史⑤ーインド仏教の近代史 2

2007年07月18日 14時19分50秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
仏教教団の設立
 
仏教徒として確固たる地位を社会の中で確立するためには、仏教の再生に加え教育に力を入れることが不可欠であると考えた彼らは、まずは誰もが読み書き出来るように、学校を作り基礎教育に力を注ぎました。

そして、ビルマ語やパーリ語の様々な仏教書や経典がベンガル語に翻訳され出版されていきました。お釈迦様の教えを日常生活に活かすために、僧団を供養するなど善行功徳によって、現世にまた来世に安楽がもたらされることが教えられ、迷信や非文化的伝統や習慣を社会の中から取り除くことが進められていきました。

仏教語であるパーリ語の研究所がつくられ、小中高校で学ぶ体制が作られました。また多くの在家者やお坊さんが仏教を学ぶためにスリランカやビルマ、タイに派遣されていきました。

そうして、一八八七年にはチッタゴン仏教会(チャッタグラーム・バウッダ・サミッティ)が、また一八九二年には、カルカッタに進出していた仏教徒たちのためにベンガル仏教会(バウッダ・ダルマンクル・サバー)が設立されました。

ベンガル仏教会と大菩提会

ベンガル仏教会を創立したクリパシャラン長老(一八六五ー一九二六)は、イギリス支配のインドにあって、民衆の反英運動が激化する中、カルカッタの中心地にカルカッタ最初の仏教寺院を建立。後にはビルラ財閥からの寄進によって三階建ての僧院が建てられるなど、施設が整えられていきました。

インドにおいて、忘れられていた仏教に多くの人々が目覚めることを目指して、仏教文化誌「世界の光」を創刊するなど、失われた仏教の栄光をとりもどすべく尽力しました。ラクノウ、アラハバード、デリー、シムラ、ジャムシェドプール、ダージリンなどに支部を作り、カルカッタ本部では無料小学校が運営されるなど、各地の教育機関充実のため指導力を発揮したと言われています。またカルカッタで世界仏教徒代表大会(一九二四)を主催して、インド仏教徒の再生をアピールしました。

時同じくして、スリランカにおいては、オランダやイギリス支配によって仏教が徹底的に否定されていました。しかし、一人のお坊さんとキリスト教徒との論争(一八七三)における劇的な勝利の後、仏教の復興に努め、インドに巡礼した、アナガリカ・ダルマパーラ師(一八六四ー一九三三)は、大菩提会(マハーボディ・ソサエティ)を一八九一年に設立。ブッダガヤ、サールナートなどの仏跡地の復興に尽力しました。

彼は、今もヒンドゥー教徒らによって管理されているブッダガヤの聖地を、世界の仏教徒の資金によって買い戻す計画を進めました。スリランカ、中国、日本、チッタゴンの代表による国際仏教会議をベンガル副知事出席のもとで開催するものの、交渉は難航し、結局実を結ぶことはありませんでした。

しかし、その献身的努力は、お釈迦様を生んだインドの地に仏教を復興したいとする純真な精神を、全世界にアピールすることとなりました。

また南インドでも、一八九〇年代末に不可触民出身の指導者アヨーティ・ダースによって南インド仏教会が設立され、タミル語の仏教雑誌を刊行するなど仏教を布教しました。その後、一九二〇年にはラクシュミー・ナラスがマドラス仏教徒協会を組織して、仏教思想の現代性を論じ、不可触民差別、幼児婚、寡婦再婚禁止など社会慣行の改善を訴えました。

インドの独立

第二次世界大戦の終結後、一九四七年、インドはヒンドゥー教徒の国として、パキスタンと分離独立することとなりました。チッタゴンは東パキスタン領となり、バルア仏教徒にとっては、またしてもイスラム教徒の国の中に居住することになりました。この時過去の悪夢を憂えた多くの仏教徒たちが、大挙してインド領西ベンガル地方に避難移住するという混沌とした状況を招きました。

インドでは、一九五〇年に憲法が制定され共和制国家となり、初代首相となったジャルハルワル・ネルーは、一九五二年にイギリスから返還されたサーリプッタ、モッガーラーナ両尊者の遺骨をサンチーの寺院に埋葬する歴史的行事を、また一九五六年には、お釈迦様の生誕二五〇〇年祭をニューデリーで開催して、インドの生んだ最も偉大なる聖者としてお釈迦様を讃えました。

また、共和国憲法を起草したことで知られる不可触民出身の初代法務大臣アンベートカル(一八九一ー一九五六)は、ナラスらの仏教による社会改革運動に感化されて、最も理性的で、かつ自由、平等、友愛を説く仏教に改宗し、ヒンドゥー社会から離れることによって階級差別を終わらせるべきことを訴えました。そして、一九五六年、インド中部のナグプールにおいて、参集した不可触民二十万人とともに三帰依・五戒を授かり、仏教徒に集団改宗しました。

パキスタンでは、一九七一年、総選挙にまつわる東西パキスタンの利害衝突から発展したベンガル独立戦争が起こりました。これにより、再度東ベンガル地方に住していたバルア仏教徒やチッタゴン丘陵部の少数民族の仏教徒たちの存在がふるいにかけられる事態となりました。そして、バングラデシュとなった今も、大多数のイスラム教徒の中にあって、仏教徒たちは現実に相応しい社会的な地位を与えられていないのが現状であります。

インド仏教の現状  

現在インド国内の仏教寺院は約五〇〇か寺、お坊さんは二千人。そして、結婚式、出生式、葬式などの儀礼を仏教で行う仏教徒は、インド全体で六四〇万人(人口比〇・七六%)と公表されています。

先に述べたように不可触民ヒンドゥー教徒らの改宗によって、仏教徒は年々増え続けていますが、伝統派のバルア仏教徒は、その内のわずか十五万人ほど。

一方バングラデシュの仏教徒は五十四万人(同〇・六二%)、内バルア仏教徒は十三万人あまりとなっています。

かつて、仏教を支援したマウリヤ王朝、パーラ王朝の子孫たちの中には、今日ヒンドゥー教徒として暮らしてはいても、仏教をとても大切に思っている人々がいます。仏教のお坊さんを招いて食事を供養したり、定期的に冊子を発行して仏教の教えを知らしめる活動をしています。

彼らは、ビシュヌ神の化身としてではなく、古代インドの思想哲学の理想を実現した聖者としてお釈迦様を捉え、人類普遍の真理を説く教えとして仏教を信奉しているのです。たとえ仏教徒は一握りの存在ではあっても、仏教を外護する多くの人々が、現代インドにも存在していることを申し添えておきたいと思います。

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