NHKスペシャル『チベット死者の書-輪廻転生の死後の世界を見せる初のドラマ・死と再生の四十九日』を見た。1994年に制作された特別番組のビデオ版である。脚本には宗教学者で、かつてチベット仏教の修行を積まれた中沢新一氏が担当している。カナダ、フランスとの共同制作でもある。
8世紀にインドからチベットに仏教を伝えたパドマサンバヴァは修行の末書き記した膨大な経典をヒマラヤ山中に埋めてしまった。それらを埋蔵経と言い、それは世の中に必要なとき出現すると言われていた。その一つにチベット死者の書と呼ばれる「バルド・トドゥル」という、人の死から再生までの49日間のありようを記した経典がある。
第一次世界大戦の最中、英国の人類学者エヴァンス・ヴェンツがダージリンのバザールで偶然発見して英訳。死はすべての終わりとする当時の科学観に疑問を感じていた心理学者C.G.ユングは、それを読んで、根本的な洞察を得たという。
そして第二次世界大戦後は、アメリカで勃興したベトナム戦争に反対する若者たちにバイブルとして受け入れられた。現代では、臨死体験の研究やホスピスなどの臨床現場でのあり方、人の死をどうとらえ考えるのかを考察する上で、この死者の書の価値が見直されているといえよう。
番組では、一人の中年男性が亡くなるところへ老僧と小僧が訪問するシーンから物語が始まる。亡くなろうとする人を前に泣き叫ぶ家族親族に向かって、「泣くことは何の役にも立たない、死にゆく者の意識を混乱させるだけだ」と老僧がたしなめる。そして、頭を北に右肩を下に横向きに身体を寝かせる。
そして亡くなると、死者に向かって、「死のバルド(バルドとは途中ということで、中有のこと)」を語る。老僧は、「よくお聞きなさい。間もなく呼吸が止まる。すると目の前にまぶしい光が現れる。その光と溶け合うのだ」と語りかける。チベット仏教では、死後に現れるこの光を生と死を超越した根源の光と捉え、命の本質であり、命の流れである心の本質でもあるとも考え、その光と出会うことはまさに悟りのチャンスであるとする。
しかし、教えを学んだり実践していなかったこの死者は、その光を避けてしまい、そのチャンスは潰えてしまう。そして死後5時間ほどで、意識と身体の分離が始まる。まさに臨死体験の報告のごとくに、死者の心は身体から離れ、部屋の中をフワフワと飛び回る。ベッドには自分の遺体が横たわる。誰に話しかけても聞こえていない。老僧は、「この世に執着を持ってはいけない。この世に留まることは不可能なのだ。現れる光を怖がってはいけない。光も色も音もそなたの意識の投影に過ぎない」と語る。
死後4日目から20日までを「心の本体のバルド」という。死者の心から発する光が様々な仏の姿として現れるという。群青色をした大日如来はじめ様々な優しい寂静尊、恐ろしい姿の忿怒尊などが現れる。それらの光は厳しい修行によっても見ることがあり、その光や仏の姿のその奥にある心の本質に至るために修行はなされる。それと同じ光を死後体験することになるが、ふつうの人々は、その光ではなく、解脱を邪魔する、ほの白い魅惑的な光が現れて幻惑されてしまう。
20日目に死者の部屋にやってきた老僧は、バルド・トドゥルを読経する。そして「今日は地獄の神ヤマ王がやってきます」と宣言する。そして死後21日目から49日までが、「再生のバルド」となる。死者の意識は、それまでの解脱のチャンスを逃してなお、晴れやかに、世界を自由に飛び回り、全能の身体が備わったような気分になる。しかし突然途方もないむなしさや寂しさに襲われて、再び生まれ変わりたいという気持ちを抱く。
ふたたび死者の部屋を訪れた老僧は「観音菩薩の方へ向かいなさい、六つの輪廻に落ちることなく」と叫ぶが、死者の心にははっきりととどかない。49日目、死者の心には、畜生や餓鬼、人間界などの六道の世界がイメージされる。そこで「そこに入ってはいけない、少なくとも人間に生まれ変わって何度も何度も悟りを目指して生きていくのだ」と叫ぶ。
私たちは、たった一人、たった一度の命を生きているのではない。何千何万回もの輪廻を繰り返し、再生を重ねていく者だからこそ、すべての命が、前世をさかのぼれば、父母であり兄弟であったかもしれないと考えられる。そう考えてこそ、命そのものが限りなく切なく愛おしい、壮大な優しさである慈悲の心が生まれる。
死者が人間界に再生したことを知った老僧は、最後に、「死のむこうにある心の本質を知ることができたら、その生には意味があった。それができなければ無意味なことを積み重ねたに過ぎない」と語る。
つまり、私たちの生きる目的はその心の本質を知ること、つまりは悟りの心を得ることだということになる。そして、「誕生の時、おまえは泣き、全世界は喜びに沸く。死の時、全世界は泣き、おまえは喜びに溢れる。かく生きるのだ」と小僧に諭す。私たちも、死を迎えるとき、何の怖れも不安も抱くことなく、人生に納得し、喜んで死を迎えられるよう生きたいものである。
このNHK制作のドラマは、チベット仏教に偏重しているとはいえ、仏教徒として学ぶこと多く、多くの日本人が見るべき内容を含んでいると言えよう。現代の日本にも、通夜葬式の後、七日参りの風習が残る地域もある。その風習は、ここに紹介した内容との違いこそあれ、とても意味深い死者を導く機会となっているのであろう。
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日記@BlogRanking
8世紀にインドからチベットに仏教を伝えたパドマサンバヴァは修行の末書き記した膨大な経典をヒマラヤ山中に埋めてしまった。それらを埋蔵経と言い、それは世の中に必要なとき出現すると言われていた。その一つにチベット死者の書と呼ばれる「バルド・トドゥル」という、人の死から再生までの49日間のありようを記した経典がある。
第一次世界大戦の最中、英国の人類学者エヴァンス・ヴェンツがダージリンのバザールで偶然発見して英訳。死はすべての終わりとする当時の科学観に疑問を感じていた心理学者C.G.ユングは、それを読んで、根本的な洞察を得たという。
そして第二次世界大戦後は、アメリカで勃興したベトナム戦争に反対する若者たちにバイブルとして受け入れられた。現代では、臨死体験の研究やホスピスなどの臨床現場でのあり方、人の死をどうとらえ考えるのかを考察する上で、この死者の書の価値が見直されているといえよう。
番組では、一人の中年男性が亡くなるところへ老僧と小僧が訪問するシーンから物語が始まる。亡くなろうとする人を前に泣き叫ぶ家族親族に向かって、「泣くことは何の役にも立たない、死にゆく者の意識を混乱させるだけだ」と老僧がたしなめる。そして、頭を北に右肩を下に横向きに身体を寝かせる。
そして亡くなると、死者に向かって、「死のバルド(バルドとは途中ということで、中有のこと)」を語る。老僧は、「よくお聞きなさい。間もなく呼吸が止まる。すると目の前にまぶしい光が現れる。その光と溶け合うのだ」と語りかける。チベット仏教では、死後に現れるこの光を生と死を超越した根源の光と捉え、命の本質であり、命の流れである心の本質でもあるとも考え、その光と出会うことはまさに悟りのチャンスであるとする。
しかし、教えを学んだり実践していなかったこの死者は、その光を避けてしまい、そのチャンスは潰えてしまう。そして死後5時間ほどで、意識と身体の分離が始まる。まさに臨死体験の報告のごとくに、死者の心は身体から離れ、部屋の中をフワフワと飛び回る。ベッドには自分の遺体が横たわる。誰に話しかけても聞こえていない。老僧は、「この世に執着を持ってはいけない。この世に留まることは不可能なのだ。現れる光を怖がってはいけない。光も色も音もそなたの意識の投影に過ぎない」と語る。
死後4日目から20日までを「心の本体のバルド」という。死者の心から発する光が様々な仏の姿として現れるという。群青色をした大日如来はじめ様々な優しい寂静尊、恐ろしい姿の忿怒尊などが現れる。それらの光は厳しい修行によっても見ることがあり、その光や仏の姿のその奥にある心の本質に至るために修行はなされる。それと同じ光を死後体験することになるが、ふつうの人々は、その光ではなく、解脱を邪魔する、ほの白い魅惑的な光が現れて幻惑されてしまう。
20日目に死者の部屋にやってきた老僧は、バルド・トドゥルを読経する。そして「今日は地獄の神ヤマ王がやってきます」と宣言する。そして死後21日目から49日までが、「再生のバルド」となる。死者の意識は、それまでの解脱のチャンスを逃してなお、晴れやかに、世界を自由に飛び回り、全能の身体が備わったような気分になる。しかし突然途方もないむなしさや寂しさに襲われて、再び生まれ変わりたいという気持ちを抱く。
ふたたび死者の部屋を訪れた老僧は「観音菩薩の方へ向かいなさい、六つの輪廻に落ちることなく」と叫ぶが、死者の心にははっきりととどかない。49日目、死者の心には、畜生や餓鬼、人間界などの六道の世界がイメージされる。そこで「そこに入ってはいけない、少なくとも人間に生まれ変わって何度も何度も悟りを目指して生きていくのだ」と叫ぶ。
私たちは、たった一人、たった一度の命を生きているのではない。何千何万回もの輪廻を繰り返し、再生を重ねていく者だからこそ、すべての命が、前世をさかのぼれば、父母であり兄弟であったかもしれないと考えられる。そう考えてこそ、命そのものが限りなく切なく愛おしい、壮大な優しさである慈悲の心が生まれる。
死者が人間界に再生したことを知った老僧は、最後に、「死のむこうにある心の本質を知ることができたら、その生には意味があった。それができなければ無意味なことを積み重ねたに過ぎない」と語る。
つまり、私たちの生きる目的はその心の本質を知ること、つまりは悟りの心を得ることだということになる。そして、「誕生の時、おまえは泣き、全世界は喜びに沸く。死の時、全世界は泣き、おまえは喜びに溢れる。かく生きるのだ」と小僧に諭す。私たちも、死を迎えるとき、何の怖れも不安も抱くことなく、人生に納得し、喜んで死を迎えられるよう生きたいものである。
このNHK制作のドラマは、チベット仏教に偏重しているとはいえ、仏教徒として学ぶこと多く、多くの日本人が見るべき内容を含んでいると言えよう。現代の日本にも、通夜葬式の後、七日参りの風習が残る地域もある。その風習は、ここに紹介した内容との違いこそあれ、とても意味深い死者を導く機会となっているのであろう。
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