5/17日朝日新聞朝刊に「なぜ生きるのか『悩みのレッスン』投稿を授業に」という記事があった。朝日新聞に寄せられた高校生からの相談内容が、埼玉県立高校3年の倫理の授業で、教材として使われた。
相談の要旨は、「私は中学からいじめられてきた。高校でも変わらなかった。今の自分の境遇を悲観しているわけではない。ただ、なぜこんなにつらいのに、私はここにいるんだろうと疑問に思っているだけだ。きれいごとで答えてほしくない。人はなぜ生きるのだろうか。(高校生16歳)」とある。
そして、新聞の記事には、授業の様子が綴られている。相談内容に対する単純な反応が続き、授業の終わりに、「いじめられてもその時はつらくとも、大人になってから他人の気持ちを考えられるようになって心が育つと思います」という返事が読み上げられたとある。
この回答では、将来のために今のつらさがあるということになるのだろうか。つまりは、なぜ生きるのか、将来の自分のためということか。しかし、こうした考察はチャイムが鳴ったためか、授業で話されなかったようだ。
2回目の授業では、「なぜ生きるのかの答えは誰も持ってはいない、ただ、この世に生をうけた以上、それに感謝をし、精いっぱい生きなきゃいけないのだ」また、「答えはない、それは自分で作るものだ」と返事を書いた生徒がいたとある。
授業では、こうした回答に対して、さらにそのことを深く考えさせることはなかったようだ。生を受けた以上感謝しなくてはいけないのは、なぜか。精一杯生きるとは何か。自分で作るものだと言った人は、自分ではどのように考えているのか。残念ながら、この記事には何も記されていない。
また他の生徒からは「私にとって生きるとは知ることです。あなたの文章を読んで、あなたが生きていることを知りました」「生きている世界は学校だけじゃないよ。学校の外は、すっごい広いんだから」「10分つらいことがあっても、その中の1分笑えたら、また次の10分がんばれるよ」という返事もあったと別書きされている。
生きていることは知ることはよいが、あなたが生きていることを知ってどうだったのか。学校の外は広いはいいが、広い世界があるからどうだというのか。10分がんばれると書いた人は、つらいことは多いけど、笑えることもあるから我慢しろと言いたいのか。はたしてその後の授業の展開はいかがだったのかと触れることもなく、この記事の書き方も中途半端なものに終わっているように感じる。
おそらく、この記事を読んだ多くの読者も同様な感想を得たのではないか。高校生なら、もっと掘り下げた多岐にわたる議論をして欲しい。古今東西の知者はどのように生きるということを考えてきたのか。生徒たちからも、こんな風に親や祖父母から教えられたという話があってしかるべきかとも思う。同世代の悩みに応えるというフレームが良いだけに、そうしたことに何も触れられていないことも残念でならない。
たとえば、いじめにあっていると言うが、そのいじめる側はどうのような気持ちなのか。その周りの人たちはどうか。先生や学校側はどのような対応が必要か。なぜ悲観しないのか。つらいのにそのままそこにいるのはなぜか。相談者の問いかけである、なぜ生きるのか。考えるべき内容はたくさんある。漠然と問いかけて、焦点の合わない返事を書かせどうしようというのか。疑問に感じる。
いじめ問題は、いじめる側の心理とその事情について解明する必要があるのではないかと思う。いじめられる側の被害と加害者側の処分が問題なのではない。なぜ加害者であるいじめる人たちは人をいじめてしまうのかと問われなければならないであろう。
よく言われるように大人の世界でもいじめは横行している。いじめは現代日本の社会現象だとも言えよう。子供だけにいじめはいけないと言っても意味はない。意見の合わない人を排除していく社会のあり方から問われなければならないだろう。またいじめを放置する周囲の人たちの傍観する姿勢も問題だ。
物を言う人を攻撃して意見を封殺してしまう閉鎖的な風土、事なかれ主義、非民主主義的な社会環境が問われねばならない。一人一人が別々の意見を持ち、それを主張し、きちんとそれをみんなで議論し方向を決めていける社会風土が日本にないことの現れであろう。
だから、この相談者が悲観しないというのは単なるあきらめではないかと思える。何を言っても誰も聞いてくれない、周囲に心開いて話せる人がいないということであろう。だからそのままそこにとどまるしかない。ただ時間が過ぎるのを待つ、嵐が過ぎ去るのを待つということなのではないか。
だからこそ、なぜ生きねばならないのか知りたいのであろう。そのことに何も回答すらなく、この授業は終わっているようだ。私たちはたった一人で突然生まれてきたのではない。誰もが両親の交淫によって母親のお腹から生まれ、両親や周りの多くの人たちにお世話をかけ、大切に育てられてきたのではないのか。私たちが生きているというのはそうした沢山の人たち、またそれをささえる沢山の生きものがあってはじめて成立している。
食べる物も着る物も家も、何もかもが沢山の人たちの手を経て作られたものによっているのだし、それらをこれまでずっと受け入れてきたからこそ生きている。だから生まれてきて生きていることに感謝するのであって、精一杯生きねばならないのではないか。
ではなぜ生きるのか。私たちはみんな一人として同じ人はいない。みんな違うからこそみんな受け取りかたも違うし、ものの好き嫌い、考え方、興味、気持ち、優しさ、強さ、得意なものが違う。違うからこそみんなが生きている意味があるのではないか。その人にしかできないことが必ずある。みんな、それぞれに自分の大事な役割があるはずだ。
その自分だけの価値に気づき、それを大切に生きていく。きっとその自分を必要とする人やものがあり、その時が来るはずだから。私にはそんな風に思える。だからこそ広い世界に出ることも大切だし、待つことも必要なのであろう。いじめられる人もいじめる側も、みんな自分の価値を大切にされたら、いじめなどなくならないだろうか。
誰もが自分の話を聞いてくれる人が欲しいのだ。いじめてしまう人の心の闇を解消しなければ、いじめはなくならないだろう。誰もがどちらの側にもなる余地があるのだから、すべての人がもっと人の話を聞く、誰もが周りの人の意見に耳を傾ける社会風土を作っていくことしか解決の道はないのではないか。
そのためには、子供のうちから、まずは自分の意見をきちんと話し合う家庭環境作りが急務ではないか。小さな子を持つ親は子供を塾や習い事にやるよりも、ゲームを与えるよりも、子供たちが自分自身の意見をきちんと持てるよう、ものを考え話しまた人の話を聞く習慣が何よりも必要なことであろう。
そして、一人一人がきちんと考え、自分の見解をもち、堂々と意見を言い合い、人の言い分を受けとめられる社会になることが、気の長い話ではあるけれども、引いては斜陽国日本の再生にも繋がるのではないかとさえ思えてくるのである。誰もが独自の考えを持ち、それを大切にされなければならない。それが人権であり、人間の社会というものだろうから。
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相談の要旨は、「私は中学からいじめられてきた。高校でも変わらなかった。今の自分の境遇を悲観しているわけではない。ただ、なぜこんなにつらいのに、私はここにいるんだろうと疑問に思っているだけだ。きれいごとで答えてほしくない。人はなぜ生きるのだろうか。(高校生16歳)」とある。
そして、新聞の記事には、授業の様子が綴られている。相談内容に対する単純な反応が続き、授業の終わりに、「いじめられてもその時はつらくとも、大人になってから他人の気持ちを考えられるようになって心が育つと思います」という返事が読み上げられたとある。
この回答では、将来のために今のつらさがあるということになるのだろうか。つまりは、なぜ生きるのか、将来の自分のためということか。しかし、こうした考察はチャイムが鳴ったためか、授業で話されなかったようだ。
2回目の授業では、「なぜ生きるのかの答えは誰も持ってはいない、ただ、この世に生をうけた以上、それに感謝をし、精いっぱい生きなきゃいけないのだ」また、「答えはない、それは自分で作るものだ」と返事を書いた生徒がいたとある。
授業では、こうした回答に対して、さらにそのことを深く考えさせることはなかったようだ。生を受けた以上感謝しなくてはいけないのは、なぜか。精一杯生きるとは何か。自分で作るものだと言った人は、自分ではどのように考えているのか。残念ながら、この記事には何も記されていない。
また他の生徒からは「私にとって生きるとは知ることです。あなたの文章を読んで、あなたが生きていることを知りました」「生きている世界は学校だけじゃないよ。学校の外は、すっごい広いんだから」「10分つらいことがあっても、その中の1分笑えたら、また次の10分がんばれるよ」という返事もあったと別書きされている。
生きていることは知ることはよいが、あなたが生きていることを知ってどうだったのか。学校の外は広いはいいが、広い世界があるからどうだというのか。10分がんばれると書いた人は、つらいことは多いけど、笑えることもあるから我慢しろと言いたいのか。はたしてその後の授業の展開はいかがだったのかと触れることもなく、この記事の書き方も中途半端なものに終わっているように感じる。
おそらく、この記事を読んだ多くの読者も同様な感想を得たのではないか。高校生なら、もっと掘り下げた多岐にわたる議論をして欲しい。古今東西の知者はどのように生きるということを考えてきたのか。生徒たちからも、こんな風に親や祖父母から教えられたという話があってしかるべきかとも思う。同世代の悩みに応えるというフレームが良いだけに、そうしたことに何も触れられていないことも残念でならない。
たとえば、いじめにあっていると言うが、そのいじめる側はどうのような気持ちなのか。その周りの人たちはどうか。先生や学校側はどのような対応が必要か。なぜ悲観しないのか。つらいのにそのままそこにいるのはなぜか。相談者の問いかけである、なぜ生きるのか。考えるべき内容はたくさんある。漠然と問いかけて、焦点の合わない返事を書かせどうしようというのか。疑問に感じる。
いじめ問題は、いじめる側の心理とその事情について解明する必要があるのではないかと思う。いじめられる側の被害と加害者側の処分が問題なのではない。なぜ加害者であるいじめる人たちは人をいじめてしまうのかと問われなければならないであろう。
よく言われるように大人の世界でもいじめは横行している。いじめは現代日本の社会現象だとも言えよう。子供だけにいじめはいけないと言っても意味はない。意見の合わない人を排除していく社会のあり方から問われなければならないだろう。またいじめを放置する周囲の人たちの傍観する姿勢も問題だ。
物を言う人を攻撃して意見を封殺してしまう閉鎖的な風土、事なかれ主義、非民主主義的な社会環境が問われねばならない。一人一人が別々の意見を持ち、それを主張し、きちんとそれをみんなで議論し方向を決めていける社会風土が日本にないことの現れであろう。
だから、この相談者が悲観しないというのは単なるあきらめではないかと思える。何を言っても誰も聞いてくれない、周囲に心開いて話せる人がいないということであろう。だからそのままそこにとどまるしかない。ただ時間が過ぎるのを待つ、嵐が過ぎ去るのを待つということなのではないか。
だからこそ、なぜ生きねばならないのか知りたいのであろう。そのことに何も回答すらなく、この授業は終わっているようだ。私たちはたった一人で突然生まれてきたのではない。誰もが両親の交淫によって母親のお腹から生まれ、両親や周りの多くの人たちにお世話をかけ、大切に育てられてきたのではないのか。私たちが生きているというのはそうした沢山の人たち、またそれをささえる沢山の生きものがあってはじめて成立している。
食べる物も着る物も家も、何もかもが沢山の人たちの手を経て作られたものによっているのだし、それらをこれまでずっと受け入れてきたからこそ生きている。だから生まれてきて生きていることに感謝するのであって、精一杯生きねばならないのではないか。
ではなぜ生きるのか。私たちはみんな一人として同じ人はいない。みんな違うからこそみんな受け取りかたも違うし、ものの好き嫌い、考え方、興味、気持ち、優しさ、強さ、得意なものが違う。違うからこそみんなが生きている意味があるのではないか。その人にしかできないことが必ずある。みんな、それぞれに自分の大事な役割があるはずだ。
その自分だけの価値に気づき、それを大切に生きていく。きっとその自分を必要とする人やものがあり、その時が来るはずだから。私にはそんな風に思える。だからこそ広い世界に出ることも大切だし、待つことも必要なのであろう。いじめられる人もいじめる側も、みんな自分の価値を大切にされたら、いじめなどなくならないだろうか。
誰もが自分の話を聞いてくれる人が欲しいのだ。いじめてしまう人の心の闇を解消しなければ、いじめはなくならないだろう。誰もがどちらの側にもなる余地があるのだから、すべての人がもっと人の話を聞く、誰もが周りの人の意見に耳を傾ける社会風土を作っていくことしか解決の道はないのではないか。
そのためには、子供のうちから、まずは自分の意見をきちんと話し合う家庭環境作りが急務ではないか。小さな子を持つ親は子供を塾や習い事にやるよりも、ゲームを与えるよりも、子供たちが自分自身の意見をきちんと持てるよう、ものを考え話しまた人の話を聞く習慣が何よりも必要なことであろう。
そして、一人一人がきちんと考え、自分の見解をもち、堂々と意見を言い合い、人の言い分を受けとめられる社会になることが、気の長い話ではあるけれども、引いては斜陽国日本の再生にも繋がるのではないかとさえ思えてくるのである。誰もが独自の考えを持ち、それを大切にされなければならない。それが人権であり、人間の社会というものだろうから。
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