住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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やさしい理趣経の話②常用経典の仏教私釈

2009年01月15日 14時24分09秒 | やさしい理趣経の話
そして、経題を唱え終わると続いて「如是我聞一時薄伽梵(じょしがぶーんいっしふぁきぁふぁん)」と読経が始まる。「如是我聞」とは、お経が始まるときの常套句で、かくの如く我聞く。

この場合の「我」とは、お釈迦様に最後まで随侍したアーナンダ長老のことで、仏滅後の雨安居の際に第一の弟子マハーカッサパ長老のもとで500人の阿羅漢がラージギールの七葉窟に集会して、最初の仏典結集(けつじゅう・お経と戒律の編集会議)が行われた。

その時アーナンダ長老が長年近くにあって記憶していたお釈迦様の説法を集まった長老たちの前で確認する際に、このように「かくの如く我聞く」と言ってからお唱えした。この言葉がお経の出だしの文句として常用され、大乗経典にもそのまま採用された。

「一時」とは、あるとき。「薄伽梵」は、バガヴァーンというインド語の音訳で、尊敬すべき人、徳のある人、幸福、吉祥ある人との意味。経典には、ただバガヴァーンという言い方でお釈迦様を表している。この場合のバガヴァーンは、世尊と訳す。またヒンディ語では、最高神との意味もあり、ヒンドゥー教の神様にも使う。

ところで、今でもインドの仏教徒は、バガヴァーン・ブッダという言い方をする。だから、ヒンドゥー教的な神様という意味しか知らない人には、インド仏教徒はお釈迦様を神様だと思っていると勘違いされることもあるようだ。

10年ほど前にNHKが企画したNHKスペシャル『ブッダ大いなる旅路①輪廻する大地・仏教誕生』でも、とても良い企画ではあったが、コルカタのベンガル仏教徒にインタビューした際にそのような言辞があった。

ただし、ここでの薄伽梵は、密教経典を説く教主・大毘盧遮那如来、つまり大日如来を形容している。そして理趣経は、このあと長々と教主大日如来のお徳が口上される。

つまり、すべての如来のダイヤモンドのような堅い金剛によって加持された永遠なる悟りの智慧を有し、すべての如来の灌頂宝冠を得てこの世の宝を自分のものとした精神世界物質世界の主となり、すべての如来のすべての智慧を自在に駆使して利益する、すべての如来の働きを成し遂げる力を有し、すべての生きものたちの願いをかなえ、そして三世にわたって常に物質的音声的精神的なすべての活動に従事するありがたい如来であると。

毘盧遮那とは、インド語のヴァイローチャナの音訳で、光り輝く者との意。すべての者に昼夜に問わず光りと恵みをもたらす大きなお日さまを表し、この宇宙の摂理、真理をそのままに尊格にした仏様ということになる。だから、大毘盧遮那如来で、大日如来。この世の中のすべてはこの大日如来の表れであるとも言われる。

その大日如来が、欲の世界の最も高いところと言われる他化自在天(たけじざいてん)という天界で、この理趣経を説いた。そこは、一切の如来がおいでになり幸福にみちた宝物に溢れた宮殿で鈴や鐸の音が響き、装飾の施された布が揺らぎ、たくさんの宝石、宝珠、円い鏡などに飾られている。そして、そこには、八十億からの菩薩たちが大日如来の説法を聞こうと勢揃いしている。

それらたくさんの菩薩たちの代表として、悟りを求める心を表す五鈷という法具を持ち一心に精進する金剛手菩薩、つねに慈悲の心で見て人の心の清らかさを見出す観自在菩薩、この世のあらゆるものに宝を見出す虚空蔵菩薩、身体と口と心が常に一体となって永遠に働く金剛挙菩薩、智慧の利剣で人々の煩悩を断つ文殊菩薩、発心してとたんに説法が出来る纔発心転法輪菩薩、人々にこの世のあらゆる宝をを広大に供養する虚空庫菩薩、一切の魔を退治する摧一切魔菩薩がおられた。

これら八大菩薩の名が掲げられ、ぐるりと八方に大日如来を取り囲み、誠に巧みな意味深い清らかな説法が大日如来によってなされたと記される。そしてこれにて、理趣経が説かれる場の設定に関する長々しい解説、つまり序文が終了する。


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コメント (5)
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