天界の住人である天人はいつも楽しみを感じていないと生きていけないものだと、「天人五衰ということ」でも書いた。一方その一つ下の私たち人間界の住人は、苦しみを感じつつ生きていると言えよう。もちろん苦楽ともどもに人間には悲喜交々と生きてはいる。しかしどう考えても、喜びよりは苦しい思いをしている時間の方が圧倒的に多いのではないか。
この世のことを娑婆(しゃば)とも言うが、これは「サハー」というインドの仏典中の言葉が漢訳されたもので、忍耐を強いられるところ、忍土と意訳もされる。つまり忍耐を強いられつつ生きているのが私たち人間ということになるのであろう。
確かに、私たちは大変なこと、しんどいこと、きついこと、嫌なことをしないと生きていけない。好きなことだけしていては生きていけない。中には一生働かないで好き勝手をして生きられたという人も中にはいるのかもしれないが、そんな人であったとしても、何か心に空しさ、空虚感をかえって味わうものではないだろうか。
だから、人間とは、やりたくないことをするから生きていけるとも言えよう。イヤだイヤだと思いつつも勉強をするから成績も上がる。嫌な上司がいる会社にも行って何とか大変な仕事を片付けていくからこそ給料がもらえる。さいわいやりたかった仕事に就けたとしてもかえって仕事に没頭する余り身体をこわして忍耐を強いられるということもあるかもしれない。
お釈迦様も6年間もの苦行、きつい断食の末に成道されてお悟りになられた。我慢してつらいことをしてきたからこそ人間は成長できるし、何ごとかの果実を手にすることが出来るということであろう。スポーツでも何でも長期間の厳しい練習に耐え、ギリギリのところで神経もすり減らして努力に努力を重ねてきたからこその勝利、優勝したときの喜び、至福、達成感は大きい。
つまりはやはり、お釈迦様が成道後に最初に説かれ、すべての教えの基にあるとされる四聖諦の第一に教えられた「人生とは苦しみである」と言われた通りなのだと改めて考えさせられるのである。このお釈迦様の教えについては、人生とは苦しみであるなどと、とても悲観的な暗い教えであるというような捉え方をする仏教者も多い。
しかし、本来はこれは逆に誠にポジティブな教えであるとも言える。幸せになりたかったら、苦しみに耐えること、大変なことを避けてはいけない、逆にそうするべきだということであろう。なぜなら楽とは苦のない状態を指すのであるから。苦が無くては楽は存在しない。逆に言えば苦に楽はついてくるのである。
幸せになりたかったら苦しまなければ得られない、努力しなくては得られない、しんどいことをしなくては得られない、つらくてもすぐにあきらめていたら得られない。そういうものであるのに、常に楽だけを求めたり、いつも幸せでありたいと思う方がおかしいということになる。常に楽を感じ、何の束縛もなく、何が無くても幸せを感じられる満ち足りた幸せ、それは悟りということを得たお釈迦様のような人にしかあり得ないものであろう。
そして、そこに到達するために用意されているのが仏教の教えである。戒定慧の三学にまとめられる体系そのものがそのことを語ってもいる。日常生活での道徳的な規則的な規律ある生き方が求められ、心を統一し禅定をもたらす瞑想法があり、また智慧を開発する瞑想法が用意されている。それらの実践のもとに精進努力することが求められている。つまり、実践無くして得られるものなしということだろう。忍耐の末に果実あり。大変な思いをしなくては求める幸せも手に入れられない。
いま、若い人たちが何をしていいのか分からない、何のために生きているのか、どう生きたらいいのか分からないという。家族の中にあって何不自由なく暮らしていたら何も努力せずとも暮らせてしまうであろう。しかし、どんなに小さな動物でも成長すればみな親元を離れていくものではないだろうか。一人になって生きていく。努力無くして生きるすべはない。しかし一人では生きていけない、周りの人たちと上手く助け合うことも必要になるだろう。我慢することも必要だ。自分の好き勝手は言っていられない。
何でもしなくては生きていけない。そうして努力して、つらい思いをして、へこたれずにやれてはじめて得られたものの喜びを味わうことができる。小さなうちから一人でやって獲得したものの喜びを知っていればそれはかなえられよう。周りの人たちから学ぶこともある。ともに喜びを分かち合う中で学ぶこともある。そうしてはじめてどう生きたらいいのかも分かるし、何をすべきかが見えてくるのではないか。幸せは努力なくしては得られない。幸せだけを求めていては何も得られない。忍土の住人なればそれがもとより当然のことなのだと言えよう。
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この世のことを娑婆(しゃば)とも言うが、これは「サハー」というインドの仏典中の言葉が漢訳されたもので、忍耐を強いられるところ、忍土と意訳もされる。つまり忍耐を強いられつつ生きているのが私たち人間ということになるのであろう。
確かに、私たちは大変なこと、しんどいこと、きついこと、嫌なことをしないと生きていけない。好きなことだけしていては生きていけない。中には一生働かないで好き勝手をして生きられたという人も中にはいるのかもしれないが、そんな人であったとしても、何か心に空しさ、空虚感をかえって味わうものではないだろうか。
だから、人間とは、やりたくないことをするから生きていけるとも言えよう。イヤだイヤだと思いつつも勉強をするから成績も上がる。嫌な上司がいる会社にも行って何とか大変な仕事を片付けていくからこそ給料がもらえる。さいわいやりたかった仕事に就けたとしてもかえって仕事に没頭する余り身体をこわして忍耐を強いられるということもあるかもしれない。
お釈迦様も6年間もの苦行、きつい断食の末に成道されてお悟りになられた。我慢してつらいことをしてきたからこそ人間は成長できるし、何ごとかの果実を手にすることが出来るということであろう。スポーツでも何でも長期間の厳しい練習に耐え、ギリギリのところで神経もすり減らして努力に努力を重ねてきたからこその勝利、優勝したときの喜び、至福、達成感は大きい。
つまりはやはり、お釈迦様が成道後に最初に説かれ、すべての教えの基にあるとされる四聖諦の第一に教えられた「人生とは苦しみである」と言われた通りなのだと改めて考えさせられるのである。このお釈迦様の教えについては、人生とは苦しみであるなどと、とても悲観的な暗い教えであるというような捉え方をする仏教者も多い。
しかし、本来はこれは逆に誠にポジティブな教えであるとも言える。幸せになりたかったら、苦しみに耐えること、大変なことを避けてはいけない、逆にそうするべきだということであろう。なぜなら楽とは苦のない状態を指すのであるから。苦が無くては楽は存在しない。逆に言えば苦に楽はついてくるのである。
幸せになりたかったら苦しまなければ得られない、努力しなくては得られない、しんどいことをしなくては得られない、つらくてもすぐにあきらめていたら得られない。そういうものであるのに、常に楽だけを求めたり、いつも幸せでありたいと思う方がおかしいということになる。常に楽を感じ、何の束縛もなく、何が無くても幸せを感じられる満ち足りた幸せ、それは悟りということを得たお釈迦様のような人にしかあり得ないものであろう。
そして、そこに到達するために用意されているのが仏教の教えである。戒定慧の三学にまとめられる体系そのものがそのことを語ってもいる。日常生活での道徳的な規則的な規律ある生き方が求められ、心を統一し禅定をもたらす瞑想法があり、また智慧を開発する瞑想法が用意されている。それらの実践のもとに精進努力することが求められている。つまり、実践無くして得られるものなしということだろう。忍耐の末に果実あり。大変な思いをしなくては求める幸せも手に入れられない。
いま、若い人たちが何をしていいのか分からない、何のために生きているのか、どう生きたらいいのか分からないという。家族の中にあって何不自由なく暮らしていたら何も努力せずとも暮らせてしまうであろう。しかし、どんなに小さな動物でも成長すればみな親元を離れていくものではないだろうか。一人になって生きていく。努力無くして生きるすべはない。しかし一人では生きていけない、周りの人たちと上手く助け合うことも必要になるだろう。我慢することも必要だ。自分の好き勝手は言っていられない。
何でもしなくては生きていけない。そうして努力して、つらい思いをして、へこたれずにやれてはじめて得られたものの喜びを味わうことができる。小さなうちから一人でやって獲得したものの喜びを知っていればそれはかなえられよう。周りの人たちから学ぶこともある。ともに喜びを分かち合う中で学ぶこともある。そうしてはじめてどう生きたらいいのかも分かるし、何をすべきかが見えてくるのではないか。幸せは努力なくしては得られない。幸せだけを求めていては何も得られない。忍土の住人なればそれがもとより当然のことなのだと言えよう。
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