実は輪廻を肯定して為していること
この輪廻ということは皆さん普段余り意識されていないものかもしれませんが、実はそのことを肯定してしていることが結構あるのです。もう二三年前のことになりますか、あの『千の風になって』が流行ったとき、檀家のおばあちゃんが来られて、あの歌詞はあれでいいんですかと、お墓に亡くなった人がいなくていいんですかと聞きに来ました。私は、いいんじゃないですかとそのときお答えして、お話会にお越しの方でしたので、その次の回にじっくりとお話しました。亡くなった人がお墓にいるというのは、この世に未練を残して来世に行けない地縛霊、浮遊霊ということになりますよと。
体と心が一つで私たち生きていますが、死ぬと五時間後に身体と心は分離して、お葬式の後、体は火葬して骨になり、その四十九日の後、遺骨はお墓に埋葬されますが、心は来世に行くのです。だからより良いところへ行ってくださいと功徳を手向けるために盛大に四十九日の法要をするわけですね。そうして、みんな来世で新たに自分に相応しい転生をすべく、人間に生まれ変われるなら、身籠もったお母さんのお腹の胎児に入って輪廻するんですよと話しました。皆さん当たり前のように四十九の法事をしますが、それは輪廻ということを前提に特別に大事に為されていることなのです。
また、たとえば、開経偈というのがありますね、「百千万劫難遭遇」というところ「劫」とはインドの言葉でカルパといい、とてつもない長い永遠にも近い時間を言うわけですが、私たちはそれだけ前からずっと時間を掛けてやっとこの経文に出会ったという意味ですね。なぜその自分がそれだけの長い時間を掛けてきていると言えるのかというと、それはずっと無始より輪廻してきているからということなんです。輪廻して輪廻してきてやっと今人間として生まれ、仏教に出会いここにこの経文にまみえられたという感激を言うわけです。知らぬ間に皆さんそうお唱えになっているのです。
また、卑近な例ですが、皆さんの家の仏壇、古いものなら、下と上が広くなって段々に中間が少し細くなっていませんか。七つないし十くらい段々に作られていますが、これは何かというと、六道それにその上の仏界を表している。だから昔の人は、江戸時代くらいまでの人たちはみんな六道に輪廻するという、そんな世界観を共有していた理解していたということを表しています。
この中には真宗の門徒さんもおられると思いますが、念仏、何のためにされるかと言えば、地獄ではなく極楽世界に往生したいからということですね、単純には。死んでからいく世界、来世に極楽世界に転生する、それは紛れもなく、輪廻して天界に行くということです。決して仏界ではない。仏界に行くには今生でお釈迦様のように悟らないといけない。だから輪廻するというこの考え方のもとに往生、極楽世界、ないし念仏の教えがあるんです。平安時代中期から盛んに浄土思想が蔓延します。貴族がこぞって阿弥陀堂を建てる。宇治の平等院とか。藤原道長さんなどは、丈六の阿弥陀さんを九体並べて、その前に北枕で西を向いて念仏を沢山の坊さんに唱えさせながら亡くなっていきますね。六道に輪廻するから念仏するということです。
輪廻とは希望である
あんまり昔のことばかり言っていても仕方ありませんが、たとえば、数年前ノーベル平和賞を取られたチベット仏教の指導者ダライラマさんなどは、来日した講演会の際に、「私は仏教徒ですから来世を信じます。そしていつまでも希望を持っています」と言われています。チベットの自治権を巡って中国ともめたままですが、希望を持っている、それは来世できっと果たせるだろうからというのです。ダライラマという法王の位は世襲ではなく、死後生まれ変わりの少年を捜して、いろいろな試験をしてクリアしたら承認されて地位を継ぐことになっていますね。だから自分はまた来世で違う体をもらって生まれ変われるからということです。
でも、それはダライラマさんが特別ということではなく、私たちも同じです。来世がある。だから、今生でかなわないことでも手放すことはない、死ぬまでちゃんと出来るんだと信じていることが大切です。異常な欲をかいたり恨みを晴らすというような悪い内容ではなくですね。年取ったからと夢や希望、願いをあきらめることはない。輪廻するというのはだから、もう死ぬからとか、死が近いからと言って、変にジタバタせずに冷静に信じていられる、いつか出来ると信じられる。そういうありがたい教えでもあります。
不平等な世の中-生まれの違い
で、また、この輪廻ということを信じるといろいろなことがきちんと説明できます。たとえばこの世の中はとてつもなく不平等です。皆あまり疑問に思わないのですが、生まれや生活環境、全く違います。持ち合わせた才能や性格、ものの好き嫌いまで。日本国内なら何とかこんなものかと思えますが、世界に目を転じるとものすごいことになっています。だから自爆テロなどという惨事も起こるのかもしれませんが。それはなぜなのか。それは、輪廻ということを前提に考えるとよく分かります。それは、前世やもっと前の過去世の因縁、業によるのだと説明できます。これを自業自得、因果応報と言います。
ですが、たとえば、過酷な人生に見えるような境遇で生まれてきても、だからといって過去世が悪かったと一概に言えるものではありません。わざとそのような過酷な境遇を選択して、心がものすごく早く成長して、その次の来世では悟りに近いところに行くのかもしれない。五体不満足の乙武さんなんか見ていますと、本当にそう思えます。
逆にたとえ恵まれた環境に生まれたとしても、それをうまく使えずに功徳を使い果たすだけで堕落した人生を送ってしまったら、その次の世では地獄や餓鬼の世界に行くかもしれない。今こうして仏教の話に注目して関心を持って聞いて下さっているということはそれだけで、ものすごく安心していい人生を歩んでおられるということだと思います。
何のために生きるのか-仏教徒は悟りに向かって生きる
ところで、私たちは何のために生きているのでしょうか。生きるとは何なのでしょうか。仏教ではと言いますか、仏教徒は少なくともみんな悟りということを意識して生きていくと考えます。皆さんもそうですね、だからみんな亡くなった人の菩提を念じる。菩提とは悟りのことですね。しかし、それはそう簡単なものではない、だから、少しずつでも心を清らかにして悟るために私たちは何度も何度も生死を繰り返し輪廻して修行していくのだと考えるのです。そして、何とか頑張って、お釈迦様のように悟りを開いて、輪廻の苦しみから脱することを解脱と言ったのです。その解脱を最終目標に生きるのが仏教徒の生き方ということになります。
人生には生まれてくる意味がある
ですが、その一回一回の転生は、自分の業によってつまり行いによって次の生まれが決まる、言ってみれば自分が決めていくことになるのですが、普通私たちは自分で好きこのんで生まれてきたんではないなんていうことを言ったり思っていたりします。お子さんからそんなこと言われたことないですか。
ですが、東京の産婦人科医で池川明さんという人が生まれ変わりの研究をされていまして、『子供は親を選んで生まれてくる』という本を書いています。読みますと日本人の子供にも生まれてくるところの記憶、また前世の記憶を持った子がいるというのです。上の方から将来のお母さんが妊娠するのを見ていて、このお母さんがいいと自分で決めてそのお腹の中に入っていったと話す子供がいる。
自分にふさわしいお母さんを選んで、自分のそのときの人生の課題をクリアすべくふさわしいお母さんを選ぶのだとこの先生は言います。だから勝手に生みやがってという子供がいたら、そんなことはないのだと、みんな自分で選んでくるのだということになれば、そんな勝手な不足は言えない。自分に責任があるということですね。自業自得です。みんな違う人生、それぞれにやるべき課題をもって、一人一人生きる意味を見いだすために生まれてくる。だから、みんなどんな人でも尊い人生なのだということになります。
で、これは自分だけではなくて、みんなそうなのです。だから、みんなのこと、周りの人達の人生も大事にする必要がある。だから慈悲という教えがあるわけです。慈悲についてはまた後ほどお話しします。つづく
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この輪廻ということは皆さん普段余り意識されていないものかもしれませんが、実はそのことを肯定してしていることが結構あるのです。もう二三年前のことになりますか、あの『千の風になって』が流行ったとき、檀家のおばあちゃんが来られて、あの歌詞はあれでいいんですかと、お墓に亡くなった人がいなくていいんですかと聞きに来ました。私は、いいんじゃないですかとそのときお答えして、お話会にお越しの方でしたので、その次の回にじっくりとお話しました。亡くなった人がお墓にいるというのは、この世に未練を残して来世に行けない地縛霊、浮遊霊ということになりますよと。
体と心が一つで私たち生きていますが、死ぬと五時間後に身体と心は分離して、お葬式の後、体は火葬して骨になり、その四十九日の後、遺骨はお墓に埋葬されますが、心は来世に行くのです。だからより良いところへ行ってくださいと功徳を手向けるために盛大に四十九日の法要をするわけですね。そうして、みんな来世で新たに自分に相応しい転生をすべく、人間に生まれ変われるなら、身籠もったお母さんのお腹の胎児に入って輪廻するんですよと話しました。皆さん当たり前のように四十九の法事をしますが、それは輪廻ということを前提に特別に大事に為されていることなのです。
また、たとえば、開経偈というのがありますね、「百千万劫難遭遇」というところ「劫」とはインドの言葉でカルパといい、とてつもない長い永遠にも近い時間を言うわけですが、私たちはそれだけ前からずっと時間を掛けてやっとこの経文に出会ったという意味ですね。なぜその自分がそれだけの長い時間を掛けてきていると言えるのかというと、それはずっと無始より輪廻してきているからということなんです。輪廻して輪廻してきてやっと今人間として生まれ、仏教に出会いここにこの経文にまみえられたという感激を言うわけです。知らぬ間に皆さんそうお唱えになっているのです。
また、卑近な例ですが、皆さんの家の仏壇、古いものなら、下と上が広くなって段々に中間が少し細くなっていませんか。七つないし十くらい段々に作られていますが、これは何かというと、六道それにその上の仏界を表している。だから昔の人は、江戸時代くらいまでの人たちはみんな六道に輪廻するという、そんな世界観を共有していた理解していたということを表しています。
この中には真宗の門徒さんもおられると思いますが、念仏、何のためにされるかと言えば、地獄ではなく極楽世界に往生したいからということですね、単純には。死んでからいく世界、来世に極楽世界に転生する、それは紛れもなく、輪廻して天界に行くということです。決して仏界ではない。仏界に行くには今生でお釈迦様のように悟らないといけない。だから輪廻するというこの考え方のもとに往生、極楽世界、ないし念仏の教えがあるんです。平安時代中期から盛んに浄土思想が蔓延します。貴族がこぞって阿弥陀堂を建てる。宇治の平等院とか。藤原道長さんなどは、丈六の阿弥陀さんを九体並べて、その前に北枕で西を向いて念仏を沢山の坊さんに唱えさせながら亡くなっていきますね。六道に輪廻するから念仏するということです。
輪廻とは希望である
あんまり昔のことばかり言っていても仕方ありませんが、たとえば、数年前ノーベル平和賞を取られたチベット仏教の指導者ダライラマさんなどは、来日した講演会の際に、「私は仏教徒ですから来世を信じます。そしていつまでも希望を持っています」と言われています。チベットの自治権を巡って中国ともめたままですが、希望を持っている、それは来世できっと果たせるだろうからというのです。ダライラマという法王の位は世襲ではなく、死後生まれ変わりの少年を捜して、いろいろな試験をしてクリアしたら承認されて地位を継ぐことになっていますね。だから自分はまた来世で違う体をもらって生まれ変われるからということです。
でも、それはダライラマさんが特別ということではなく、私たちも同じです。来世がある。だから、今生でかなわないことでも手放すことはない、死ぬまでちゃんと出来るんだと信じていることが大切です。異常な欲をかいたり恨みを晴らすというような悪い内容ではなくですね。年取ったからと夢や希望、願いをあきらめることはない。輪廻するというのはだから、もう死ぬからとか、死が近いからと言って、変にジタバタせずに冷静に信じていられる、いつか出来ると信じられる。そういうありがたい教えでもあります。
不平等な世の中-生まれの違い
で、また、この輪廻ということを信じるといろいろなことがきちんと説明できます。たとえばこの世の中はとてつもなく不平等です。皆あまり疑問に思わないのですが、生まれや生活環境、全く違います。持ち合わせた才能や性格、ものの好き嫌いまで。日本国内なら何とかこんなものかと思えますが、世界に目を転じるとものすごいことになっています。だから自爆テロなどという惨事も起こるのかもしれませんが。それはなぜなのか。それは、輪廻ということを前提に考えるとよく分かります。それは、前世やもっと前の過去世の因縁、業によるのだと説明できます。これを自業自得、因果応報と言います。
ですが、たとえば、過酷な人生に見えるような境遇で生まれてきても、だからといって過去世が悪かったと一概に言えるものではありません。わざとそのような過酷な境遇を選択して、心がものすごく早く成長して、その次の来世では悟りに近いところに行くのかもしれない。五体不満足の乙武さんなんか見ていますと、本当にそう思えます。
逆にたとえ恵まれた環境に生まれたとしても、それをうまく使えずに功徳を使い果たすだけで堕落した人生を送ってしまったら、その次の世では地獄や餓鬼の世界に行くかもしれない。今こうして仏教の話に注目して関心を持って聞いて下さっているということはそれだけで、ものすごく安心していい人生を歩んでおられるということだと思います。
何のために生きるのか-仏教徒は悟りに向かって生きる
ところで、私たちは何のために生きているのでしょうか。生きるとは何なのでしょうか。仏教ではと言いますか、仏教徒は少なくともみんな悟りということを意識して生きていくと考えます。皆さんもそうですね、だからみんな亡くなった人の菩提を念じる。菩提とは悟りのことですね。しかし、それはそう簡単なものではない、だから、少しずつでも心を清らかにして悟るために私たちは何度も何度も生死を繰り返し輪廻して修行していくのだと考えるのです。そして、何とか頑張って、お釈迦様のように悟りを開いて、輪廻の苦しみから脱することを解脱と言ったのです。その解脱を最終目標に生きるのが仏教徒の生き方ということになります。
人生には生まれてくる意味がある
ですが、その一回一回の転生は、自分の業によってつまり行いによって次の生まれが決まる、言ってみれば自分が決めていくことになるのですが、普通私たちは自分で好きこのんで生まれてきたんではないなんていうことを言ったり思っていたりします。お子さんからそんなこと言われたことないですか。
ですが、東京の産婦人科医で池川明さんという人が生まれ変わりの研究をされていまして、『子供は親を選んで生まれてくる』という本を書いています。読みますと日本人の子供にも生まれてくるところの記憶、また前世の記憶を持った子がいるというのです。上の方から将来のお母さんが妊娠するのを見ていて、このお母さんがいいと自分で決めてそのお腹の中に入っていったと話す子供がいる。
自分にふさわしいお母さんを選んで、自分のそのときの人生の課題をクリアすべくふさわしいお母さんを選ぶのだとこの先生は言います。だから勝手に生みやがってという子供がいたら、そんなことはないのだと、みんな自分で選んでくるのだということになれば、そんな勝手な不足は言えない。自分に責任があるということですね。自業自得です。みんな違う人生、それぞれにやるべき課題をもって、一人一人生きる意味を見いだすために生まれてくる。だから、みんなどんな人でも尊い人生なのだということになります。
で、これは自分だけではなくて、みんなそうなのです。だから、みんなのこと、周りの人達の人生も大事にする必要がある。だから慈悲という教えがあるわけです。慈悲についてはまた後ほどお話しします。つづく
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