住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

5/26 いきいきサロンでのお話  『死んだら皆、仏様 誤解』を読みながら-1

2010年05月26日 13時53分30秒 | 仏教に関する様々なお話

法楽寺と國分寺

本日はご縁を頂戴しまして、こうしてお招きをいただきまして、誠にありがとうございます。平野には法楽寺さんという同じ真言のお寺がありますが、法楽寺さんと国分寺とはとても縁のあるお寺で、未だに法類というお寺の親戚に当たる関係でもあります。 法楽寺さんの4代ほど前、江戸から明治になる時代に、道上出身の密雄師というとても立派なご住職がおられまして、20才くらいで法楽寺の住職になっています。

私はやっと40才で国分寺に来て、42才の時住職にさせてもらってますから、その器と言いますか、修行の出来具合が違う、大きな方だったのです。それで、明治になったとき、坊さんにも苗字をつけさせられまして、山号をとって、龍池密雄と名乗ったのです。 法楽寺さんの山号は龍池山というんですね。

それから、当時福山の明王院が廃仏毀釈やらでとても困っていた。ずいぶん雨漏りをしていたそうです。そこで、男気もあったのでしょう。誰もしないなら自分がということで、法楽寺を他の人に譲って、明王院に行かれた。そこに来られたのが、山岡鉄舟ですね。江戸末から明治にかけての剣術家であり政治家であった。

幕末には西郷さんと勝海舟の会談を実現して江戸城の無血開城を成し遂げたことで有名です。明治天皇の侍従もされてました。多くのお寺の復興にも尽力されています。明王院に来られて沢山の書を書いて、それをこの近隣のお寺に掛けて修復資金の一助にしていった。 だからどこの真言のお寺にも鉄舟の書が掛けてあります。国分寺には、弘法大師の著作から『霧を掲げて光を見る』という書額があります。

それで、その密雄師はその後東京に出て高野山の復興運動をされています。それがあまりうまくいかずに、明王院に帰られていた頃、こんな地方にいる方ではないということで、京都の本山大覚寺の門跡に推挙される。 その頃大覚寺と仁和寺と高野山が三派で一つの真言宗を作っていて、その後高野山の管長にもなられますが、その密雄師の後明王院の住職になるのが、国分寺の先々代猪原泰雄師で、法楽寺さん、明王院さん、そして国分寺というのはとても縁が深いということになるのです。

私の國分寺との因縁

まあ、そんなことで國分寺の者が今日こうしてここでお話ししますのも、もとより深い因縁があるのかなあとも思いますが、私自身は東京の生まれでして、この地に知り合いがあったわけでもなく、全く国分寺とも縁がなかったように思えるのですが、なぜかここにこうしている、これまたとても不思議なようにも思えるのです。

子供の頃は父親の会社が浅草にあったこともありまして、浅草寺によくお参りをした記憶があります。寅さんは柴又の帝釈天で産湯をつかったと言いますが、私の場合は浅草寺が生まれて最初のお寺とのご縁となっています。 大学はよく仏教大学ですかと言われるのですが、経済学部だったのです。

ですが、大学二年の時高校の友人とある大学の学園祭にその門前で待ち合わせ、年齢に相応しい哲学やら倫理に関するようないろいろな話をしました。そのとき話しているうちに自分も何か勉強しなくてはと思って、後日手にしたのがお釈迦様の本だったんです。 仏教の最初期の話を中心にした内容の本です。

それからおもしろくなって、経済ほったらかしで仏教に没頭していきまして、卒業の頃にはお坊さんになりたくなっていました。母親に相談したら、泣かれましてね、それでもう少しサラリーマンを続けて、実は、大学は夜間に行きましたので、高校卒業後からずっとサラリーマンをしておりました。

縁起を理解する

ですが、やっぱり坊さんになりたくて、26才で高野山で出家して、27才のとき専修学院という学校で勉強と修行をして、卒業後東京に帰り、ある寺で役僧として住み込みで仕事をしておりました。それであるとき、そのお寺が、あのとき、そうです、高校の友人と待ち合わせたあの大学の門前にある寺だとその時初めて気がついて、その途端に、頭の中にそれまでのことが走馬燈のように蘇り、今こうしてあるのは、一つ一つの岐路に立って、一つ一つ間違えずに選択して今こうしてある。すべてのことがあるべくしてある。

目にするものすべてがありがたいと思えました。みんな出会うべくして出会っていると。 過去のすべてのことが結実して今がある。これまでの無数の因と果の連続によって今の瞬間がある。これがあってこうなるという仏教の言葉で言うなら縁起ということですね。その連鎖によって生きている。今の自分、思いもその因縁によると。出会っている人にも因縁があり、その人との因縁の交差点にあるのがその出会いだということも出来るわけで、皆様ともそれぞれの因縁の交差したところに今立ち会っているという訳なのです。だから今という瞬間がとても意味のある、そして大切なものだと感じました。

そして、今の一瞬のあり方によって次の瞬間がある。今の過ごし方思いの持ちようによって、将来がある。これからの自分をいかようにも変えられる。つらいこと、苦しい境遇にあったとしても変えていけるということなのでする。それは今の行いや思いによるのだということなのです。

名前の引き寄せ

それで、その後インドに行ったり、四国を歩いたり、また、東京で托鉢だけして暮らしてみたりした後、インドの坊さんとして3年ほど過ごし、その後ご縁あって国分寺に来るのですが、なぜ私が國分寺に縁があったのか、とても不思議なのですが、僧名は全雄と言いますが、一つにはこの名前がここに導いたのかとも思えます。「雄」の字はすでに言ったように密雄師、その弟子の泰雄師につながる。「全」の字も、実は、国分寺に縁の深い加茂出身の草繋全宜師という大覚寺の戦後最初の門跡の一字であり、どうもこの名前が私を国分寺に誘ったと勝手にそう考えています。とにかく様々な因縁によってここにこうして今日あるということなのです。

『死んだら皆仏様、誤解』について

で、今日はそんな話しではなくて、仏教について身近なところからいろいろと勉強をしていきたいと思っています。今年1月29日の読売新聞のコラム、【見えざるものへ】という連載をしておりまして、その一つを読んでいこうと思います。末木文美士さんという仏教学者が書いているものです。ここに用意したのは、『死ねば皆仏様、誤解』とありますが、丁度この日の晩に檀家さんの七日参りに行きましたら見せて下さって、こんなこと書いてありますが、これでいいんですかと問われまして、この通りですが、などとお話ししたことを記憶しています。それでは一度読みながら解説をしていきたいと思います。

 http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp100128a.htm

いかがでしたでしょうか。どんなご感想をお持ちになられたでしょうか。こういう内容について話題にされたというのはとてもいいことなのですが、その先が書いてない。死ねば仏様が誤解なら、では死んだらどうなるのかということが書かれてませんね。やはり仏教徒、世界の仏教徒の常識についてきちんと触れなくてはいけないのではないかと思います。

死んでも終わりではない、その行いによって六道に輪廻するということを書かなくてはいけないのではないかと私は思います。 それから、小沢氏の話に関連すれば、仏教だけが平和な教えだということ、その通りなんですから、自信を持って仏教学者ならきちんと言って欲しい、そう思います。

輪廻ということ

今日は、そこで、死ということ、縁起でもないと言わずに考えていきたいと思います。生きている限り死から逃れられないのですし、お釈迦様も生老病死を見つめよと言われています。ところで、皆さんは死んだら仏様だと思っておいででしたか。やっぱりそんなうまい話あるはずないと思っておられたでしょうか。

数年前に国分寺にミャンマーから仏教徒が来たんです。そのとき壇信徒に何かお話をと言ったとき、このことを言われました。 何も打ち合わせしたわけでもなかったのに、「私たちは死んで終わりではない行かなくてはならない来世がある。行いによって地獄餓鬼畜生修羅の世界に行く。人間に生まれてもいろいろなところがある。だから沢山功徳を積んで瞑想などして心を清らかにすることが私たちの勤めです」と話されました。

その人生の行いによって、つまり業によって、業には善業も悪業もあるわけですが、私は坊さんになるとき、他のお坊さんからあなたは業が深いんだねと言われました。善悪の業があると知らない人には嫌みに聞こえることなのでしょうが。その業の集約されたものとして死ぬ瞬間の心があり、そのときの心に応じて死後ふさわしい来世に転生すると言います。つづく

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コメント (1)
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