先月の懇話会は、篤志家K氏のご配慮により、京都大学・こころの未来研究センター教授カールベッカー氏の昨年11月のNHK「こころの時間」でのお話を集録したDVDを拝見した。たいへん熱の籠もったお話で、ご自身の生い立ちから今に至る思いの数々を拝聴することにもなった。テーマは『理想の終焉を見つめて』である。書き取ったメモをたよりに以下に再現してみたい。
「日本は急激に、死を恐れない国から死を恐れ怖がる国になってしまった。それは今の社会は死を看取れなくなったからではないか。死は病院のベッドで周囲から隠されてひっそりおとずれるものになってしまった。かつて学生の頃、ハワイで日系人の死に立ち会ったことがある。その村長は、周りに集うすべての人にそれぞれ言うべきことを言い終わって、静かに息を引き取った。その光景を見たとき、正に目から鱗、どうしたらこのように死を迎えられるのかと思えた。それで、ベトナム戦争、冷戦期の核戦争の脅威にさらされる少年時代から考え続けていた死ということの研究対象として日本を選び留学した。
しかし、その日本も残念ながら、そのような日本人の死の看取り方はバブル期以降なくなった。以前は身内であったり知り合いのお祖父さんやお祖母さんが亡くなる様子を見て誰もが身近に感じていたものなのに、現代は老病死について改めて学ばねばならない時代なのだ。ゲームでいくら登場人物が死んでも、リセットすればすぐに生き返るというような死の捉え方ではなくて、老いていくとはどういうことか、病気になるとは、また死とはどのようなことか、みんな身近な人の様子を見て、自分のこととして感じ取り、何事かを心に深く刻む必要がある。だからこそそこから、いかに生きるべきかと考えることにつながる。
いかに長くというよりも、潔い死を日本人は選択してきたはずだ。それは沢山の記録がかつて『往生伝』に残されているので分かることだが、これだけ沢山の人々の死についての記録は他の国にはない。それは、念仏者たちの記録ではあるが、死が近づいた人が何を見たり、願ったり、どんな思いでいるかを記録したもので、死を恐れることなく、仏様の世界に行くことを願い、確信した人たちの記録である。
死はすべての終わりではない、心が無くなるわけではないと昔の人は知っていた。太古の日本人でも、死んだらあの裏山に行くというような観念があった。そして、お盆などには魂となって帰ってこれると。
西洋では、19世紀から20世紀にかけて活躍した精神科医のジグムント・フロイトが深層心理を解明したとされ精神分析の立場から、人の死について、いつまでも悲しみ、心悩ましているのは病気であると考えられた。死は忘れるべきものであって、ないものにするのがよいと教えられた。しかし、身近な人の死に接して、誰もが簡単にそう思い諦め、なかったことにすることなど出来ない。
そこで、近年のことではあるが、アメリカの宗教心理学者デニス・クラス氏は、日本に来て、日本人の家にある仏壇や人が亡くなったあとになされる仏事について研究するうちに、そのすばらしさに驚嘆したという。日本人の多くが、仏壇に何かあると報告したり尋ねたりしている。いいことも悪いことも、重たい話も楽しいことも亡くなったお祖父さんお祖母さんに報告して、心の落ち着きを得たり、生きているかのごとくに接することで心癒されるなどの効用がある。
またどうしたらいいのか迷っているようなことがあるときにも、仏壇に語りかけて、静かに心の中でその言葉を聞く、先祖の声を仏壇で聞くこともできる。また、たぶん亡くなったお父さんならこうするに違いないというような気持ちが得られて、それによって自然と自信をもって対処できたりというようなこともある。仏壇は、一つの文明であり、人類の貴重な資源なのだと言える。
また、人の死後なされる法事も、ずっと日本人が大切に今日まで続けてきているものであるが、それは人の死に直面した人々がその死を受け入れ、心の安定を取り戻すための日本人の智慧である。そしてそれを西洋で紹介すると、その日本でなされる法事の一周忌とか三回忌とか時期に合わせて、それを真似て、身近な人の死に際しての取り組みが行われているという。亡くなった方の家族親族友人が集まって、ロウソクを持って儀式がなされ、パーティをともにすることで、その方の死は自分一人のものではないと知り、他の人たちと定期的に共有することで心癒される機会になっている。
日本人の文化はとても素晴らしいと思う。日本人の仕事は、お金のためではなく、とにかく良いものを、完璧なまでに仕上げるというところにその特徴がある。自分中心ではなく、自分のためにではないその仕事に、すべてを捧げるという完成した技術と芸と美、それに精神力が感じられるものであり、それらが大事にされてきた社会に育まれた日本の文化はとても素晴らしい他の国々にはない完成されたものを感じる。そうした文化に培われた絆や繋がりの中で人の終焉もあったであろう。
今考えられる望ましい死の迎え方は、多くの人にヘルパーさんたちに支えられてというのは不可能であり、誰もが可能な死でなくてはならないだろう。尊厳死の宣言をまずしたいと自分は考えているし、もしも認知症などで何も判断できないような事態になったときのために代理人選定もしなくてはいけないだろう。お礼を言うべき方にはその気持ちを伝えなくてはいけないし、お詫びを言うべき方もある。そして、自分が納得できるような心をその時までに作っておきたい。いつ、その日を迎えるか分からないのだから、常にそれをあるがままに受け入れられるようでありたいと考えている。
人生は長さではないのであって、たとえば、10代で死んだとしても、その短い人生で何を学び取れたのか、分かち合えたのかを評価したいと思う。昔の日本人がみんな共有していたように、私たちはそれで最後ではないと知ることが大切であろう。そして残された人は、その亡くなった人から何を学び取れるかによって、それがその先を生きる力につながるのではないか。
日本には、茶道や華道など、瞬間の芸ともいえる素晴らしい文化がある。そこには一期一会という教えがある。その瞬間はその時だけの、たった一度の尊い瞬間であると教えられている。その一瞬を大切に生きることを教えている。その瞬間だけが輝いてあると。誰もが最期の時を迎える。だからこそ、いま生きているこの瞬間瞬間を大切に輝いて生きたいと思う。その瞬間のすばらしさを周りの人たちと、また次の世代へも伝えたいと思う。一瞬一瞬を輝いて生きていたら、素晴らしい一生となるだろう」
以上がベッカー教授のお話の要旨であるが、私たちは、今私たちのこの伝えてきた伝統にそこまでの自信が無いままに何となく今を生きてしまってはいないか。時流と言い、葬式もせず、法事を簡略にし、お墓を無くていいとする。時代の流れに飲まれてしまってはいないか。だからこそ、今日本でも、欧米同様に精神を病み自殺までする人が後を絶たない時代となっているのではあるまいか。
アメリカ人のベッカー教授だからこそ、ここに記したように日本の古き良き伝統をきちんと見きわめ、その核心をこうして言葉に出来たのであろう。私たち自身が、古くさいと思ってしまっている日本の良き伝統が、この時代に西洋で見直され、真似されようとされている。私たち日本人は自分たちのしてきたことにもっと自信と確信をもって、その効用を意識的に捉え直すことで、心病み悩み多き時代を乗り切ることも出来るのではないかと思える。それを私たちに促しているお話であったと受け取りたい。
この日本にアメリカから来て40年、ずっと暖かい眼差しで私たちを見つめ続けて下さっているベッカー先生に深く感謝申し上げます。
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「日本は急激に、死を恐れない国から死を恐れ怖がる国になってしまった。それは今の社会は死を看取れなくなったからではないか。死は病院のベッドで周囲から隠されてひっそりおとずれるものになってしまった。かつて学生の頃、ハワイで日系人の死に立ち会ったことがある。その村長は、周りに集うすべての人にそれぞれ言うべきことを言い終わって、静かに息を引き取った。その光景を見たとき、正に目から鱗、どうしたらこのように死を迎えられるのかと思えた。それで、ベトナム戦争、冷戦期の核戦争の脅威にさらされる少年時代から考え続けていた死ということの研究対象として日本を選び留学した。
しかし、その日本も残念ながら、そのような日本人の死の看取り方はバブル期以降なくなった。以前は身内であったり知り合いのお祖父さんやお祖母さんが亡くなる様子を見て誰もが身近に感じていたものなのに、現代は老病死について改めて学ばねばならない時代なのだ。ゲームでいくら登場人物が死んでも、リセットすればすぐに生き返るというような死の捉え方ではなくて、老いていくとはどういうことか、病気になるとは、また死とはどのようなことか、みんな身近な人の様子を見て、自分のこととして感じ取り、何事かを心に深く刻む必要がある。だからこそそこから、いかに生きるべきかと考えることにつながる。
いかに長くというよりも、潔い死を日本人は選択してきたはずだ。それは沢山の記録がかつて『往生伝』に残されているので分かることだが、これだけ沢山の人々の死についての記録は他の国にはない。それは、念仏者たちの記録ではあるが、死が近づいた人が何を見たり、願ったり、どんな思いでいるかを記録したもので、死を恐れることなく、仏様の世界に行くことを願い、確信した人たちの記録である。
死はすべての終わりではない、心が無くなるわけではないと昔の人は知っていた。太古の日本人でも、死んだらあの裏山に行くというような観念があった。そして、お盆などには魂となって帰ってこれると。
西洋では、19世紀から20世紀にかけて活躍した精神科医のジグムント・フロイトが深層心理を解明したとされ精神分析の立場から、人の死について、いつまでも悲しみ、心悩ましているのは病気であると考えられた。死は忘れるべきものであって、ないものにするのがよいと教えられた。しかし、身近な人の死に接して、誰もが簡単にそう思い諦め、なかったことにすることなど出来ない。
そこで、近年のことではあるが、アメリカの宗教心理学者デニス・クラス氏は、日本に来て、日本人の家にある仏壇や人が亡くなったあとになされる仏事について研究するうちに、そのすばらしさに驚嘆したという。日本人の多くが、仏壇に何かあると報告したり尋ねたりしている。いいことも悪いことも、重たい話も楽しいことも亡くなったお祖父さんお祖母さんに報告して、心の落ち着きを得たり、生きているかのごとくに接することで心癒されるなどの効用がある。
またどうしたらいいのか迷っているようなことがあるときにも、仏壇に語りかけて、静かに心の中でその言葉を聞く、先祖の声を仏壇で聞くこともできる。また、たぶん亡くなったお父さんならこうするに違いないというような気持ちが得られて、それによって自然と自信をもって対処できたりというようなこともある。仏壇は、一つの文明であり、人類の貴重な資源なのだと言える。
また、人の死後なされる法事も、ずっと日本人が大切に今日まで続けてきているものであるが、それは人の死に直面した人々がその死を受け入れ、心の安定を取り戻すための日本人の智慧である。そしてそれを西洋で紹介すると、その日本でなされる法事の一周忌とか三回忌とか時期に合わせて、それを真似て、身近な人の死に際しての取り組みが行われているという。亡くなった方の家族親族友人が集まって、ロウソクを持って儀式がなされ、パーティをともにすることで、その方の死は自分一人のものではないと知り、他の人たちと定期的に共有することで心癒される機会になっている。
日本人の文化はとても素晴らしいと思う。日本人の仕事は、お金のためではなく、とにかく良いものを、完璧なまでに仕上げるというところにその特徴がある。自分中心ではなく、自分のためにではないその仕事に、すべてを捧げるという完成した技術と芸と美、それに精神力が感じられるものであり、それらが大事にされてきた社会に育まれた日本の文化はとても素晴らしい他の国々にはない完成されたものを感じる。そうした文化に培われた絆や繋がりの中で人の終焉もあったであろう。
今考えられる望ましい死の迎え方は、多くの人にヘルパーさんたちに支えられてというのは不可能であり、誰もが可能な死でなくてはならないだろう。尊厳死の宣言をまずしたいと自分は考えているし、もしも認知症などで何も判断できないような事態になったときのために代理人選定もしなくてはいけないだろう。お礼を言うべき方にはその気持ちを伝えなくてはいけないし、お詫びを言うべき方もある。そして、自分が納得できるような心をその時までに作っておきたい。いつ、その日を迎えるか分からないのだから、常にそれをあるがままに受け入れられるようでありたいと考えている。
人生は長さではないのであって、たとえば、10代で死んだとしても、その短い人生で何を学び取れたのか、分かち合えたのかを評価したいと思う。昔の日本人がみんな共有していたように、私たちはそれで最後ではないと知ることが大切であろう。そして残された人は、その亡くなった人から何を学び取れるかによって、それがその先を生きる力につながるのではないか。
日本には、茶道や華道など、瞬間の芸ともいえる素晴らしい文化がある。そこには一期一会という教えがある。その瞬間はその時だけの、たった一度の尊い瞬間であると教えられている。その一瞬を大切に生きることを教えている。その瞬間だけが輝いてあると。誰もが最期の時を迎える。だからこそ、いま生きているこの瞬間瞬間を大切に輝いて生きたいと思う。その瞬間のすばらしさを周りの人たちと、また次の世代へも伝えたいと思う。一瞬一瞬を輝いて生きていたら、素晴らしい一生となるだろう」
以上がベッカー教授のお話の要旨であるが、私たちは、今私たちのこの伝えてきた伝統にそこまでの自信が無いままに何となく今を生きてしまってはいないか。時流と言い、葬式もせず、法事を簡略にし、お墓を無くていいとする。時代の流れに飲まれてしまってはいないか。だからこそ、今日本でも、欧米同様に精神を病み自殺までする人が後を絶たない時代となっているのではあるまいか。
アメリカ人のベッカー教授だからこそ、ここに記したように日本の古き良き伝統をきちんと見きわめ、その核心をこうして言葉に出来たのであろう。私たち自身が、古くさいと思ってしまっている日本の良き伝統が、この時代に西洋で見直され、真似されようとされている。私たち日本人は自分たちのしてきたことにもっと自信と確信をもって、その効用を意識的に捉え直すことで、心病み悩み多き時代を乗り切ることも出来るのではないかと思える。それを私たちに促しているお話であったと受け取りたい。
この日本にアメリカから来て40年、ずっと暖かい眼差しで私たちを見つめ続けて下さっているベッカー先生に深く感謝申し上げます。
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