香園寺をあとにして、国道十一号を東に歩く。一キロほど歩くと、通りの左側に面して六十二番宝寿寺があった。もとは聖武天皇の勅願で伊予一の宮のご法楽所であったというが、栄枯盛衰、特に明治時代には一時廃寺となりその後の復興と言われ、現在の景観は気の毒なことである。もとは中山川の下流にあって、金剛宝寺と称していたが、弘法大師が参詣の折、光明皇后をモデルに十一面観音を刻んで本尊として寺号も宝寿寺と改めたという。
銅板葺きの本堂の鮮やかな青色が印象的な本堂で一巻理趣経を読み、大師堂で心経一巻。先を思い急ぎ足の読経。その姿が一心不乱に見えたのか、終えて振り返ると車でお越しのお遍路さん方からありがたいお接待を頂戴した。早々に宝寿寺を出て、国道を東に進む。
やはり一キロ少々歩くと、六十三番札所吉祥寺に到着した。城門のような山門を入り、正面奥に本堂、左手前に大師堂があった。ここは平安時代、弘法大師開山のお寺。弘法大師がこの付近を巡錫した際に光り輝く檜を観て、毘沙門天と吉祥天を刻んだのが始まりという。
その頃は現在より南方の坂元山にあり塔頭二十一坊を擁していたが、天正年間に兵火にあって全焼、以後現地に再興された。吉祥寺という寺号ではあるが、毘沙門天が本尊である。四国八十八箇所にあってもここだけであるが、全国の寺院を見回してもきわめて珍しい。毘沙門天は四天王の一尊で、多聞天とも言われ、北方を守護する。天部の仏を修法するときには、仏菩薩を修法するときに必ず修する入我我入観がない。
入我我入観とは、仏が我に入り我が仏に入ると観想する密教の観法(瞑想法)で、インドの神々である天部の仏は行者に入るべき存在ではないと考えたのであろうか。ところが、唯一この毘沙門天の修法だけには実は入我我入観がある。北方ヒマラヤを頂く聖地を守護する尊格として敬い別格扱いとしたのであろう。境内にある石像のくぐり吉祥天女の下を通って本堂に至り読経した。
吉祥寺を出て少し国道を行くと、旧道への矢印があった。火の見櫓や細い水路がある道だった。六十四番前神寺は、石鈇山と山号するように、もとは石鎚神社の別当寺だった。今の前神寺が石鎚山への登山口に相当するのであろう。この道も沢山の石鎚信仰者たちが登山するために通った道に違いない。そんな往時を思わせる古い佇まいの家並みを眺めつつ歩く。小一時間で前神寺に到着。現在では真言宗石鈇派の総本山でもあるので、山門の左側にコンクリート造りの宗務所が大きく眼に入る。石鎚修験道の本山であることを示す、石鎚山と書いた扁額を支える門は、太い二本の柱のみ。
石畳を踏み本堂への道を歩く。地蔵堂、御滝不動の前を通り石段を登る。奥の奥に開けた空間の奥に銅板葺きの豪壮な本堂があった。本尊阿弥陀如来。役小角が石鎚山頂で示現させた石鎚大権現の本地仏である。小角が自ら刻んだ阿弥陀如来だと伝えられている。前の空間は大祭に催される柴燈護摩のためのスペースであろう。後に上仙道人が山頂への道を開き、桓武天皇の病気平癒を祈願して効験ありとのことで、七堂伽藍が調えられ、また弘法大師が求聞持法を修して霊場に定めたのだという。歴代皇室も帰依され、仏像や経巻を奉納しているが、慶応四年の神仏分離令で修験道は廃止されたのに伴い廃寺となり、明治十一年に現在地に下りて再興された。
急ぎ足でここまでたどり着いたという気持ちもあって、ゆっくりと理趣経一巻唱え、下の唐破風の宝形造りの大師堂の見事な細工瓦を眺め心経をお唱えした。そろそろお昼に近づいていたが、今日のお宿は何としてもいざり松までと決めていたので、先を急いだ。前神寺の前あたりに湯之谷温泉という看板を見かけた。また来たときにはゆっくりしたいものだと思う。この辺りから石鎚山までは八里、昔の話ではあるが土地の人は朝四時に出て山頂で拝み、晩の八時には戻ってきたという。
国道に戻り歩道をひたすら歩く。町に入るとパチンコ屋やら派手な看板が多くなり、世俗の雰囲気に馴染まない。と言うよりも、人と顔を合わせることに疲れを感じるからかもしれない。山道は自然に囲まれて静かに楽に歩ける。それに比べ町に出てくると途端に下を向いて歩いている自分に気がついた。途中公園があって、小さなお堂の前で香園寺でいただいたお弁当を開ける。ここも昔はどなたかお守りするお坊さんのいるお寺だったのではないかと思わせた。ブランコがあり、鉄棒がある。誰も居なくなり、お堂だけが残り管理する人もなく、地元の自治会が公園としたのであろうか。行き交う車を眺め冷たくはなっても温かいお弁当を食べた。
夕刻、やっといざり松として有名な番外札所延命寺にたどり着いた。ここは、弘法大師四国巡錫の時、いざりの松の辺りに足の不自由な人が苦しんでいるのを見て、千枚通しの霊符を創札され、一枚を授け加持すると、たちまち全快したという。これより千枚通しの名が全国に広がり千枚通し本坊として有名になった。明治の頃までは直径五メートル、東西三十メートル南北二十メートルも枝を伸ばした巨木だったというが現在は枯れた幹が残されているのみである。ご住職に挨拶すると、大師堂横の通夜堂を案内された。八畳間にこたつ、ポット、湯沸かし、ラジオ、それに布団まで。山門を出て、食パンに玉子ドーフ、天ぷらを買ってきて一人食べた。
(よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村
銅板葺きの本堂の鮮やかな青色が印象的な本堂で一巻理趣経を読み、大師堂で心経一巻。先を思い急ぎ足の読経。その姿が一心不乱に見えたのか、終えて振り返ると車でお越しのお遍路さん方からありがたいお接待を頂戴した。早々に宝寿寺を出て、国道を東に進む。
やはり一キロ少々歩くと、六十三番札所吉祥寺に到着した。城門のような山門を入り、正面奥に本堂、左手前に大師堂があった。ここは平安時代、弘法大師開山のお寺。弘法大師がこの付近を巡錫した際に光り輝く檜を観て、毘沙門天と吉祥天を刻んだのが始まりという。
その頃は現在より南方の坂元山にあり塔頭二十一坊を擁していたが、天正年間に兵火にあって全焼、以後現地に再興された。吉祥寺という寺号ではあるが、毘沙門天が本尊である。四国八十八箇所にあってもここだけであるが、全国の寺院を見回してもきわめて珍しい。毘沙門天は四天王の一尊で、多聞天とも言われ、北方を守護する。天部の仏を修法するときには、仏菩薩を修法するときに必ず修する入我我入観がない。
入我我入観とは、仏が我に入り我が仏に入ると観想する密教の観法(瞑想法)で、インドの神々である天部の仏は行者に入るべき存在ではないと考えたのであろうか。ところが、唯一この毘沙門天の修法だけには実は入我我入観がある。北方ヒマラヤを頂く聖地を守護する尊格として敬い別格扱いとしたのであろう。境内にある石像のくぐり吉祥天女の下を通って本堂に至り読経した。
吉祥寺を出て少し国道を行くと、旧道への矢印があった。火の見櫓や細い水路がある道だった。六十四番前神寺は、石鈇山と山号するように、もとは石鎚神社の別当寺だった。今の前神寺が石鎚山への登山口に相当するのであろう。この道も沢山の石鎚信仰者たちが登山するために通った道に違いない。そんな往時を思わせる古い佇まいの家並みを眺めつつ歩く。小一時間で前神寺に到着。現在では真言宗石鈇派の総本山でもあるので、山門の左側にコンクリート造りの宗務所が大きく眼に入る。石鎚修験道の本山であることを示す、石鎚山と書いた扁額を支える門は、太い二本の柱のみ。
石畳を踏み本堂への道を歩く。地蔵堂、御滝不動の前を通り石段を登る。奥の奥に開けた空間の奥に銅板葺きの豪壮な本堂があった。本尊阿弥陀如来。役小角が石鎚山頂で示現させた石鎚大権現の本地仏である。小角が自ら刻んだ阿弥陀如来だと伝えられている。前の空間は大祭に催される柴燈護摩のためのスペースであろう。後に上仙道人が山頂への道を開き、桓武天皇の病気平癒を祈願して効験ありとのことで、七堂伽藍が調えられ、また弘法大師が求聞持法を修して霊場に定めたのだという。歴代皇室も帰依され、仏像や経巻を奉納しているが、慶応四年の神仏分離令で修験道は廃止されたのに伴い廃寺となり、明治十一年に現在地に下りて再興された。
急ぎ足でここまでたどり着いたという気持ちもあって、ゆっくりと理趣経一巻唱え、下の唐破風の宝形造りの大師堂の見事な細工瓦を眺め心経をお唱えした。そろそろお昼に近づいていたが、今日のお宿は何としてもいざり松までと決めていたので、先を急いだ。前神寺の前あたりに湯之谷温泉という看板を見かけた。また来たときにはゆっくりしたいものだと思う。この辺りから石鎚山までは八里、昔の話ではあるが土地の人は朝四時に出て山頂で拝み、晩の八時には戻ってきたという。
国道に戻り歩道をひたすら歩く。町に入るとパチンコ屋やら派手な看板が多くなり、世俗の雰囲気に馴染まない。と言うよりも、人と顔を合わせることに疲れを感じるからかもしれない。山道は自然に囲まれて静かに楽に歩ける。それに比べ町に出てくると途端に下を向いて歩いている自分に気がついた。途中公園があって、小さなお堂の前で香園寺でいただいたお弁当を開ける。ここも昔はどなたかお守りするお坊さんのいるお寺だったのではないかと思わせた。ブランコがあり、鉄棒がある。誰も居なくなり、お堂だけが残り管理する人もなく、地元の自治会が公園としたのであろうか。行き交う車を眺め冷たくはなっても温かいお弁当を食べた。
夕刻、やっといざり松として有名な番外札所延命寺にたどり着いた。ここは、弘法大師四国巡錫の時、いざりの松の辺りに足の不自由な人が苦しんでいるのを見て、千枚通しの霊符を創札され、一枚を授け加持すると、たちまち全快したという。これより千枚通しの名が全国に広がり千枚通し本坊として有名になった。明治の頃までは直径五メートル、東西三十メートル南北二十メートルも枝を伸ばした巨木だったというが現在は枯れた幹が残されているのみである。ご住職に挨拶すると、大師堂横の通夜堂を案内された。八畳間にこたつ、ポット、湯沸かし、ラジオ、それに布団まで。山門を出て、食パンに玉子ドーフ、天ぷらを買ってきて一人食べた。
(よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村