住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

通夜法話

2015年02月14日 14時06分04秒 | 仏教に関する様々なお話
お疲れ様でございます。○○○○様の通夜式にあたり、たくさんの皆様にお参りいただき、またご一緒に読経いただきましてありがとうございました。心中察しますに、誠につらいものがあるものと存じます。三人のお子さんたち、ご主人様、そして、お父様、お母様、ご姉妹に取り、本当に大変なこの三年間であったと。何も御力添えも出来ず、誠に申し訳なく思っております。ですが、誰よりも、つらく、悲しく、心残りなのは、亡くなられたご本人であると思います。

よく若い方を亡くしたご家族に何と声を掛けてあげたら良いのかと問われることがあります。そのようなときには、ひとたび失った命を取り戻すことは出来ません、出来ることは、その方の人生を、一生をどのように考えてあげるか、捉えてあげられるかということ。それが大切なことではないかと思います。

たとえ短い一生であっても、かわいそう、気の毒なと思うだけでなく、その方にとっては、精一杯の人生、楽しいことも、つらいことも、いろいろなことを経験されてたくさんのことを学ばれ、たくさんの人たちと出会い心を養った一生だった。私たち普通の人が七十年、八十年かかる人生を二十年、三十年で、それだけ濃く生きて、完結された。よく頑張ったね、立派だったねと、そして、来世ではもう少しゆっくり過ごして下さいと、明るい心で送りだしてあげて欲しいと思います。そんな話を致します。

人は死ぬ寸前に、三つのことが心に浮かぶものだと言われています。一つは、許しということで、だれにも後悔すること、あんなことしなければよかった、言わなければよかったと思うことがあるものです。それらを許して欲しいという心が生じるというのです。

二つ目には、記憶、自分のことを憶えていて欲しいという気持ちです。親しかった人たち、愛する人にはいつまでも自分を忘れないで欲しい。その人たちの心の中でずっと生きていたいという気持ちです。三つ目には、人生の意味ということで、自分の人生は無意味なものではなかった、価値のあるものだったと知りたいという気持ちです。

○○さんの場合も、これだけたくさんの皆さんにお見送りを受け満足されているかもしれませんが、三人のお子さん、ご主人様には、おそらくこんなに早く分かればなれにならなくなって、もっとずっと一緒に居てあげられなくてごめんなさいという気持ちがあるのではないでしょうか。どうかそのことを許してあげて欲しいと思います。

そして、いつまでも、みんなの心の中に生きているよ、忘れないでいますと語りかけてあげて欲しい。三十八年という人生は決して十分なものではなかったかもしれませんが、たくさんの人に、また、たくさんの子供たちに優しい心を施してあげた立派な人生だったよと、そういう思いで手を合わせてあげて欲しいと思います。

明日は、既にここに戒名が書いてありますように、戒律を授かっていただき、様々な作法の伝授をして、仏教徒としてお見送りを致します。明日はあと二人のお寺さんが来て読経して下さいます。どうか明日も宜しくお願い致します。

それから、私たちもいずれ、何十年か先には同じように、皆さんから手を合わされる立場になります。今日明日のこの機会に人間が生きる死ぬということ、先ほど申し上げた人生の意味というようなことを少し考えていただくことで、○○さんの三十八年を皆さんの人生に生かしてあげて欲しいと思います。以上でございます。お疲れ様でした。


(よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする