煩悩について 1
一昨日の懇話会で、仏教伝道協会発行の『さとりの知恵を読む』の「仏のたとえ話6粗金のたとえ」を読んでいたら、首楞厳経の一説に「心の粗金を溶かして煩悩のかすを取り去るとどんな人でも、みなすべて同一の仏性を開き現すことができる」とあり、その解説には、迷い悩み苦しむ私たちではありますが、それは煩悩が邪魔をしているからで、その一つ一つの煩悩に気づき、これを取り去っていけば、仏になる性質・仏性を現し、それを発揮させて生きていけるのですと書いてありました。
すると早速に、「煩悩を取り去るにはどうしたらよいのですか」との質問がありました。貪瞋痴の煩悩と言われるわけですが、もちろん貪瞋痴はあくまでたくさんの煩悩を集約するものとしてあるわけです。一口に煩悩といっても様々ですから、まずは煩悩とはいかなるものかと考えてみたいと思います。
煩悩は、生きとし生けるものの身と心を惑わし、問題を起こし苦しみをもたらすものです。それによって性格を悪くしたり、悪業をつくり、ありのままにものを見られなくすることで、正しい智慧を妨げ、私たちを悟りから遠ざけていくものです。そうして、生きることに執着させ、何度も輪廻を繰り返していく潜在力ともなります。煩悩は、また表面には現れず、心の奥底によくない性格や性癖として潜在し、外界からの刺激によって表面化するので随眠といい、これに対し表面的な煩悩は纏といったりします。
それではまず、お釈迦様の時代に、煩悩はどのように考えられていたのでしょうか。お釈迦様の根本教説である五蘊十八界は、まさに外界から取り入れた刺激に反応し執着をしていく、つまり煩悩を生じさせていく過程を説明するものでした。十二因縁は煩悩である無明や渇愛、取により苦を生じていく行程を指し示すものであり、四聖諦はまさに煩悩を滅して悟りを得る原理を示しています。
ではどのように煩悩は分類されているのかといえば、初禅に入ると鎮伏される煩悩として、五蓋(欲貪・瞋恚・惛沈睡眠・掉挙悪作・疑)があるとされ、修行の段階に応じて滅してくべきものと捉えられていたことが分かります。ただしこの五蓋はその後も日常生活に戻れば立ち現れてくるとされ、その後四つの階梯にいたるごとに悟る際に機能しない状態にしていくのだといいます。
五蓋の内容は以下の通りです。
欲貪とは、欲界の貪欲で、五官から入る好ましい対象に対する愛着する心。
瞋恚は、それに対して好ましからざるものに対する反発、拒絶する心のことです。
惛沈睡眠は、心が沈んで隠れていたい寝ていたいという心。
掉挙悪作は、表にでてその瞬間落ち着かず混乱した心、過去の失敗を思い出し後悔すること。
疑は、なすべきことに逡巡し疑い、勇気のない心。
次に、初歩の悟り(預流果の悟り)の時に断ぜられる煩悩として、三結(身見・疑・戒禁取)があります。
身見とは、実体として私というもの、真なる私があるという考え、信念。
疑は、ここでは、善悪業報や三世因果、縁起の教えを疑うこと。
戒禁取とは、禁欲、苦行や儀式に対する執着。
それから、一来果の悟りを経て、不還果の悟りを得られると捨断されるものとして、五下分結があり、欲貪・瞋恚・身見・疑・戒禁取の五つであるとされます。もう人間の世界には戻ってこないというこの段階になってはじめて欲と怒りがなくなり、完全に落ち着いている心が生まれるとされています。
そして、阿羅漢果において断ぜられるものを五上分結といい、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明の五つです。
ここにある慢は、自分のことにしか目にない自己中心的な心ではなく、私がいるという実感から私は他の人と同じ同じでないという程度の計らいの心。
無明は、すべての煩悩の元になる心であり、すべての煩悩・迷いの根源であり、一切が無常・苦・無我と発見するまで残る執着のもとにある心です。
次に、部派仏教の中から、説一切有部の煩悩論から、六大煩悩・十大煩悩を見てみましよう。六大煩悩は、すでに見てきた、貪欲・瞋恚・愚痴・慢・疑・見の六つであり、十大煩悩は、見を五つに分けて、身見・辺見・邪見・見取・戒禁取となり十となります。
ここではこの五つに分けた見のみ見ていきますと、身見、戒禁取はすでに見たとおりです。
辺見とは、世間は常なり断なり、有辺なり無辺なり、肉体と霊魂が同一なり別なり、如来は死後存在するしない、など両極端な誤った考えを持つこと。
邪見とは、布施なし、献供なし、祭祀なし、善悪業の報果なし、此の世なし、来世なし、母なし、父なし、化生有情なし、修行証果の修行者なし、善悪も業報も三世因果も認めない考え。
見取とは、自己中心的な自説のみが正しいと固執した考え。
さらに、大乗仏教の時代となり、瑜伽行派は煩悩分類として、根本煩悩をまず示し、それに付随するものとして小中大の随煩悩があるとして次のように分類しています。根本煩悩として、貪・瞋・慢・無明・見・疑があり、随煩悩として、小随煩悩に、忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・憍・害があり、中随煩悩に、無慚・無愧があります。さらに、大随煩悩として、惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知があります。これまでに解説していないもののみ見ていきますと。
忿とは、瞋より生ずる激しい怒り癇癪のこと。
恨とは、瞋恚が心の中で永続する恨み。
覆は、自分の過ちを覆い隠す心のこと。
悩は、自分の罪や過失にこだわり他人のいさめを聞かず悩むこと。
嫉とは、他人の善いこと栄誉を喜ばす妬むこと。
慳とは、住まい、家屋、布施、称賛、法施など物惜しみする心のこと。
誑とは、他人を偽り欺いて惑わすこと。
諂とは、自分の本心を隠して他人におもねりへつらい従順を装う心のこと。
憍とは、健康、血統、自由、長寿、聡明、善行を誇り高ぶる心のこと。
害とは、他に危害を加えようとする心のこと。
無慚は、過ちを犯しても自己の内心に恥じないこと。
無愧は、間違ったことをしても外部社会に対して恥じないこと。
惛沈・掉挙はすでに見てきました。
不信は、心を澄んで浄らかなものにしようとしない心のはたらき。
懈怠は、善きことに積極的でなく悪に向かいやすい心のこと。
放逸は、外界からの刺激に惑わされ自らの今に心がないこと。
失念は、はっきりと記憶できない精神作用。
散乱は、対象に対して心散乱して定まらないこと。
不正知は、正しく対象を知見することを妨げる心の働き。
以上仏教において各時代ごとに煩悩についての捉え方を見てきました。時代を経るに従い、大まかな捉え方から、私たち自身の身近な心にも思い当たるものがいくつも見つかることが分かります。さて、これらの煩悩をいかに取り去っていくのか。取り去れるものなのかどうか。次回にまた考察してみましょう。
参考文献 仏教用語の基礎知識・水野弘元著・春秋社 佛教学辞典・法蔵館
ブッダの実践心理学第二巻・A・スマナサーラ長老・サンガ
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一昨日の懇話会で、仏教伝道協会発行の『さとりの知恵を読む』の「仏のたとえ話6粗金のたとえ」を読んでいたら、首楞厳経の一説に「心の粗金を溶かして煩悩のかすを取り去るとどんな人でも、みなすべて同一の仏性を開き現すことができる」とあり、その解説には、迷い悩み苦しむ私たちではありますが、それは煩悩が邪魔をしているからで、その一つ一つの煩悩に気づき、これを取り去っていけば、仏になる性質・仏性を現し、それを発揮させて生きていけるのですと書いてありました。
すると早速に、「煩悩を取り去るにはどうしたらよいのですか」との質問がありました。貪瞋痴の煩悩と言われるわけですが、もちろん貪瞋痴はあくまでたくさんの煩悩を集約するものとしてあるわけです。一口に煩悩といっても様々ですから、まずは煩悩とはいかなるものかと考えてみたいと思います。
煩悩は、生きとし生けるものの身と心を惑わし、問題を起こし苦しみをもたらすものです。それによって性格を悪くしたり、悪業をつくり、ありのままにものを見られなくすることで、正しい智慧を妨げ、私たちを悟りから遠ざけていくものです。そうして、生きることに執着させ、何度も輪廻を繰り返していく潜在力ともなります。煩悩は、また表面には現れず、心の奥底によくない性格や性癖として潜在し、外界からの刺激によって表面化するので随眠といい、これに対し表面的な煩悩は纏といったりします。
それではまず、お釈迦様の時代に、煩悩はどのように考えられていたのでしょうか。お釈迦様の根本教説である五蘊十八界は、まさに外界から取り入れた刺激に反応し執着をしていく、つまり煩悩を生じさせていく過程を説明するものでした。十二因縁は煩悩である無明や渇愛、取により苦を生じていく行程を指し示すものであり、四聖諦はまさに煩悩を滅して悟りを得る原理を示しています。
ではどのように煩悩は分類されているのかといえば、初禅に入ると鎮伏される煩悩として、五蓋(欲貪・瞋恚・惛沈睡眠・掉挙悪作・疑)があるとされ、修行の段階に応じて滅してくべきものと捉えられていたことが分かります。ただしこの五蓋はその後も日常生活に戻れば立ち現れてくるとされ、その後四つの階梯にいたるごとに悟る際に機能しない状態にしていくのだといいます。
五蓋の内容は以下の通りです。
欲貪とは、欲界の貪欲で、五官から入る好ましい対象に対する愛着する心。
瞋恚は、それに対して好ましからざるものに対する反発、拒絶する心のことです。
惛沈睡眠は、心が沈んで隠れていたい寝ていたいという心。
掉挙悪作は、表にでてその瞬間落ち着かず混乱した心、過去の失敗を思い出し後悔すること。
疑は、なすべきことに逡巡し疑い、勇気のない心。
次に、初歩の悟り(預流果の悟り)の時に断ぜられる煩悩として、三結(身見・疑・戒禁取)があります。
身見とは、実体として私というもの、真なる私があるという考え、信念。
疑は、ここでは、善悪業報や三世因果、縁起の教えを疑うこと。
戒禁取とは、禁欲、苦行や儀式に対する執着。
それから、一来果の悟りを経て、不還果の悟りを得られると捨断されるものとして、五下分結があり、欲貪・瞋恚・身見・疑・戒禁取の五つであるとされます。もう人間の世界には戻ってこないというこの段階になってはじめて欲と怒りがなくなり、完全に落ち着いている心が生まれるとされています。
そして、阿羅漢果において断ぜられるものを五上分結といい、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明の五つです。
ここにある慢は、自分のことにしか目にない自己中心的な心ではなく、私がいるという実感から私は他の人と同じ同じでないという程度の計らいの心。
無明は、すべての煩悩の元になる心であり、すべての煩悩・迷いの根源であり、一切が無常・苦・無我と発見するまで残る執着のもとにある心です。
次に、部派仏教の中から、説一切有部の煩悩論から、六大煩悩・十大煩悩を見てみましよう。六大煩悩は、すでに見てきた、貪欲・瞋恚・愚痴・慢・疑・見の六つであり、十大煩悩は、見を五つに分けて、身見・辺見・邪見・見取・戒禁取となり十となります。
ここではこの五つに分けた見のみ見ていきますと、身見、戒禁取はすでに見たとおりです。
辺見とは、世間は常なり断なり、有辺なり無辺なり、肉体と霊魂が同一なり別なり、如来は死後存在するしない、など両極端な誤った考えを持つこと。
邪見とは、布施なし、献供なし、祭祀なし、善悪業の報果なし、此の世なし、来世なし、母なし、父なし、化生有情なし、修行証果の修行者なし、善悪も業報も三世因果も認めない考え。
見取とは、自己中心的な自説のみが正しいと固執した考え。
さらに、大乗仏教の時代となり、瑜伽行派は煩悩分類として、根本煩悩をまず示し、それに付随するものとして小中大の随煩悩があるとして次のように分類しています。根本煩悩として、貪・瞋・慢・無明・見・疑があり、随煩悩として、小随煩悩に、忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・憍・害があり、中随煩悩に、無慚・無愧があります。さらに、大随煩悩として、惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知があります。これまでに解説していないもののみ見ていきますと。
忿とは、瞋より生ずる激しい怒り癇癪のこと。
恨とは、瞋恚が心の中で永続する恨み。
覆は、自分の過ちを覆い隠す心のこと。
悩は、自分の罪や過失にこだわり他人のいさめを聞かず悩むこと。
嫉とは、他人の善いこと栄誉を喜ばす妬むこと。
慳とは、住まい、家屋、布施、称賛、法施など物惜しみする心のこと。
誑とは、他人を偽り欺いて惑わすこと。
諂とは、自分の本心を隠して他人におもねりへつらい従順を装う心のこと。
憍とは、健康、血統、自由、長寿、聡明、善行を誇り高ぶる心のこと。
害とは、他に危害を加えようとする心のこと。
無慚は、過ちを犯しても自己の内心に恥じないこと。
無愧は、間違ったことをしても外部社会に対して恥じないこと。
惛沈・掉挙はすでに見てきました。
不信は、心を澄んで浄らかなものにしようとしない心のはたらき。
懈怠は、善きことに積極的でなく悪に向かいやすい心のこと。
放逸は、外界からの刺激に惑わされ自らの今に心がないこと。
失念は、はっきりと記憶できない精神作用。
散乱は、対象に対して心散乱して定まらないこと。
不正知は、正しく対象を知見することを妨げる心の働き。
以上仏教において各時代ごとに煩悩についての捉え方を見てきました。時代を経るに従い、大まかな捉え方から、私たち自身の身近な心にも思い当たるものがいくつも見つかることが分かります。さて、これらの煩悩をいかに取り去っていくのか。取り去れるものなのかどうか。次回にまた考察してみましょう。
参考文献 仏教用語の基礎知識・水野弘元著・春秋社 佛教学辞典・法蔵館
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