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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②

2024年06月02日 20時17分00秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②





第三章 修行
発心にとどまって修行することがなければ菩提を得られず、衆生を教化することもできない。我が仏教において、修行とは、戒定慧の三行であり、戒とは身口意の悪行を制止し善行を行ずることであり、定とは内心を寂静にして煩悩を制止することであり、慧とは顚倒せる邪見を捨て正見正智を得ることである。

  第一節 戒聖行 
我が仏教において戒を論ずるに種々の門があるが、それら一切の戒は皆十善をもって根本とする。身業を戒めるものに、不殺生、不偸盗、不邪淫。口業を戒めるものに、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。意業を戒めるものに、不慳貪、不瞋恚、不邪見がある。されど、これら十業はその源は一心にゆきつくものであり、ただその業の顕れるところについて十善戒の名目が設けられているに過ぎない。一心が真理に順ずるものを善といい、背くことを悪という。また、十善戒に止善と行善とがあり、この二種の戒をまっとうするをもって十善戒を持する者という。

一、慈悲不殺生戒 不殺生とは、一切の生類を殺さないことを言う。殺意を生じて未だ殺生していない者も一分の不殺生戒を犯したことになり、逆に心に殺意無く誤り生類を害したる場合は不殺生戒を犯したことにはならない。が、後に生類を害した過去を顧みて懺悔の心がない場合は幾分かの不殺生戒を犯した者という。不殺生戒における止善は殺生しないことであるが、慈悲の心により生類の危難を救うなど放生を実践することを行善とする。

二、高行不偸盗戒 不偸盗とは、自己が所有するものでない一切の物を取らないことを言う。親子の物でも恣に用いるのは不偸盗戒を犯すことになる。富貴なる者が公益のために金品を施与するなど布施を施すことを行善とする。

三、浄潔不邪淫戒 不邪淫とは、心に邪淫の念をもってなされる一切の道ならぬ淫をいう。夫婦の間とはいえ、非時、非処、非道、非理、非量に淫するは邪淫とされる。邪淫は心を縛り、人を害すること甚だしく、これを恐れて戒めるべきである。夫婦貞潔に時に八斎戒を護り、梵行清潔に随順するなど清浄なる行いに勤めることを行善とする。

四、正直不妄語戒 不妄語とは、見聞覚知したことに違うことを言うことである。また荒唐無稽のことを言うことも含む。行善は誠実な心をもって、正直に真実語を話すことで、これにより他者を教え導き、尊信されることになる。

五、尊尚不綺語戒 綺語とは、軽口、戯言のことで、他の歓笑を取ろうとなされるものではあるが、人の心を迷わす無益無義の言葉である。仏道を修する者は心して悪なることを知り、この戒を護るべきである。言葉厳粛に、喜んで聖者賢人の言葉を談ずることなどが行善となる。

六、柔順不悪口戒 不悪口とは、他を罵倒せず、他者の心を逆なでせず、悪い心を起こさせず、相手に合わせて優しい言葉を用いること。相手の気持ちに添い柔らかい言葉で理に適った真実なる言葉を話すことが行善となる。

七、交友不両舌戒 両舌とは、離間語ともいい、両家両人の親交を破る言葉のことで、悪果をきたすこと疑いなく戒めるべきである。よく他者を和合させるような言葉を話し、両者の親交をはかることが行善となる。

八、知足不慳貪戒 不慳貪とは、少欲知足により贅沢にならず物惜しみもしないこと。貪らず、よく他に施しをして、また他者の施しを見て随喜することなどを行善とする。

九、忍辱不瞋恚戒 不瞋恚とは、怒りの心を起こさず、意に違う場面に遭遇しても自らを損なうものと捉えず、人が自己を誹謗したとしても、それも因縁のなせることと傍観する。もとより自他なきこととわきまえ、冷静であること。瞋恚の心を起こさなければ心常に悦ばしく、慈心あり。慈悲忍辱の行に随い、慈しみの無量なる心に住することを行善とする。

十、正智不邪見戒 不邪見とは、邪見をもたず、因果応報などの正しい道理に随うことをいう。因果応報を信じない者は善悪正邪を顚倒し、無常無我を覚らない者は利己私欲を逞しくする。よって邪見、迷説をもつ人を戒めるのである。因果応報三世十二因縁の道理を信ずるものは、よく諸法の無常無我を覚り、定慧を修して、仏道を成満すべきであり、これを行善とする。

これら十善戒の止善が成就すれば行善自ずから行われ、十悪除けば十善が自ずから行ぜられる。それぞれ十善戒に五思があり、不殺生戒について述べるに、一に離殺思、これは不殺生戒をたもつのに先立ち、殺生から離れることを誓うこと。二に勧導思、自己だけでなく一切衆生を勧導して、殺生から離れさせること。三に讃美思、自他の殺生を離れる善行を讃美すること。四に随喜思、他者の不殺生に随喜すること、五に廻向思、不殺生の功徳により、自他ともに無上の菩提に到らんと廻向すること。

真正の十善戒を持する者とは、必ず止善行善を行い、離殺・勧導・讃美・随喜・廻向の五思を具え、一切諸法無常無我の正しい知見に住し、さらに自他平等の心縁すなわち衆生縁・法縁・無縁の慈悲心をもって社会に利益をもたらし、普く三世に亘り一切衆生を救済する者をいう。

第二節 定聖行
定とは、梵語にて禅那といい、訳して思惟修、静慮という。心を一境に注ぎて、散乱せぬこと。三摩地、三昧ともいう。諸法の真理を発見討究しようとする者は、まず妄想を去り、雑念を止め、喜怒愛憎の情を除き、思念を静かにすることが肝要である。故に禅定が必要となる。

第一、禅定の方法 心と体は密接に関係するものであるので、心を静めるためにまず身体を調える。

一、身を調うる法 平らなところを選び、半跏座ないし結跏趺坐して、手を前に組み、背筋を真っ直ぐにして曲がらず聳えず、頭頸を正しくして伏せず仰がず、口から気を吐き吸い身中快活になれば、口を閉じ舌を上顎に触れさせ、軽く目を閉じ鼻より呼吸し気を和らげ、全身動揺せず静謐せしめる。

二、呼吸を調うる法 呼吸に、風、喘、気、息の四種あり。前の三種は呼吸の不調なるときのもので、呼気吸気出入りに音があるのを風といい、音が無くても出入りに滞りがあるのを喘、音も滞りも無いのに呼吸が細く静かにならないのを気という。呼気吸気が綿々と細く出入りがあるかなきかとなり、心自ずから悦びを感ずるのを息という。心を用いて息を整えようとしても心が定まらない、そういう時にはまず心を静かにし、身体を緩やかにし、全身の毛孔から気が出入りすると観想するとよい。

三、定に入る法 入定に二要あり。まず、坐して頭が垂れ睡魔に襲われ記憶も無い状態にあるときは、少し目を開き、鼻端を見て心集中し出入りの呼吸を一つ二つと数える、吸気がどこに入りどこに留まりどこに去るのかを観察する。出る呼気に分散なく、入る吸気に滞りなく心澄みゆけば心眼開かれ昏沈が去る。また、身心安穏ならず、妄想しきりに往来する時は、心を静め臍の起伏に意識を集中して、外に心が向かない様にして心の乱れを制する。念を強く用い過ぎて錯乱し胸に痛みを感じる様なときは想念をとく。心散漫となり、身体くつろぎ涎がよく出る様なときは、身体に意識を向けてその感覚に心を集中するとよい。心の浮き沈み、緩急に気をつけて適した法により、心安静となり散逸せず、凝り固まらず定に入る。

四、定に住する法 身は背筋真っ直ぐにして安静にし、息は綿々と細くして、息あるが如くなきが如くになし、心は浮き沈みなく適度に意識をたもつならば、この三者適度に調い、平正を得ること度々となる。これを定に住するという。

五、定を出るの法 まず心の念を解き、口を開いて気を放ち、少し肩肘手頭頸を動かし、両足を下ろして、手で身体をさすり両手を擦り、両眼をおおい、それから目を開けて、起立歩行すべし。

第二、助観 身・息・心を調えて定に入るのは方便であり、目的ではない。これから述べる助観、並びに正定があり、助観はまた正定の方便となる。助観とは、五停心のことであり、一に数息観、二に不浄観、三に慈悲観、四に因縁観、五に念仏観である。

一、数息観 心散乱するとき、心を統一せしめるために数息観を修すべし。出息時、または入息時の数を取ってもよいし、出入りの中でもよく、数えやすい所で数を取り、一つ二つ三つと十まで数え、また一つに還り、繰り返す。

二、不浄観 淫欲の心が起こることあれば、不浄観を修すべし。貪欲に大別して、外貪欲、内外貪欲、偏一切処貪欲の三つあり。他の男女の容貌を想像して貪欲止むことがない状態を外貪欲といい、その場合には、人体の不浄を観想するとよい。死後身体が膨張し、膿血流出し、筋肉は腐乱変色し、蛆虫が発生、鳥獣争い肉を食らい、形骸分離して白骨のみとなり、また火に遭い灰になると観想する。また、他の男女もしくは自己の容貌を想像し種々の煩悩を起こすのを内外貪欲といい、この場合は自己の身体の不浄を観想する。自他の容貌に愛著してさらに衣食、家財などにも貪欲を起こすのを偏一切処貪欲といい、この場合には、飲食に屎尿の想をなし、貨財に毒蛇の想をなすなどして世間の物みな不浄にして、貪心を生ずべきものではないと念ずる。

三、慈悲観 瞋恚の念起こるときは、慈悲観を修すべし。瞋恚に、非理の瞋、順理の瞋、諍論の瞋の三種あり。非理の瞋とは、憤る理由なくして怒ることで、これを治すには、衆生縁の慈悲を修すとよく、人と人との繋がり、世間の相助け相頼む関係を思い、愛念を生じて瞋恚を断つ。順理の瞋とは、人の苦悩する境遇に憤り、他の非道なるを見て怒るなど憤怒する理由ある瞋恚のことで、これを治すには、法縁の慈悲を修して、みな一体一味との観をもって衆生個々の姿を見ないことによって瞋恚を断つ。諍論の瞋とは、自己の考えを正しいと思い、相手の考えを間違いだと決めつけて、他者の考えの違いに憤怒することをいうが、これを治すには、無縁の慈悲を修して、自他平等にして差別無しとの観念により、諍いもとよりなしと達観すべし。

四、因縁観 愚痴蒙昧に陥るときは因縁観を修すべし。愚痴に、計断常の愚痴、計有無の愚痴、計世性の愚痴の三種あり。計断常の痴とは、この世と自我は不滅であるとか(常見)、死後断滅するなどの誤った見解(断見)を持つことで、この場合には三世の十二因縁を観念し、因果は相続して不断であり、自性は空であるので不変ではないと観じてこの邪見を断つ。計有無の痴とは、すべての存在が有るとか無いとかと頻繁に思い錯綜することであり、この場合は一期の十二因縁を観念して、有無の誤った見解を離れる。計世性の痴とは、微塵は存在するので実体があるとして四大、衆生世界も実性ありとする誤った見解を持つことで、この時には一念にある十二因縁を観念して、微塵なるものにも因縁による生滅ありと悟りこの邪見を破すべし。

五、念仏観 坐禅するとき種々の障害が起こるときには、念仏観を修するべし。障害に、沈昏暗蔽障、悪念思惟障、境界逼迫障の三種あり。沈昏暗蔽障とは、精神沈昏して判別できない状態をいい、これを治すには、仏の三十二相中、白毫相など一相を取り、深く観ずべし。悪念思惟障とは、十悪や五逆(父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身を害して出血させる、教団の和合を破壊する)の悪念を起こして禅定を妨げることをいい、これを治すのに、仏の一切種智などの功徳を念ずるとよい。境界逼迫障とは、定を修するとき、苦悩逼迫して身体に苦痛を感じ奇怪なる相を見るなどをいう、この場合には、法身仏を観想することで、不生不滅、非有非空の法身なれば、境界なく、逼迫する者もなくなり、この障害が除かれる。

以上、助観にて心の散乱を防ぎ、淫欲を制し、瞋恚を伏し、愚痴を排し、種々の障害が除かれたので、これらに妨げられることなく、真理を観察考究することができよう。助観が修し終えたら、次に正定を修し禅定を完成させるべきである。



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