住職のひとりごと

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わかりやすい仏教史④ー密教とインド仏教の終焉1

2007年05月29日 18時32分34秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(大法輪誌平成十三年十月号掲載)

前回は、西北インドから異民族が相次いで侵入する混乱した時代の要請から、新しい仏教が萌芽し、その後大乗仏教として今日に至る思想上の発展がなされていったことを述べました。

今回は、その後の仏教を取り巻くさらなる環境の変化から、仏教が密教化し、その終焉を迎えるところまでを述べてみようと思います。

大乗仏教から密教へ

大乗仏教は中央アジアの遊牧民クシャーン族が北インドを制覇している時期(一世紀中ー三世紀中頃)に、その勢力を伸ばしました。大乗仏教としてのはじめての経典である般若経には、多くの陀羅尼(呪文)や真言が説かれ、呪術的な要素が見られました。

またクシャーン王朝のとき、仏像が現れて、その手の印相に様々な意味が込められ、その後密教的作法に発展していきました。さらにこの時代には、国王の即位式に用いられていた灌頂の作法が仏教の入門儀礼として採り入れられていたと言われています。

クシャーン王朝の勢力が衰えだしたとき、中インドに「インドはインド人のインドに帰ろう」と唱えたグプタ王朝(三二〇ー五二〇頃)が興り、インドの中部、西部、東部を統一し、アショーカ王に次ぐインド統一を成し遂げました。

先住民の土着信仰と習合したヒンドゥー教は、バラモンの哲学や神話、また習俗を採り入れて社会の上層に支持され、その後主流となっていきました。そして、公用語とされたサンスクリット語による文学芸術が発達し、戯曲「シャクンタラー」で有名な詩聖カーリダーサーなどが活躍したのもこの時代でした。

また、建築、彫刻、絵画などの分野でも完成度の高い作品が数多く残されています。数千のお坊さんたちが学ぶ仏教大学として有名なナーランダー寺は、この王朝の王たちによって創建され、大伽藍が築かれました。

世紀前後から開鑿された南インドのアジャンター、エローラなどの石窟寺院でも、グプタ期のものとして優美な壁画や見事な建築技法による遺構が残されています。

さらに病理学、薬物学、数学、天文学など自然科学が飛躍的に発展し、そのことと呼応するようにヒンドゥー教では密教化が進行したと言われています。

その影響により、仏教においても呪術や儀礼が採り入れられていきました。土壇を築いて炉を作り火を燃やして祈祷する護摩の作法や請雨法、止雨法などが早くもこの時代に行われていたと見られています。

また、大乗仏教で説かれた諸仏を四方に配した四方四仏の思想が、金光明経などに説かれ、四世紀終わりには成立し、後に密教の曼荼羅に発展していくことになりました。

このように仏教を民衆のものとした大乗仏教の中には、はじめから密教的な要素が含まれていました。グプタ期には前回述べたように、如来蔵思想、唯識説などの学問的な研究が進む一方で、民衆の生活と一体化したヒンドゥー教に影響され、密教化の傾向が顕著に現れるようになっていきました。

密教とは何か

お釈迦様の時代の仏教においても、護身のために呪文を唱えることは認められていました。病いに臥す弟子にお釈迦様が自ら、「七覚支」という実践法について唱えると病いが癒されたとあり、今日でも南方の仏教国では、病の苦痛が激しいときなどにこのお経が唱えられています。こうしたパリッタ(護経)と呼ばれるパーリ語のお経を読んで除災や招福を祈る簡単な儀礼は古くから行われてきていました。

ですが本来的には、お釈迦様のさとりは瞑想時の智慧によってさとられるものであり、呪術とは関係ありませんでした。手相や夢占いなどの占相や火の護摩、防箭呪などの護呪、予言などといった当時のバラモンが民衆に対して行っていた行為を、お釈迦様は邪な行いであるとして無益なものとされました。

しかし、仏教が民衆のものとして広まる過程においては、このような古くからインドの民衆の間で根強く信仰されてきた様々な呪法や儀礼、日常生活の習慣や作法が組み入れられることは必然の結果でありました。そして、それらに仏教的思想背景を与え、より高次のものとして編集し直され、密教(秘密仏教)に発展していきました。

仏教の密教化

グプタ王朝が衰えると、五世紀中頃には蒙古トルコ系の騎馬遊牧民・フン族が西北インドから侵入し、インドの民衆を残忍な恐怖に陥れたと言われています。カシュミールやガンダーラなどの仏教寺院が多く破壊され、北インドの仏教は壊滅的な打撃を受けたと言われています。

そして、この五、六世紀の混迷した社会情勢の中で、土地を浄め土壇を築いて曼荼羅を描き、その神聖な場で香華、飲食を供養して祈祷をなすといった儀礼が仏教に広く採り入れられ、諸尊の造像、供養、呪文の規定を記した様々な儀軌が作られていきました。

七世紀には中インドに、ヴァルダナ朝のハルシャ王(在位六〇六ー六四六)が出て、最後の古代専制国家を再現しました。このハルシャ王の時代は王一代でグプタ期に匹敵する学術文化の復興を実現したと言われています。

この時代、中国から留学していた玄奘三蔵は、ナーランダーの仏教大学に学び、当時そこは大乗仏教教学の中心であったと述べています。そして、この玄奘の四〇年ほど後、中国から留学した義浄三蔵(インド在六七三ー六八五)が訪れたときには、既にナーランダー寺は密教の根本道場になっていたと報告しています。

つまり、この玄奘と義浄が相次いでインドを訪れたこの間に、インド仏教の大勢は密教に移行していたと言うことが出来るようです。

その頃には、まだ部派仏教は存続していたものの、次第に部派や大乗の区別も曖昧となり、ともに融合し密教化していったと考えられています。

密教経典の成立

密教経典としては、既に四世紀頃「孔雀明王経」など現世利益を目的とする諸経典は成立していました。しかし、密教的儀礼そのものが成仏のための修法として説かれる「大日経」、「金剛頂経」といった純粋な密教経典が現れるのは、ナーランダー寺が密教化する七世紀中葉以降のことでありました。それらは、それまでの経典がすべてお釈迦様による説法であったのに対し、大毘盧遮那世尊つまり大日如来(宇宙の永遠性普遍性を仏としたもの)が説法する形式となっています。

「大日経」では、ありのままの自らの心の観察が必要であるとし、現実の私たちの心の様々な状態が分析され、凡夫から次第に向上する心の段階が説かれます。そして現実を重視し、大悲によって衆生を救済して止まない方便に最高の価値をおくところに特徴があります。母親が胎児を慈しみ育てるように、仏が大悲によって衆生の苦しみを救う精神が、蓮華に諸尊を配した曼荼羅として示されています。

「金剛頂経」は七世紀末頃成立、金剛とは帝釈天のもつ金剛杵のことで、煩悩を破折する鋭い般若の智慧を譬えたものです。自らの心を観察し三昧に入り、胸の前に月輪を観じて、その中に金剛杵を観想する。そして、自身の心が金剛のような堅固な智慧にほかならないことを知り、自分が如来そのものであることを実感する観想法が説かれます。そして、それによって得た境地が、月輪の中に配された諸尊によって構成される曼荼羅として示されています。

また金剛頂経系の「般若理趣経」では、貪欲も、愛欲も、怒りの心もみな清浄であると表現され、欲望のエネルギーをも自他の区別を離れた他者救済のための欲へと転換させていくべきことが説かれています。つづく

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