住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 1

2007年06月02日 08時39分04秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月13日14日と、朝日新聞愛読者企画「日本の古寺巡りシリーズ」番外編と称して、永平寺、那谷寺、それに琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺を参拝する。

永平寺は福井県にある、誰もが知る曹洞宗の大本山であり、那谷寺は、石川県の花山法皇ゆかりの古寺。そして、宝厳寺は、西国観音の札所でもあるが、何と言っても、竹生島弁財天を祀るありがたいお寺である。この三ヶ寺について、早速、それぞれの歴史と見所を研究していきたいと思う。

永平寺

曹洞宗の大本山永平寺は、今から約750年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開創された。「日本曹洞宗」の第一道場で、雲水さんたちが、常時200人も坐禅修行に励む聖地でもある。境内は約10万坪(33万平米)、樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいるという。

永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の正治2年(1200)京都に誕生され、父は鎌倉幕府の左大臣久我道親、母は藤原基房の娘といわる。8歳で母の他界に逢い、世の無常を観じて比叡山横川に出家された。その後、京都の建仁寺栄西禅師の門に参じ、24歳の春、栄西の弟子明全とともに入宋。中国で天童山の如浄禅師について修行し、曹洞禅を授かり28歳のときに帰朝された。

帰朝後京都の建仁寺に入られ、その後宇治の興聖寺を開創。坐禅第一主義を標榜して、坐禅堂を開単された。多くの信仰者を得たが、それが周囲の僧侶の反感を買い、寛元元年(1243)鎌倉幕府の六波羅探題、波多野義重公のすすめにより、越前国志比の庄吉峰寺に弟子懐弉禅師(永平寺2世)らとともに移られた。

翌2年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、のちに山号を吉祥山に改めて、ここに真実の仏弟子を育てる道場が開かれた。鎌倉幕府に招かれて法を説き坐禅を勧めた。坐禅は仏になるための修行ではなく、仏としての坐禅であるとして、日常の行持を重視した只管打坐を主唱した。病になり、上洛して高辻西洞院(たかつじにしのとういん)の俗弟子覚念の屋敷で、入滅。世寿54歳。

永平寺第二代懐弉禅師は道元禅師の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻や「永平広録(えいへいこうろく)」10巻等の著述を義介(ぎかい、永平寺三代)・義演(ぎえん、永平寺四代)」と共に集大成した。今日の世界的名著「正法眼蔵」はこの時に校合編集されたという。一方、永平寺伽藍の整備にも尽くした。明治12年明治天皇より道元禅師に承陽大師(じょうようだいし)の謚号が宣下されている。

七堂伽藍

永平寺は三方を山に囲まれ、南側の一方に永平寺川の流れを持つ深山幽谷(しんざんゆうこく)に位置している。寺院の建物を一般にサンガーラーマ(僧伽藍)というが、比丘(びく)たちが集まって修行する清浄な場所を指したもので、後世、寺院の建物を意味するようになった。特に中国宋時代になると禅宗が盛んになり、禅宗の清規(しんぎ)と共に日本へ伝えられた。

永平寺の七堂伽藍は鎌倉時代の中頃から、急斜面を開いて徐々に築かれたらしい。さて、禅宗建築では、山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす)の七つを七堂伽藍と呼んでいる。本来は、金堂、講堂、僧堂、鐘楼堂、経藏、食堂、塔をいう。

山門

山門は「三門」とも書かれる。総欅(けやき)造りの唐風の楼門で間口9間、奥行き5間の二重層からなる。永平寺伽藍の最古の建物で寛延2年(1749)8月、永平寺42世円月江寂禅師によって再建された。修行僧が正式に入門する永平寺の玄関に当たり、下層には四天王を祀り、上階には五百羅漢を安置する。昭和55年に福井県の文化財に指定された。

入門して上を仰げば正面に「吉祥(きちじょう)の額」といわれる扁額(へんがく)がある。『諸仏如来大功徳(しょぶつにょらいだいくどく)、諸吉祥中最無上(しょきちじょうちゅうさいむじょう)、諸仏倶来入此処(しょぶつともにきたってこのところにいる)、是故此地最吉祥(このゆえにこのちさいきちじょう)』

山門の両側には四天王を祀っており、東側には東方の守護神「持国天(じこくてん)」と北方の「多聞天(たもんてん)」、西側には西方の守護神「広目天(こうもくてん」と南方の「増長天(ぞうちょうてん)」。外部から進入する悪魔を遮っている。

正面の両側には、永平寺54世博容卍海(はくようまんかい)禅師が文政3年(1820)に山門を修復した折りに掲げた見事な聯がある。『家庭厳峻不容陸老従真門入(かていげんしゅん、りくろうのしんもんよりいるをゆるさず)鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来(さやくほうかん、さもあらばあれ、ぜんざいのいっぽをすすめくるに)』
     
この聯の意味は、永平寺を一個の家庭としたならば、ここは出家修行の道場であるから求道心の在る人のみ自由に出入りが可能である。と入門の第一関を提起している。楼上に案内されると中央眉間に後円融天皇の勅額「日本曹洞第一道場」の額がある。楼上には羅漢が祀られており、その中央には釈迦如来、脇侍として迦葉尊者と阿難尊者を祀る。最前列には「十六羅漢」を置き、その左右に「五百羅漢」が祀られている。つづく

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