住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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私とは何か

2013年06月04日 19時17分30秒 | 仏教に関する様々なお話
私と言えるような存在はあるのか。私とは何なのだろう。仏教では私などと言えるものは存在しないという。確かにここに居るけれども、ここに居るのははたして誰なのか。これが私だと言えるようなものはないという。確かに、頭の中は瞬時に変わる。今このことを考えているつもりでも、さっと他のことに気持ちがいっていることもある。周りのものに影響されて瞬時に別のものになる。コロコロ変わるこの頭の中にこれが私だと言えそうなものはないようにも感じる。

しかし、この私はずっと私として生きてきたのは確かだろう。過去の何十年もの記憶がある。だが、なら言ってみよといわれて思い出そうとすると、それがまたたよりない。確か何年に生まれて、・・・とその後がもう続かない。確か三才頃にはあのあたりに住んでいて、という具合にあやふやになってくる。

例えば、私が整形手術でもして顔が変わってしまったらどうだろう。もうそんな記憶があったとしても無駄だろう。だれ一人として私だと気づいてもくれない。記憶があるからと言ったって、それは誰かに教えてもらったか、書いた物を記憶したに違いないと言われる。顔が変わるというのは致命的だ。紅顔の美少年だって、みんなそれなりの年になれば誰もがおじさんになりお爺さんだ。そうなったら子供の頃の知り合いだって分かりはしない。

はたして私とは何なのか。身体でも、記憶でも、ましてや顔でもない。何が私と言えるのか。そう言っている意識というか、意志というか、心というようなものの繋がりのことだろうかと思い至る。そういえば、この私という意識はずっとあったように思う。私、私と思うこの私という意識。意識の流れとでもいうずっと繋がったものが私なのだろうか。しかし、寝ているときにはこの意識が無い。眠りから覚めてみると、また繋がっているように思い、私と思っている。

本当にこれが私なのかと疑問を持つと、途端に途方もなくその存在は不確かなものになるようだ。仏教では、この私という感覚は、何かを感じるときに私が感じると思って生じ、さらにさらにその意識を強くしていっているのだと考えるようだ。確かに、今このキーボードを叩くこの感覚は私が感じている。そう思っているから、私とさらに私感(わたくしかん)が増したことになる。強固なものにしたのだ。

何かを見たり、聞いたり、嗅いだりしたら、みんなそれは私がしたと思い、さらにさらに私感をこり固めていると考えられる。それは鮮烈な感覚を、強い刺激を感じれば感じるほどに強くなるのだろう。だから、人が得られないようなとっても特別な、もしくは密かな、または優越を覚えるような感覚ならなおさらだろう。私だけのこと、などと思えたらそれはそれは私というこの意識がもっともっと強固になる。私という感覚は、それによって強まり、他の人にはない自分、これこそが自分という強い自負というのか、誇りというのか、凝り固まった自我が出来上がっていく。

俺様はこんな人間だなどと思って優越に浸り、そのまま強く誇れるような自分で居続けられればいいが、それがそうとも限らない。仏教は、すべては無常だという。みんな人間など弱いものなのだから、いずれは年もとるし、体力も、誇れた能力も、知識も衰える。そうなったときには哀れなものだ。何でこの自分が、あれほど出来たのにと過去の栄光に浸るほどに焦り、自らを追い詰めるような存在になりはてる。

そして仏教は無常なるものは苦だとも言う。そうして、もっともっとと、生きている実感を求めて私たちはより刺激の強いものに心が向かう。そうしてさらにさらに苦しい人生となるだろう。私という思いが強ければ強いほどに、様々なプレッシャーやストレスが重なり、つらい人生となるだろう。

しかし、もともとが人生とは苦しみなのだ。転生輪廻の中に六道の衆生として、たまたま前世の功徳によって、いま人間界に生まれただけであって、ついこの間まで六つの世界のどこかでもっともっと苦しい思いをしていたのかもしれない。

はたして、私などと言えるものがあるのか、前世ではこの私では勿論なかったのだし、身体が死ねば心だけが転生して次に向かう。だからこの身は私のものではない、今生でこの心のためにある身体に過ぎない。私のものだから勝手にしてもいいというものではないだろう。

本当は、過去世で何をしてきたものかも分からずに、こうして私たちは偉そうに文明人の一人だなどと思って暮らしてはいるが、明日の命も分からぬ身としては、一寸先に何に生まれ変わっているかも分からない中で生きている。

はたしてどこへ生まれるかは、その心に蓄積された業によるのだという。何回もの過去世からの業、それに今生での業、沢山の業に従って今こうしてこの身体と能力と好き嫌いと環境の中で生きているのだが、結局はこの業こそが私といえるものなのかもしれない。では私とは何なのか、つまりどんな業を抱えているのか。どれだけの業を背負って生きているのかと、それは考えてわかるものではないだろう。

結局は私とは何かは分からないということなのだ。これが私だなどとは分からないということになる。だが、お釈迦様はおさとりになられるとき、すべての過去の転生をご覧になったという。さすれば私とはいかなるものかとすべて分かるのであろう。専門に修行を重ね、かなり深い禅定に至ればそれは自ずと分かるものなのだという。しかし、それはそう簡単なことではないだろう。

そのさとりを得んと生き、それを実現せねば永遠に私とはいかなるものか分からないということなのであろう。しかしはたしてそれが分かったとしても、さとっていない限り、生きているからにはその上に業が重なり続ける。常に変わりつつあるものにこれが私だとは言えないのではないか。

善き行いには過去の善き業が作用し幸せになる、悪しき行いには悪業が作用し不幸になるとも言う。つまり、そこまで思い至れば、私などと言えるものなどないのだと何とか諦めて、肩の力を抜いて、脱力して、せめて様々な飛び込んでくる感覚に余計な思いを付着せずにやり過ごし、少しでも善きことに精進し、少しでもよくあらんとせねばならないということなのであろうかと思うのである。・・・・・・。


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空の思想 (茉莉花)
2013-06-05 00:16:42
般若心経には、沢山の『空』や『無』という言葉が出てきます。
般若心経そのものは、我々の世界、仏教の本質をよく説いて居ると思います。本当なら、この経で真理を悟れる筈なのですが、なかなかそれが理解出来る人が少ないので、アレコレと経典を作り、回りくどいやり方をせざるを得ないと言うのが現実です。
私達が見て居るものは、現実の様でいて、現実ではない。私という存在は、私であって私ではない。私という心が、そう思わせて居るに過ぎない。この身体も、私の身体の様で、私の身体ではない。何故なら、思い通りに動いてくれないから。
色ならば、赤を見たら、それを赤だと思うが、本当は、赤ではないかもしれない。実は自分の心が赤だと思い込んで居るだけ。
色即ち空であり、空即ち色。
我々の世界は、我々の心が生み出して居るに過ぎない幻。それを現実だと我々の心が思い込んで居るに過ぎない。
目に見えている物は、真実であって、真実でない。
本物の様で居て、実はニセモノかもしれない。
目に映る幻に振り回される事こそ、煩悩の正体ではないでしょうか。
般若心経は、そんな幻に振り回されている我々に我々を気付かせようとしているお経の様な気がします。
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持ちうる概念を飛び越えた世界 (福市良次)
2013-06-16 14:25:16
 (いま、自分の身体のなかから外の世界を眺めているが如くの五感と感情の)存在感が「ある」ように思えます。
 空間、時間、論理、論理的思考、普遍性・・・があることを疑わない。
 これらを前提として、自分の価値空間ができています。

 これらを
 「ある」こととしての前提の議論
  これらもう疑おうという議論
を一緒にすると分からなくなります。

 前者は、宗教的、人生哲学的な議論です。「充実して生きていたい」感覚を根本に、生き方を考える議論です。

 後者は純粋哲学的議論になると思います。後者の議論では、論理が成立すること自体が不思議です。「何も無い」は何も無い状態が「ある」のですから、矛盾です。
 ひょっとしてら、宇宙の外は「ある」も「ない」も共存した世界かもしれません。言ってみても理解できません。

 何も理解できない超越した空間にビッグバン以降の秩序空間が発生したのだとすれば、今、ここに自分の身体の中から外の世界を眺めているが如くの五感と感情の表れが、何かさっぱり理解できない。ということもあり得るのでしょう。

 理解を超えたものが現れている、としか言えません。
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体験から (全雄)
2013-06-19 18:04:31
私とは何か、無我に他ならないと、本当にそう体験して分からない限り、永遠に謎のままなのかもしれません。

頭の中でいくらあれこれ考えても分かるものではない、そういうことかと思っています。
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Unknown (noriko)
2015-01-23 07:26:22
自分が無我。。?だということを、、、体験する。。可能性があるのですか?!すごい。。どういうことなのかしら。。
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 (まち)
2021-10-05 21:55:55
私とはどういったことなのかと調べていたらこのブログに行き着きました。今生に生まれても死ねば私は消えて来世の新たな私となってまた生まれてくるということなので固定化された私というものは無いという結論に至りました。善き言葉を拝読出来て感謝しております。
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まちさまへ (全雄)
2021-10-06 08:30:20
お越しくださり、コメントまで残してくださってありがとうございます。

ずいぶん前に書いたものなのでどのような意識で書いたのかも思い出せませんが、改めて読んで自分が勉強になります。

何かお役に立てましたらありがたく存じます。どうぞまたお越しください。
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