住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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四国遍路行記-22

2010年05月07日 19時35分32秒 | 四国歩き遍路行記
仏木寺から明石寺までの距離は10.5キロある。4時半に仏木寺を出たので、3時間半ほど山道と車道を歩いてきたことになる。かなりの疲労をしたようで、足は棒のようになり身体がバラバラになりそうだと日記に記している。宿の部屋に入ってもしばらく動けず、ようやく風呂に入って布団にもぐり込んだ。寝汗をかき二時間おきに起きた。寝ていながら、上から自分を眺めていた。

丁度初めてインドに行ったとき、ヨガの聖地・リシケーシュで下痢をして高熱を出して寝込んだときのようだった。アシュラム付属の診療所でもらった強い下痢止めの薬を飲んで寝ていたら、気がつくとベッドの蚊帳のずっと上の方から下を見ていた。すると、5人ほどの人たちがベッドの縁につかまって寝ている私の身体を見守っていた。が、その時はいるはずもない人を見ることはなかった。

翌朝も寝不足なので、まったく自分の身体のような感触がない中、43番明石寺に参詣する。寺伝には欽明天皇が勅願して、円手院正澄という僧が千手観音を安置して創建したという。欽明天皇の時代に百済から仏教が正伝したことを考えると少し無理があるかもしれない。その後修験道の道場として栄えたが、弘仁13年に弘法大師が訪れて伽藍を復興した。

駐車場から緩やかな坂道を進むと境内に出る。鬱蒼とした木々の中の石段を登り本堂に参る。地元のお年寄りたちがお参りに来られている中で読経。下の大師堂でお勤めの後、しばしベンチに座りお地蔵さんの前に祀られた風車を眺めた。現在は天台宗寺門派に属することもあるのだろか、建物の瓦が銅色をしていたり、造りも重厚で、少し雰囲気が独特であった。

ゆっくり風に吹かれていたら、徳島の9番法輪寺前で車のお接待をいただいた方との約束を思い出した。明石寺に来たら遍路道沿いのフジマートに寄って下さいとのことだった。急に動く元気が湧いてきて遍路道に戻る。卯之町の商店街の中程にそのスーパーがあった。レジの人に問うと、すぐに出て来てくれて、大きなお弁当と缶コーヒーを持ってきて、「これお接待です、すんません、少し待っていて下さい」と言うとどこかに消えてしまった。

しばらくするとあのときのシーマが店の前に横付けされ、どうやら車の接待をしてくれるらしいとやっと、その時わかった。この次の大寶寺までは、67キロもある。その途中までお連れしましょうとのことであった。内子の町に入ったあたりまで送ってくれた。別に近くに用事があったわけではなかったようだ。のろのろと歩き出して、途中に遍路無料宿と書いた看板などを眺めつつ歩くものの、身体が冷えてきて、どうも風邪を引いてしまったようで熱っぽい。

左手の小高いところにお寺があったので、少し休ませてくれるよう頼むが、断られてしまった。細い一車線の一本道をひたすら歩く。気分も低迷して、人に頼る心ばかりが先行する。車が横を通れば乗せてくれないかとか、どこぞに宿を貸して下さらないかとか、そんな気持ちばかりが湧いてくる。お弁当を途中で食べ、小田町まで来たところで夕刻にさしかかった。道沿いの大きな樽のある造り酒屋の先に小さな古い宿があった。4時頃だったが宿に入る。

泊まり客が私だけだったこともあってか、宿の女将さんがとても気遣って下さって、洗濯までしてくれた。夕飯には、天ぷらに玉子、ワカメの吸い物、それに唐揚げも。精の付く食事を用意して下さった。その上、宿賃まで、素泊まり同然の支払いで送り出して下さり、誠にかたじけなく思う。

お陰で、昨日の朝と違って、この日は足取りも軽やかに大寶寺への道を急いだ。大寶寺のある久万町は林業の町に相応しく、遍路道沿いに太い丸太が積み重ねられた材木置き場をいくつか越えて、小高い森に向かう道を一直線に進んだ。左側に樹齢数百年という杉や檜の大木が44番大寶寺の伽藍を囲んでいた。

左手に入り斜め後ろに伸びた坂道を上がる。信徒会館の奥に伽藍が広がっていた。聖徳太子の父用明天皇の御代に、明神右京という狩人が十一面観音を発見して、その百年後大宝元年(701)に文武天皇の勅願で創建されたとも、同年に百済から十一面観音を奉持して来日した僧がここに草庵を結んだとも言われている。弘法大師が大同13年に巡錫の折、天台宗から真言宗に改めたのだと言う。大正時代に再建された本堂は銅板屋根ではあるが、とても豪壮な造りをしている。

実はこの一年後遍路したときには車のお接待もなく、内子の手前の大洲の国道56号線下の別格20霊場の一つ十夜ヶ橋の札所で夕刻にさしかかり、その通夜堂に泊まったことがある。ノミがいるのか痒い思いをしたことを今も思い出すが、翌日元気だったこともあり、遍路道を外れて別格20霊場7番札所の金山出石寺へと歩を進めた。ところが途中道に迷い、山の道無き道をよじ登り何とか出石寺にたどり着いた。本堂に参っていると、今度は強い雨が降ってきて、困り果てていたら、お堂の下を覗き込んでいた人から声をかけられ、お接待しますと言われ、車でその人の家に連れて行かれた。

聞くと、十夜ヶ橋のお寺の檀家さんで、その大師堂を再建することになった大工さんなのだとのことだった。見ると右手の指が二本欠けている。それでも大工仕事ができるような道具を工夫して続けているのだとか。誰もいない家に案内されて、何故か用意されていたご飯をご馳走になり、しばらく待っていてくれとのことで少し横になり休んでいたら、どうぞと、娘さんが大寶寺の近くまでクラブ活動で行っているので迎えに行くから乗って下さいとのことだった。大雨の降りしきる中、何の苦労もなく大寶寺へ参ったのであった。

道が今のように整備されていなかった時代には、この明石寺から大寶寺にかけての遍路道が最難所だったとも言われるのに申し訳ないことではあるが、この前年のこの辺りでの難儀を考えると丁度バランスを取ってくださったものかと得心したものだった。その日は既に夕刻、外はどしゃ降りということもあり、そのまま大寶寺で宿泊を乞うと、乗務員用の部屋に案内され、お接待を受けた。

翌朝、本堂に他のお遍路さんたちと共にお詣りした。その時、本堂の左側手前に、正に生きているかの如くの先師さんの御像が祀られていて、読経中目が離せなくなったのを記憶している。確かに木肌なのに、つやつやと輝き、眼光も生きているように感じられたのだった。ご住職は真言宗豊山派の抑揚にとんだ豪快なお経を唱えられた。

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