![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/b6/547aa6814fe116b01599d33006d3bed7.jpg)
昨日インドから牧野財士先生が来訪された。インドからと言うよりも滞在先の東広島からと言った方が正確かもしれない。福山駅にお迎えに上がった。山陽本線の階段から降りてこられるご夫妻のお姿は、とても日本人には見えなかった。インド滞在47年の風格。お召しになっているクルターパジャマ姿も、ガンディーさんを写したセピア色の写真に登場するインド紳士といった風貌だった。
ほぼ10年ぶりにお目にかかることになったが、81才という高齢にもかかわらずしっかりとした足取り。少し痩せられたようではあったがその眼光は鋭く、依然と硬い意思をお持ちになっておられるご様子であった。
牧野先生のことはインド方面に留学したり学問として関心のある人なら知らない人は居ない。日印関係史の生き証人のような方だ。昭和33年、34才の時ガンディーアシュラムの中にあるインド教育連盟の要請で獣医畜産指導のため船でインドに出航され、10年は故国の土をふまじと堅く誓われたという。今ではその10年が47年目を迎えておられる。
インドでガンディー塾はじめ様々なところで学ばれ、獣医としてまた通訳の仕事などもなさり、50歳の時シャンティニケタンのタゴール国際大学日本語教授になられ15年間もの間インド人学生に日本語を指導なされた。この間禅の世界的啓蒙者鈴木大拙師や自然農法の福岡正信氏を始め日本からインドへ行かれた様々な方の案内をなさっておられる。薬師寺の管長高田好胤師を大戦時の激戦地インパールに案内し慰霊祭にも立ち会われている。
勿論インド国内の著名人との交友も枚挙に遑ない。私が過去に一度だけシャンティニケタンのお宅にお訪ねしたとき、お隣にお住まいになっておられたのが、かつて「ベンガルの虎」と恐れられ英帝国主義に反対し英国政府打倒のために戦い長く獄中生活を経験しその間に共産主義、そして社会主義者となり、最後にガンディー主義への道を辿られたパンナーラール・ダスグプタ氏であった。そのときかなりの高齢であったが、偶々外にお出になったときに私もお会いした。タゴール協会会長としてタゴールの思想からの感化によるものか険しい表情は消え、穏やかな微笑みを湛えられていたのを記憶している。
牧野先生は現在マニプール大学の日本語客員講師、ヴィシュワ・バーラティ(タゴール国際大学)日本学院顧問、農村開発タゴール協会の顧問であらせられる。また10年ほど前に勲4等瑞宝章をいただかれていた。知らなかった。やはり余人の真似の出来ない人生を歩まれてきたことを評価されたのであろう。私などが窺い知ることのでない幅広い日印文化交流活動の証なのであろうと思う。
私が10年ほど前にお伺いしたとき、お宅の離れに一週間ほど宿泊させていただき、これまでの歩みをお話し下さったり、タゴール協会の活動について説明をして下さった。また一日タゴール大学の中を案内して下さり、校舎の間に立つ仏陀像であるとか野外の瞑想ホールや特別にタゴールの住まわれていたスペースにも案内して下された。
当時日本から招かれた大工が作ったという格子戸であるとか、居間には仏陀像があり、その前に置かれたソファに座る人を見下ろすような作りになっていた。偶像を否定され神像を祀らせなかったタゴールではあったが、仏像は特別扱いであったと先生から伺った。またトイレにいたっては、特注の水洗便所を作らせていたりと細かい細工などタゴールの繊細な性格、ライフスタイルの洗練さを感じさせていた。
さらに、大学内の和紙を作る工房であるとか、テラコッタに覆われた小さなお堂のあるところであるとか、開放的な農村の姿などお忙しい暇をぬって私を案内して下さった。本当にそのお心遣いに申し訳ないくらいにありがたく思った。損得を度外視したその先生の溢れるお心遣いが先生と接しられた人みんなの心に記憶されていることであろう。
この度「インド四十年-展望と回顧-」「チットラレッカー-聖と俗の物語-」二冊の本を頂戴した。新潟県東蒲原郡の「よろず医療会ラダック基金」から出版されている本だ。「インド四十年」は、正に牧野先生の人生そのものを回想された貴重な本だ。仏教学者中村元氏が「この回顧録は日印文化交流のあとを示す貴重な宝である」と序言に記されている。
一方の「チットラレッカー」は、バガワティ・チャラン・バルマ氏がヒンディ語で書いた小説を牧野先生が翻訳されたもので、インドの行者と美貌の未亡人が織りなす恋心と痴情の交錯する物語のようだ。
かつて私がインド僧を辞して日本に戻り住まいした深川の小庵から、先生宛にお便りを差し上げたことがあった。「日本に戻り結婚しました」と記したその手紙に対する先生からの返信には、「人間は性虫である、ガンディー翁の自伝にも同じような記述がある、しっかり仏道に精進して下さい」と書かれていたと記憶している。心してチットラレッカーを読みたいと思う。
そして、この8月21日、ここ國分寺で恒例の万灯施餓鬼会が行われる。そのお勤めの前に、先生の娘さん、外川セツ氏が本場のインド古典舞踊マニプリ・ダンスを御奉納下さることになった。午後7時から本堂にて。おそらく日本国内でこの外川セツ氏のダンス以上のインド舞踊はお目にかかれないと私は思っている。是非近隣の方は万障お繰り合わせの上お越し願いたい。(写真は牧野邸を訪問したときの貴重な写真)
ほぼ10年ぶりにお目にかかることになったが、81才という高齢にもかかわらずしっかりとした足取り。少し痩せられたようではあったがその眼光は鋭く、依然と硬い意思をお持ちになっておられるご様子であった。
牧野先生のことはインド方面に留学したり学問として関心のある人なら知らない人は居ない。日印関係史の生き証人のような方だ。昭和33年、34才の時ガンディーアシュラムの中にあるインド教育連盟の要請で獣医畜産指導のため船でインドに出航され、10年は故国の土をふまじと堅く誓われたという。今ではその10年が47年目を迎えておられる。
インドでガンディー塾はじめ様々なところで学ばれ、獣医としてまた通訳の仕事などもなさり、50歳の時シャンティニケタンのタゴール国際大学日本語教授になられ15年間もの間インド人学生に日本語を指導なされた。この間禅の世界的啓蒙者鈴木大拙師や自然農法の福岡正信氏を始め日本からインドへ行かれた様々な方の案内をなさっておられる。薬師寺の管長高田好胤師を大戦時の激戦地インパールに案内し慰霊祭にも立ち会われている。
勿論インド国内の著名人との交友も枚挙に遑ない。私が過去に一度だけシャンティニケタンのお宅にお訪ねしたとき、お隣にお住まいになっておられたのが、かつて「ベンガルの虎」と恐れられ英帝国主義に反対し英国政府打倒のために戦い長く獄中生活を経験しその間に共産主義、そして社会主義者となり、最後にガンディー主義への道を辿られたパンナーラール・ダスグプタ氏であった。そのときかなりの高齢であったが、偶々外にお出になったときに私もお会いした。タゴール協会会長としてタゴールの思想からの感化によるものか険しい表情は消え、穏やかな微笑みを湛えられていたのを記憶している。
牧野先生は現在マニプール大学の日本語客員講師、ヴィシュワ・バーラティ(タゴール国際大学)日本学院顧問、農村開発タゴール協会の顧問であらせられる。また10年ほど前に勲4等瑞宝章をいただかれていた。知らなかった。やはり余人の真似の出来ない人生を歩まれてきたことを評価されたのであろう。私などが窺い知ることのでない幅広い日印文化交流活動の証なのであろうと思う。
私が10年ほど前にお伺いしたとき、お宅の離れに一週間ほど宿泊させていただき、これまでの歩みをお話し下さったり、タゴール協会の活動について説明をして下さった。また一日タゴール大学の中を案内して下さり、校舎の間に立つ仏陀像であるとか野外の瞑想ホールや特別にタゴールの住まわれていたスペースにも案内して下された。
当時日本から招かれた大工が作ったという格子戸であるとか、居間には仏陀像があり、その前に置かれたソファに座る人を見下ろすような作りになっていた。偶像を否定され神像を祀らせなかったタゴールではあったが、仏像は特別扱いであったと先生から伺った。またトイレにいたっては、特注の水洗便所を作らせていたりと細かい細工などタゴールの繊細な性格、ライフスタイルの洗練さを感じさせていた。
さらに、大学内の和紙を作る工房であるとか、テラコッタに覆われた小さなお堂のあるところであるとか、開放的な農村の姿などお忙しい暇をぬって私を案内して下さった。本当にそのお心遣いに申し訳ないくらいにありがたく思った。損得を度外視したその先生の溢れるお心遣いが先生と接しられた人みんなの心に記憶されていることであろう。
この度「インド四十年-展望と回顧-」「チットラレッカー-聖と俗の物語-」二冊の本を頂戴した。新潟県東蒲原郡の「よろず医療会ラダック基金」から出版されている本だ。「インド四十年」は、正に牧野先生の人生そのものを回想された貴重な本だ。仏教学者中村元氏が「この回顧録は日印文化交流のあとを示す貴重な宝である」と序言に記されている。
一方の「チットラレッカー」は、バガワティ・チャラン・バルマ氏がヒンディ語で書いた小説を牧野先生が翻訳されたもので、インドの行者と美貌の未亡人が織りなす恋心と痴情の交錯する物語のようだ。
かつて私がインド僧を辞して日本に戻り住まいした深川の小庵から、先生宛にお便りを差し上げたことがあった。「日本に戻り結婚しました」と記したその手紙に対する先生からの返信には、「人間は性虫である、ガンディー翁の自伝にも同じような記述がある、しっかり仏道に精進して下さい」と書かれていたと記憶している。心してチットラレッカーを読みたいと思う。
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私は、財士おじさんの、めいです。(正確にはひめご?)
数年前、私は両親の言う事も聞かず、おじさんの住所を書き写した、紙切れ一つを握り締めて、シャンティニケタンまで、
会いに行きました。
せっちゃんとも、何年も会ってなかったのに、
偶然が偶然を呼び、
シャンティニケタンの駅前の雑踏の中で、私たちは再会したのです。
なぜ、会いに行ったのかは、今もハッキリしませんが、
大叔父である財士おじさんが、たくさんの生きていくヒントを、
私に今も残していってくれています。
こうして、偶然、貴殿のHPにめぐり合えたのも、
私の生きるヒントです。
大叔父の話を聞くと、うれしくなります。
それは、大叔父が健在な証拠だからです。
そして私は、こうしてまた、
生きるヒントに耳を澄ますのです。