住職のひとりごと

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広田言証師の足跡を訪ねて 長崎の古寺巡り

2014年06月24日 13時41分34秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話

6月18、19日、長崎県の古寺巡りにお参りした。八年前から続けている日本の古寺巡りシリーズの企画である。今回は14名の同行の皆様と18日の早朝6時に神辺を出て各地で参加の皆様にバスに乗り込んでいただき一路長崎に向かった。車内では恒例のことながら一人マイクを握り、この度はこの一年のあらましから、四苦八苦について、また供養について六道と六種の供養、そして六波羅蜜を関連させての法話をなした。さらには、近年日本国内で南方上座仏教の布教めざましい日本テーラワーダ仏教協会制作のスマナサーラ長老による「ヴィパッサナー瞑想&慈悲の瞑想」というDVDをご覧いただいた。

昼食は車内で食し、一分でも早くその日目指していた島原の理性院大師堂への道を急いだ。理性院大師堂は、岡山県真庭郡久世町出身の広田言証師(1852-1928)が明治の中頃開創したお寺である。言証師は、地元で米や材木を商う商人だった。しかし40才の頃商売に失敗し、また難病を患って四国遍路に出る。四たび遍路していたとき、五十二番太山寺で出家する機縁に恵まれ、言証(ごんしょう)という名を授かる。それからも遍路を続けていると次第に病は癒やされ壮健となった。これは御大師様、仏様のお蔭と感じ入り、これからは人様のためにこの命を捧げようと志した。

しかしなにぶんにも何をして人助けしたらよいかも解らない、そこでさらに日本の霊山を旅してお告げを得ようと考えた。ときに、雲仙普賢岳で過酷な行を終えて島原の町に下りてきたとき、ある老婆から家に来て欲しいと言われ家に上がり、施しを受けていたとき、病人を連れてこられ治して欲しいとせがまれる。しかしそんな力も無い、拝み方も知らないと素直に告白する。

しかし、しばらくして、言証師が旅の修行に携えていた杖があって、それにその病人が触れることがあった。すると次第に病は癒やされていったのだという。なんとも不思議な話だが杖に霊力が宿っていたのであろうか。それ以来そのことは島原中の話題となり、次第に人は集まり、言証師の所には日ごと様々な施しが寄せられた。住まいが提供され、それが太山寺教会所となり、今日のような大師堂、次の代には理性院として寺格をもつ寺となった。

言証師は、それまでも、そして有名になり、十善講という講組織ができて多くの信者に支えられるようになっても、あいかわらず裸足のままでボロボロの衣をまとい杖を突き修行に歩いていた。日露戦争の前年にはシベリアを7ヶ月ほど旅行して島原出身者を訪ね歩き現地で亡くなった精霊の供養を行い、寄付を募った。日露戦争中は朝から晩まで念仏を唱え、寄付された金品を出征した疲弊家族の救護や軍資の補助として献金されたという。金銭のみで1,102円。この頃から今弘法と呼び敬われるようになっていく。

そして、その三年後、明治39年にはインドへ破天荒な旅を企てている。そのときにも裸足で船と鉄道を駆使して、交通機関のないところでは徒歩で旅をした。香港、ハノイ、ホーチミン、バンコク、シンガポール、ペナン、ラングーン。それぞれの地で日本人墓地で日本人を集め施餓鬼供養を行い、特に島原出身の人々に歓迎されたという。その中には年端もいかず売り飛ばされ、現地で辱めを受けつつ暮らすからゆきさんたちがいた。彼女らから熱烈な信仰を得て、二十歳前後で亡くなっていったからゆきさんたちの供養をなし、施餓鬼供養を行った。言証師は、ラングーンのお寺で三枚の袈裟と鉢を供養され、インドに向かう。ジャングルだったといわれるアラカン山脈を徒歩で越えて、インド世界に入っていく。

カルカッタから、ブッダガヤ、ベナレスへと歩を進めた。そこには当時、鎖国していたチベットへ潜入して膨大な経典類を持ち帰った河口慧海師が滞在していた。突然慧海師を訪ねた言証師に、慧海師は何を思ったであろうか。同郷のよしみ、言葉もできず蓄えも持たずフラリとやってきた風狂な坊さんに何事かを感じ取ったのであろう、親しくベナレスの名所を案内したとされる。お釈迦様が最初に説法されたサールナートをはじめ、ハヌマーン寺などのヒンドゥー寺院やガンジス河のガートなど。

さて次にはお釈迦様生誕のルンビニーへと送りだそうと駅に向かうものの突然言証師はボンベイに向かうと言いだし、去ってしまう。その後の足取りははっきりしていないがセイロンにも、ルンビニーにも苦労してたどり着き、またラングーンを経由して日本に向かったとされる。そのときビルマの高僧から大理石の釈迦如来像をもらいうけている。からゆきさんの滞在する各地をたどり供養を捧げつつ、重いお釈迦様を抱えて二年半に及んだインド巡礼を終えて日本に戻った。

明治42年、からゆきさんらから預かった寄付を元手に、大理石の釈迦如来像を安置する天如塔を創建する。総高20メートルほどの八角形の灯台風の塔であり、内部は二重らせん階段となっており、その最上部に如来像は安置された。寄付総額は4,870円、現在の貨幣価値でいえば5千万から7千万円に相当する。その天如塔を取り囲む玉垣の一本一本に寄進者の名前が刻まれており、東南アジアの地名と共にからゆきさんの名前も多く見られ、それらの金額は5円(現在の5万円から7万円)であり、身売りをされ知らぬ間に連れ出されて異国で命を削りつつ稼いだお金として、金銭価値の何倍もの意味ある金額であったであろう。その意を酌んで、言証師はこの天如塔という特異な塔に思いを捧げたのであった。

今年四月、フェイスブックというSNSにて天如塔の修復のことを知った。実はかれこれ20年ほど前のことではあるが、私自身がインド僧の一人として言証師の写真にあるような袈裟をまとい生活していた時期がある。インドのベンガル仏教会の一インド僧として過ごしたその三年の間にたまたま日本の図書館で、この言証師を紹介した本と出会っていた。倉橋正直著 『島原のからゆきさん - 奇僧・広田言証と大師堂』(共栄書房)である。この本を読み明治の時代にもこんな知られざる傑僧がいたのだとその生き様に感銘を受けた。そして、いつの日かそのお寺にも参ってみたいものだと思ったのであった。

フェイスブックは、理性院大師堂天如塔修復委員会の名前で立ち上げられたもので、その天如塔が百年も経って老朽化し倒壊の危機にあるところを地元の皆様が力を合わせ修復事業を企て、見事修復がなされたとの広報であった。時あたかも恒例の日本の古寺巡りシリーズ番外編一泊二日行程の候補地選定に当たり、他に特に候補が無ければということで長崎と申したところ、長崎に古寺巡りという誰も思いつかない企画との評価を受け決定し、この日の参拝が実現した。

そのことを、フェイスブックを通じて連絡を入れた。しかし、誠に残念なことにこの修復にかかろうというときご住職が他界しておられた。そこで、島原文化連盟委員長の宮崎金助氏に手紙でこの度の参拝の趣旨を申し述べたところご快諾いただき、ありがたいことにご案内までして下さることとなった。当日は雨の中、参道入り口までお出迎え下さり、一同天如塔の上まで参拝の後、机の上に資料が一人一人に用意された本堂に集合した。

宮崎様からは、からゆきさんについて、やっと十歳になったばかりくらいの年端もいかぬ娘たちが女衒らによって炭鉱船の船底に押し込められ二週間も垂れ流しの不衛生な旅の末に異国で身売りされた。上玉中玉下玉と品定めされて、それが彼女らの借金となり、身を粉にして働かされて二十歳前後で多くのからゆきさんがボロ雑巾のごとくにうち捨てられていったというお話があった。現在天如塔はからゆきさんに関する唯一の遺跡として島原市指定の有形文化財に、また長崎県の景観資産建造物にも指定されているという。

また、一級建築士でこの度の修復作業に尽力された岡本氏から天如塔のらせん階段は福島の飯盛山にある、さざえ堂と近似したところがあり、おそらくベナレスで言証師が出会った慧海師との話の中で構想したものではなかろうかという。慧海師は黄檗宗の出身であり、いち早く1780年にさざえ堂を作ったのは江戸本所にあった黄檗宗の羅漢寺であったというのである。階段は入り口から一度下に下がってから上に登るスタイルになっており、それは三途の川を渡ること、上がるところには不動明王が安置されている、また一番上部の窓から外に出て天上世界を味わってもらうようにもできていたことなど天如塔の構造について興味深いお話を伺った。

また内嶋氏からは言証師のことを本に紹介された倉橋先生が訪ねてこられたときの話や言証師の生涯を朗読劇にして上演したことなどについてお話し下さった。市の観光課の方からは、寛政地変によって島原の地が農地としても漁場としても損なわれそのことが結果として小さな子供を身売りする多くのからゆきさんを生んでいく素地となった話を伺った。また、島原新聞社から取材に来られていて、既に20日の島原新聞に「広島(福山)から天如塔を視察 開祖の思いに感銘受ける」として、國分寺住職ら15名の団体が視察し、修復後団体としては初めて天如塔に参拝したとの記事を掲載して下さっている。

歓談の後、本堂にて一同心経一巻をお唱えして、堂内の写真や古いインドの地図などに見入り、また言証師の御利益の詰まった杖にも触れさせてもらい、境内を散策して、大師堂をあとにした。宮崎様、岡本様、市職員の方が最後までお見送り下さり、からゆきさんと言証師に結んでいただいたご縁のありがたさに不思議な親近感に抱かれて後ろ髪引かれる思いで一同次なる雲仙に向かった。雲仙温泉では、地獄巡りの前に、宮崎氏に教えられた満明寺に参詣。丈六の金箔張りの釈迦如来像を前に心経一巻お唱えした。雲仙温泉はどこもよく整備され、とても気持ちよい温泉であった。

翌日は、八時に出て長崎に向かい、寺町の興福寺、皓臺寺、玉園町の聖福寺に参詣。興福寺は黄檗宗最初の寺で、隠元禅師が日本に来られて最初に入られたお寺として有名である。皓臺寺は曹洞宗、長崎大仏で有名なお寺で、キリシタンが増え続ける長崎で仏教興隆を願って作られた。現在では専門僧堂として若き雲水さんたちの修行の場となっている。聖福寺は黄檗宗長崎四福寺の一つで、他の唐寺とはひと味違う和風建築で静寂の森の中に佇む。

三ヶ寺の参拝を終え一路福山に向かう。バスの中では、まず、最後に参拝した聖福寺を舞台に繰り広げられる映画「解夏」を鑑賞し、それからまた一人マイクを握って、一人一人書いてくれた質問カードに回答し、それからお配りした「國分寺だより」の記事を題材にして様々な話をさせていただいた。話をしつつ、皆さん何度もこの古寺巡りに参加されている常連さんのため、逆にご意見を伺ったり、質問があったりと和気あいあいとした歓談をしつつ、長いはずの七時間があっという間に過ぎていった。

この度も誠に学ぶことの多い古寺巡りであった。長崎にお寺巡りということ自体特異な企画でもあり、それが為に二の足を踏んでお越しにならなかった方々もあったのではないか。しかし、そのような場所であるが故に知られざる歴史があり、今回も現地に行ったからこそ見聞できたことばかりであった。特にからゆきさんのことを知れば知るほどに私たち日本の今日の繁栄もそうした隠れた歴史の中で名も知れず消えていった人々の悲しみのうえにあることも知らねばならないであろう。そうした歴史を知ることによって、私たちは、身に抱えた差別意識、偏見を修正していくことにもつながるのではないかと思えた。

この度も企画添乗で大変お世話になった倉敷観光金森氏、また各地の石段もいとわずによく参拝された同行13名の皆様、各地にてわがままな要望を聞き入れて下さり、ご案内下さった皆様にも感謝申し上げます。ありがとうございました。


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7 コメント

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ご無沙汰致しております〓。 (山口の隠居)
2014-08-07 07:52:19
・今回のお話は、これまでのとは、また一味違った≪遍路行記≫のように思われました。

この度、広田言証師のことを初めて知りました。何か新しい“御縁”をいただいたような気がします。

それは、今回のお話の中に、河口慧海のことが登場していたからです。師のことは、中学二年の国語の教科書に『チベット旅行記』が取り上げられていたので、知ったのです。

さらに、今回は長崎寺町の海雲山晧臺寺も登場し、大変懐かしく思いました。晧臺寺も小生にとっては、御縁のあるお寺なのです。

まことにありがとうございました。合掌。
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ご無沙汰しています (全雄)
2014-08-13 17:54:42
お便り、ありがとうございます。長崎にはバスツアーの日本の古寺巡りシリーズの番外編として参りました。

河口慧海師については他でも触れているかと思います。

皓臺寺は、若い僧侶の方が親しくご案内下さり、ご住職も包容力のある立派な和尚様でした。
返信する
面白い話しでした。 (ながもんも)
2014-08-16 00:54:26
40歳近くになって再出発も諦めていましたが、良い話を読ませていただきました。

私の悪いイメージでは、最近のお坊さんは偉そうにしてるだけで中身がないみたいに思ってましたが

そうでない方も沢山いると思いなおしました。


仏教には興味あり、いろいろ調べておりますが、


大乗仏教をしてる方が小乗仏教の事を下に見る発言をしているという話を聞いた事があり
より仏教の始まりに近い形を守っているものを小乗と言って下に見るのは違うのではないか?と思っていたので
最近は小乗と言わずに上座部と言って見直されていると聞き なぜか安心しました。



ちょくちょくブログを見て勉強させて頂いてます。




おわり。


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ながもんもさまへ (全雄)
2014-08-27 19:35:40
せっかくコメントを頂きながら返信が大変遅くなり申し訳ありません。

お盆の行事が終わるまで余裕がありませんでした。失礼しました。

今後とも、共感されましたこと、疑問に感じることなどございましたら、お気軽にコメント下さい。どうぞ宜しくお願いいたします。
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Unknown (小長井町)
2015-06-04 21:39:41
今日、たまたま・・見た塔が「どこかで見たような気がするなぁ・・・あぁ・・確か・・」と思いました。帰って、調べましたら、ちょうど一年前だったのですねぇ。境内には誰もおらず、非常に静かなところでした。天如堂に入りたい思いはあったのですが、鍵がかけられているだろうと思われましたのでハナから諦めました。度々 島原を訪問しますので 毎回 訪問したいと思っております。しかし、あの広田言証師も出家への機会となった病と巡礼。『なにかに出会った』人間の生き方は、その何かに生き方を変えられてしまった生き方だと思います。簡単におのれの生き方を己自身で変えることなどほとんど出来ません。天如堂の謂れの看板を読みながら全雄さんを思い出しました(笑)。言証師に関して書かれた本・・・買わないといけないでしょうねぇ(笑。宗派は違いますが、植木等のお父さんである植木徹誠について書かれた『夢を食いつづけた男 - おやじ徹誠一代記』 植木等 著 1987年2月 朝日新聞出版 ISBN-13: 978-4022644022 も良い本ですよ。
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失礼しました (全雄)
2015-06-11 11:15:05
小長井町様

返信遅くなり失礼しました。理性院の方にどなたかおられるのではないかと思いますが。事前に連絡して行かれるとか。島原は何かお仕事ですか。次回は是非天如塔、内拝下さい。
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お久しぶりです。 (忠武飛龍)
2015-08-04 11:27:15
お久しぶりです。

この記事を読んで、昔日・特に明治以降にあった日本人による人身売買の非道を改めて認識した次第です。

その中で、広田師のような方が、国家・社会に見捨てられた女性の救済に海外にまで働かれていたことは、すごいことに思います。


今では、国内でも、平然と「自己責任」の名のもとに、社会・国家から切り捨てられます。

広田師やジャパゆきさんに、恥じる日本になったのを、恐ろしく・恥ずかしいように思います。


失礼しました。
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