住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「日本再仏教化宣言!」を読んで

2014年06月14日 21時11分16秒 | 仏教書探訪
昨年の末に施本いただきながら今になって書評でもあるまい、そうご叱責をいただくことになることを先にお詫び申し上げておきたい。

まえがきにあるとおり、過激なタイトルを故意につけて我が国における、本来の仏教の復権をもたらそうとアクションを起こされた著者佐藤哲朗氏は、日本で最初の上座仏教の本格的な組織としてますます活動の幅を広げている日本テーラワーダ仏教協会の事務局長である。このような著書を自信を持って世に問えるのは、常にスマナサーラ長老の膝下にあって、正にお釈迦様にとってのアーナンダ尊者のお立場にあることの証左であろうか。

書かれている内容の多くの箇所で我が意を得たり、その通り、よう言った。本書を読みつつ何度そのように思い、心の中で拍手喝采を叫んだことであろうか。それだけ今までの日本仏教は、この国のマスコミ報道のように偏向表現が絶えない。つまり大乗仏教至上主義と一見科学主義とも言える仏典解釈のことである。いやそればかりの中にどっぷりつかり、何が仏教かも実際わからないような状況にある。インド仏教からの伝統的な正しい教説を言うと変人扱いされかねない雰囲気に満ちていた。

日々感じていたそれらのことを本書はきれいに整理し理路整然と反論し正しい教えとは何かを指し示してくれている。誠にありがたい得がたい内容を一冊にまとめてくれたと思える。

「第一部 日本を再仏教化する Ⅰ初期仏教から見た震災と慰霊」にて、「東日本大震災で亡くなった方々への最高の供養・慰霊は、この世界に人間の枠を増やすことです。・・・p50」とある。私も震災のあと実は同じことを思った。この不慮の震災で亡くなられ、沢山の徳を積んで生きてこられた人たち、願わくば人間として再生して欲しい。それには沢山の子が身籠もられねばならないではないかと。輪廻することを考えたら当然そのように願う、そしてよりよき人生を与えられ、よりよく生きて欲しいと願わずにはおられなかった。

それに関連して現代日本における輪廻のとらえ方について言及し、「釈尊の時代のインドで、いわゆる輪廻転生の教えが常識であったかどうかは甚だ疑問であるし、・・・輪廻する恒常の主体が成り立たないことは、無我説を前提とした仏教の輪廻説の基本です。むしろ、無我でなければ輪廻は成り立たないという主張が仏教の肝であり、一部の部派以外は、輪廻と無我の矛盾に悩んで輪廻の主体を探し回ることはなかったのです。p54」と述べておられる。

誰もが、インドで常識であった輪廻思想を採用したといい、輪廻するその主体を巡って論争したと言われてきた。それこそが輪廻を否定したい人々の理屈に過ぎなかったということであろうか。その理屈の正当性を問うことに気づかせてくれている。輪廻する恒常的主体が成り立たないからこそ輪廻は成立する。輪廻を単なる生まれ変わりと解する人々には解らないであろう。

さらに、日本仏教は合理主義との習合により輪廻と業を切り捨てて近代化を成し遂げたとあり、それは「日本仏教に特有のローカルな生き方であって、それ自体に何の普遍性もなく、日本の外では一笑に付される妄説でしょう。p61」ともある。また「厳しい議論を誤魔化したいから輪廻は無い、業は無いと理屈の通らないことを言い募っているのではないか。p63」とも述べられている。

確かに、私がある本山で学んでいたときに、同和問題の講義に来られた先生が、まさにそのように苦し紛れに言われていたことを思い出す。講義の後それは違うと若気の至りで業と輪廻の解釈について抗議したのだったが、とりつく島もなかったのである。こうして確かな仏教の本筋を自ら問題意識をもって学んでいない若い僧侶は素直であればあるほど、こうした先生の言葉を信じて、そこで思考停止となり、普遍性の無い日本仏教の中だけで通じる教えを生きていくことになる。

日本仏教の思想の体系制を取り戻すために、とタイトルして、解脱学を押さえたうえで、業や輪廻をタブー視せずに、教学を再構築することが必要と考えるとされている。おそらく、学問としての再構築が自発的になされるより先に、一般信徒、特にテーラワーダの教えを信奉する人たちの確かな知識によって、いやが上にも日本仏教学も各宗派の教えも本来の仏教に還らざるを得なくなるときが来るのではないか。そうでなければ、まったく信徒から相手にされない時代が来るであろう。それほどの勢いで日本においても仏教の国際化は進んでいるのではないか。進まねば済まないのではないかと考える。国際化、つまり世界との平衡化のもっとも遅れた業界が仏教学界、仏教界ではないかと常々思えるのである。

「同 Ⅱ仏陀再誕のない明るい世界」において、「仏陀の再誕はありえない」と述べておられる。当然のことであろう。再誕と言うなら、それは仏陀の生まれ変わりではないことを世に宣言したようなものといえる。笑止千万。解っていない、著者の言われるとおりであろう。

「同 Ⅲ仏教言説の認知の歪み」においては、これまで日本の仏教界がこぞって、上座仏教を小乗と貶めてきたことに対する憤懣やるかたない反論を整然と述べられている。日本テーラワーダ仏教協会の事務局長としての面目躍如たる論陣を張って、悉くこれまでの弊説を論駁している様子は誠に心強く頼もしく感じる次第である。

「同 Ⅳ菩薩仏教という魅惑の空洞」には、ジャータカについて述べ、そこで語られる菩薩を信仰することに注意を喚起し、それが大乗菩薩にも当てはまるとして、そもそも菩薩を信仰することのばかばかしさについて語られている。「菩薩はまったくどうでもいい存在です。p165」とある。より確かな教え歩みこそをたよりとすべし。ということであろう。

「同 Ⅴ初期仏教と社会」では、戦士経という経典を紹介され、初期仏教の社会に対する姿勢について論述されている。著者が政治や社会のあり方に積極的に関わり意見する活動の裏付けとなるものであろう。戦士経については初めて知ることとなり、また仏教徒にとってふさわしい社会実現のための思想的立脚点として初期仏教の価値観を基準とし、具体的には七不衰退法について言及し、それをもって現代政治社会の動向について具体的に処方する姿勢はとても参考になった。仏教は単なる宗教ではなく、そこには様々な分野に対処して教えを生かせるものであり、それによってよりよい人間社会を実現すべしとする考えに賛同するものである。

さらに、第二部パーリ三蔵読破への道、第三部ブックガイド仏壇に吹き込んだ新しい風も、大変参考になった。

これまで与えられるものに諾々と取り組み咀嚼することしかしなかった日本人が、立ち止まって本当に自分に必要なものは何かと考え始めた。原発事故のマスコミ報道、政府内部から漏れ出てくる情報への疑問。本当のものはどこにあるか、自分たちのためになるものとは何かと考え始めた。慌ただしい日常に元に戻ってしまっている人々も多いであろうが、未だにその疑問を抱き、真実なるものを探し求めている人々も多い。

私たちの命とは、死とは、生きるとは、何をたよりに生きたらよいのかと考えている人たちが求める、間違いないと思えるものは何か。それを求める人たちにとってのガイダンスとしては本書は手強いかもしれない。しかし、より専門的な本格的なものを求める人には適した導きとなるであろう。是非ご一読願いたい。



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コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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 (よもやの)
2015-09-21 21:50:40
業と輪廻の顛末についておしえてください。
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Unknown (全雄)
2015-09-27 15:11:41
返信遅くなり恐縮です。過去にこのブログ内でいくつも輪廻については書いておりますから、ご参考になさってください。

http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/64f72ce07fcacd9e0d1359acdafe7c65
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