住職のひとりごと

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「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 3

2010年10月28日 15時59分04秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
講堂
次に、金堂の北に位置する講堂は、大戒を得た初学者に共同生活をしながら仏道のあり方を習得させるための道場であった。平城京の中心政庁である東の朝集殿が移された建物で、当時の平城京の遺構として唯一のもの。正面九間側面四間で、本瓦葺き。平屋の入母屋造で、連子窓や扉が設けられるなど、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれ、その後も江戸時代、明治時代にも修理が行われた。天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な建物。内部には、本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されている。

6月6日にに開山忌が執り行われる。鑑真和上の遺徳を偲び、講師と読師が東西の登高座に登って舎利会が、また5月19日には中興忌に梵網会が行われる。

講堂本尊は、弥勒菩薩座像・重要文化財、鎌倉時代、木造。講堂の本尊で、高さ2.84m。構造は、寄木造りで、右手は施無畏、左手は膝の上に伏せている。目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情で、鎌倉時代の典型的な仏像。後背周辺には迦陵頻伽(極楽浄土で聞いて飽きることのない美声で法を説くという想像上の鳥)や飛天が配されている。

本尊右に持国天・重要文化財、奈良時代(8世紀)132㎝、木造。増長天と比較して、体躯の動きは多少ぎこちないが、細かく彫刻された衣紋の精巧さ、緻密さは同時代の木造像としてはあまり類例がない。また、本尊左には、増長天・重要文化財、奈良時代(8世紀)128㎝、木造。創建当時にさかのぼると考えられる木彫像。そのずんぐりとした力強い体型は、唐代の仏像を手本としていたもので、鑑真和上とともに来日した唐人の作といわれている。共に本尊を守護する。邪鬼を踏んでいるが、これは近世の補作。

戒壇
金堂の西側にある戒壇は、僧となるための授戒が行われる場所。最も神聖なる儀礼の場である。三重の石壇になっているのは、一切の悪を断ち、善を修め、これを己のためでなく人々に廻らすとの戒の精神を表している。創建時に築かれたとされているが、中世に廃され、その後石段のみ鎌倉時代に再興され、のちに徳川家綱の母桂昌院の寄進による大きな重層の戒壇堂が存在したが、きらびやかな荘厳具を盗みに入った賊に放火され、失われた。現在は、三段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1980)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれている。

鼓楼
金堂・講堂の中間の東側に建つ、二階建ての建築物。国宝、鎌倉時代、仁治元年(1240)。楼造・入母屋造・本瓦葺。名称は「鼓楼」となっているが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれる。外観は、上下階とも扉と連子窓(れんじまど)で構成され、縁と高欄が取り付けられ、堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔(きんきしゃりとう)が安置されている。

国宝舎利容器、鑑真和上請来の「如来舎利三千粒(にょらいしゃりさんぜんりゅう)」を収める「白瑠璃舎利壺(はくるりしゃりこ)」とそれを包む「方円彩糸花網(ほうえんさいしかもう)」、さらにそれを収める「金亀舎利塔(きんきしゃりとう)」で構成された唐招提寺の創建にかかわる重要な宝物。

国宝・金亀舎利塔は、南北朝時代(14世紀)鑑真和上の渡海中、海に沈んだ舎利を亀が背にして浮かび上がってきたとの故事にちなんで造られたもの。高さ92cm、総体が金銅の打物、台座となる亀形部は木胎に金銅板を被せたもので、白瑠璃舎利壺を収める軸部は蓮華唐草の透かし彫りになっている。

国宝・白瑠璃舎利壺。中国唐代(8世紀)鑑真和上が持って来られた、仏舎利を収めるペルシャ製ガラス壺で高さ9.2cm、胴径11.2cm。肩および底部に大きめの気泡が見られる淡黄色の厚手のガラス壺。口縁には金銅製の口金がはめられ、後小松天皇(在位1382-1412)などの勅封により厳封されている。

国宝・方円彩糸花網。中国唐代(8世紀)白瑠璃舎利壺を包んで保護していたレースと考えられている。紺、茶緑、淡茶、白茶等の絹の色糸で編み上げられ、形はほぼ円形で中央部に方形の文様が編み込まれている。技法などから唐で作られたものと考えられ、この種のものとしては最古。

礼堂
鼓楼の東に位置する南北19間の細長い建物。重要文化財、鎌倉時代、木造、入母屋造・本瓦葺。南側8間が礼堂、北側10間が東室。その間の1間は、馬道(めどう)と呼ばれる通路になっている。講堂を挟んだ西側にも同様の建物があり、僧房として使われていた。礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂で、内部に釈迦如来立像(重文)・日供舎利塔を安置している。鎌倉時代貞慶上人が釈迦念仏会を創始してこの礼堂で毎年10月21から23日にかけて行われている。

御影堂
境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物。重要文化財、江戸時代。元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で、明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和38年(1964)移築復元したもの。現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。

鑑真和上像。国宝、奈良時代(8世紀)脱活乾漆(だっかつかんしつ)彩色。高さ80.1cm。日本最古の肖像彫刻であり、天平時代を代表する彫刻。鑑真和上の不屈の精神まで感じさせる傑作。脱活乾漆は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞。弟子の忍基(にんき)が制作を指導したとされ、今も鮮やかな彩色が残っている。

東山魁夷画伯奉納障壁画。鑑真和上坐像が安置される御影堂内の襖絵。日本を代表する画家、東山魁夷画伯が、12年の歳月をかけ、鑑真和上に捧げた大作である。日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲(さんうん)」「濤声(とうせい)」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風(ようしゅうくんぷう)」「黄山暁雲(こうざんぎょううん)」「桂林月宵(けいりんげっしょう)」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光(ずいこう)」も画伯の作。一般公開は毎年忌日前後の6月5日から7日まで。

中興堂
御影堂の西に位置する祖師堂。寄棟造・本瓦葺。中興堂は、鑑真大和上の再来と謳われた大悲菩薩覚盛上人(1193~1249)の750年御諱(没後750回忌)を記念して建てられた。寄棟造で、平成11年に完成。覚盛上人坐像(重文)の他に、昭和の中興とも言われている第81世森本孝順長老坐像(現代・制作:本間紀男氏)も安置している。

覚盛上人座像。重要文化財、室町時代(1395年)木造、彩色。鎌倉時代の南都戒律復興の中核であった覚盛上人は、平安時代末に興福寺の実範が戒律復興を志し、その意志を継いだ貞慶上人が起こした興福寺成喜院で戒律研究をする研究生として教えを受けている。その仲間に後に西大寺を復興する叡尊上人もある。東大寺大仏前で自誓授戒の後覚盛上人は衰退していた唐招提寺に入り復興に乗り出す、しかし56歳で没したため、その後の実際の仕事は弟子の証玄が43年も長老として諸堂の整備、千僧供養を行うなど中興を成し遂げた。この像は壮年期の意志的な表情を見せている。戒律に厳しく、特に不殺生戒を堅持したと伝わるその人柄がよく表れている。像内の墨書から奈良在住の仏師の一人、成慶によって1395年に像立。

このほか、校倉造りの経蔵、宝蔵、また新宝蔵には破損した仏像、また、東征伝絵巻なども展示されている。そして忘れてはならないのが、鑑真和上御廟。御影堂の東にあり、奈良時代の名僧で墓がはっきりしているのは稀なことともいう。池に架けられた橋を渡って、石の柵に囲まれた円丘の上に宝筐印塔が建つ。鑑真和上の凜とした気風を感じつつ境内を散策しながら是非訪れたいものである。

戒律は仏教の寿命であり、戒律は宗派によらず、どの宗旨でもその前に初学として学ぶべきものであった。学ぶべき三蔵の中の律であり、修得すべき三学の中の戒であった。僧侶たるもの誰もがまずもって大切にすべきものを伝えてくれているのが唐招提寺であり、その大本を造られた鑑真和上の寺。栄枯盛衰を経ながらも今もその精神を大切に守るが故のその厳かな佇まいに、静謐さに、清らかな教えの精髄を感じ取りたいと思う。


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