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「朝日新聞愛読者企画日本の古寺めぐりシリーズ」第九回・新薬師寺と唐招提寺参拝 1

2010年10月26日 17時44分11秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
シリーズ第九回を数える日本の古寺めぐりシリーズ。今回は遷都1300年祭で賑わう奈良に向かう。メイン会場である平城宮跡地に、復元された朱雀門と大極殿。それらを中心に約800メートル四方の平城京の規模を想像しながら歩く遺跡公園は古代のロマンを今に感じさせてくれるであろう。是非この機会に奈良を訪れて欲しいものだが、今回の古寺めぐりでは、その様子を遠望しながら、この期間に特別開帳の香薬師如来が拝観できる新薬師寺とこの遷都1300年祭に間に合わせ昨年金堂の改修を終えた唐招提寺に参詣する。

新薬師寺

新薬師寺は、東大寺春日大社の1キロほど南に位置する華厳宗東大寺別院新薬師寺というのが正式な名称、山号は、奈良仏教のお寺にはない。お寺のある高畑町は、志賀直哉の旧宅が今でも保存されていて、その当時ではとてもハイカラな和風サンルームがあり、天井が化粧裏天井、床は禅宗様の瓦の四半敷で、このサンルームは文化人が集まる「高畑サロン」とも言われて武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄、梅原竜三郎などの著名人が集ったという。今も閑静な住宅地である「高畑町」界隈は奈良らしい面影を留めているところでもある。

まず寺名の新薬師寺の「新」とは、西の京にある薬師寺に対するものではなく、新薬師寺は華厳宗、薬師寺は法相宗のお寺でもあり、この「新」とは新しいという意味ではなく、霊験あらたかなの新で、あらたかな薬師寺ということをまずおさえておきたい。

天平十九年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が創建され、天平時代には「十大寺」の一つに数えられた大寺であった。正面九間の金堂、東塔・西塔など七堂伽藍を備えた壮大な伽藍だったという。境内は四町四方、約20万平方メートルという広大な寺域を有していたが、平安初期、宝亀11年(780)の落雷や台風の被害で金堂が倒壊、次第に衰微した。しかし鎌倉時代には、春日大社奥に遁世した興福寺の僧・解脱上人貞慶、また高山寺の明恵上人により再興され、このとき、東門、地蔵堂、鐘楼なども建立され現在では重文に指定されている。徳川時代には寺領を百万石与えられるなど祈祷所として賑わいを見せたという。

つい二年前に新薬師寺の西150メートルの、現在奈良教育大学の構内の発掘調査で、奈良時代の巨大伽藍の後が確認されている。当時金堂は東西11間約54メートル、南北6間約27メートル、東大寺大仏殿に次ぐ規模であったことが判明している。随分横長の建物だが、金堂に安置された尊像は経典通りの七体の薬師仏にそれぞれ日光月光の左右の菩薩、それに十二神将の33体の仏像が祀られていたからという。  
 
現在の新薬師寺の伽藍は、南門を入ると正面に本堂、右に鐘楼、左に地蔵堂が目に入る。現在の本堂は、何堂だったかはっきりしないとのことだが、創建時の食堂ではなかったかと言われ、東西22.7メートル、南北14.9メートル。天平末の建立。裳階のない、単層でしかも窓がなく白壁の大きさが目立つ珍しい本堂である。扉は内開きで古代の様式。

また屋根は、天平時代の金堂は寄棟造だったが現在の本堂は入母屋造で、古代の仏堂では寄棟造が最高で格式のある仏堂の形式だったのが時代が下ると入母屋造が好まれた。勾配が緩い屋根と落ち着いた外観は典型的な天平建築である。またこの本堂の鬼瓦は、現存最古の鬼瓦と言われ、仏敵を威嚇するような面相ではなく愛嬌のある獣面。牙は見えるが角が生えておらず仏敵を威嚇するような恐ろしい面相でないことから、呼称は鬼瓦ではなく「棟瓦」とか呼ばれた時代の作品で、製作時期は天平とも鎌倉時代ともいわれている。

本堂の東側の壁にはステンドグラスが嵌められ、「東方の瑠璃光の光を浴びて下さい」と掲示されている。床の敷き瓦は、四半敷(しはんじき)で、壁の線に対して瓦の目地が45度の角度になるように敷き詰められている。敷瓦の並べ方は他に布敷(ぬのじき)というのがあって、こちらは壁の線に沿って交互に並べていく。平安時代には板敷き床が主流となる。

天井は珍しい化粧屋根裏で、天井を張らず構造を露出させている。化粧屋根裏天井の化粧とは木材をきれいに削り仕上げたということで彩色仕上げではない。化粧屋根裏天井の仏堂では我が国最大。

本堂の正面右の柱の上部に、徳川家の家紋「葵紋(あおいもん)」と桂昌院の実家本庄家の家紋「九目結紋(ここのつめゆいもん)」が描かれている。徳川綱吉の母「桂昌院(けいしょういん)」の寄進により、「薬師如来像」「十二神将像」などが修繕されたことを記念したもの。

本堂中央の円形の須弥壇は直径が9メートル、高さが90㎝、土製で漆喰仕上げが施されいる。円形の須弥壇は珍しく我が国では最大の大きさを誇る。

本尊、薬師如来坐像は像高191.5センチ。平安初期の作。国宝。丈六(240センチ)に満たないが、創建当初、金堂には薬師如来像が七体も安置されていたので丈六仏ではなかったことも考えられる。現在は光背の薬師如来六仏と合わせて七仏薬師を表している。榧(かや)の一木造。肌を漆箔で金色にしたり、本体に彩色仕上げの文様を施さない素木の像。素木の薬師如来像の制作は弘仁・貞観時代の主流であった。

右手は施無畏印、左手は与願印。施無畏印は衆生の恐れ、苦しみを取り除き、与願印は庶民のどんな望みでも叶えてもらえる印相であり、釈迦如来、阿弥陀如来像ともに使われた。そこで、見分けがつきやすいように平安時代から薬師如来像は薬壷を持つようになる。分厚い唇、太い頸、がっちりとした豊かな胸、太い腕、量感あふれる堂々たる体躯、白毫が無く、飛鳥時代と弘仁・貞観時代の一部に見られる。また目が大きく見開き、右手の掌が右に傾いているのもいている。他にはない珍しい薬師如来像である。

須弥壇の中央に本尊を祀り、それを囲繞するように我が国最大にして最古の十二神将像が安置されている。天平時代の作。十二神将は薬師如来を守護する眷属で、外側に向かって立ち、薬師如来を仏敵から守っている。像高は1.54から1.70センチで、等身大の十二神将像は新薬師寺像が最後でこれ以後は小振りの十二神将像となる。塑像造り。粘土で作られ、脆いうえ重量がある。写実主義の天平時代では多く作られたが、平安時代は木彫像が主となる。

十二神将とは伐折羅(ばさら)・阿儞羅(あにら)・波夷羅(はいら)・毘羯羅(びぎゃら)・摩虎羅(まこら)・宮毘羅(くびら)・招杜羅(しょうとら)・真達羅(しんたら)・珊底羅(さんてら)・迷企羅(めいきら)・安底羅(あんてら)・因達羅(いんだら)神将(大将)です。波夷羅像は補作であるので、波夷羅像以外の十一体の神将像が国宝。十二神将は干支の守り神でもある。同一のポーズがなく、衣装も変化があり、すべて各々の特徴を備え、かつ彩色文様を残している。特に、伐折羅大将は人気度が高く、奈良の観光ポスターや郵便切手にも採用された。

なお、境内にある鐘楼堂は、鎌倉時代、弘安二年の建立で、珍しい袴腰が設えられ、梵鐘は天平時代の貴重な重要文化財。日本霊異記に出てくる鬼退治で有名な釣鐘。地蔵堂は、方一間の仏堂で、鎌倉時代を代表する小さな仏堂建築物。十一面観音像が安置されている。また香薬師堂は今回特別開帳されており、飛鳥時代作旧国宝香薬師如来のレプリカを拝観できる。白鳳時代の代表作として名高い実物は三度の盗難に遭い現在も行方知らず。

また、地蔵堂の南側には五重塔があり、東大寺二月堂のお水取りを創始された実忠和上塔として知られる。もとは十三重だったが、倒壊したりして現状のようになった。下二段が創建時のもの。また、寺宝として、天平時代の法華経八巻が、本尊薬師如来像の胎内から発見され、国宝となっている。オコト点という送りがなのある珍しい経典。
  
今は萩の寺としても知られ、こじんまりと佇む静寂さ漂う寺院となっている。ゆっくりと拝観したい。

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