石手寺に到着したのは10時過ぎ頃だったろうか。駐車場そして仲見世入口あたりから大勢の人で賑わっている。その流れに入り51番石手寺に参拝する。もとは聖武天皇勅願寺で安養寺と言った。後に行基菩薩が薬師如来を彫刻して本尊としたというが、その後弘法大師が巡錫。そして、現寺号の由来はよく知られるように、寛平四年(892)に道後湯築城主河野息利(こうのやすとし)の子息の開かぬ左手を安養寺住持が加持して開かせたところ「衛門三郎再来」と書いた石を握っていたことから改号された。
土産物や昔懐かしい玩具類を置いた店など楽しい仲見世を通り過ぎると、大きな仁王さんの立つ国宝の門が姿を現す。お遍路さんや観光で参る人も多く、また地元信者さんも混じって人が行き交う中、正面の本堂に到達する。鰐口を勢いよく叩く参詣者の横で理趣経を唱える。落ち着かない気持ちを抑えつけるように先を急ぐ。そんな姿を見ている人もあるのか、袖の中に手が入りお接待を何人かから頂戴する。お礼も言えず、ただ会釈する。
そこから右手奥に進み、大師堂を参ってから、ビルマの仏像を祀ったパゴダへ。その途中坂道を降りるところに「雲照律師供養塔」と陰刻された大きな石碑があった。明治の傑僧・釈雲照律師(1827-1909)はここ石手寺において松山十善支会を催されていた。十善会とは、江戸時代の高僧慈雲尊者(1718-1804)が十善の教えは「人となる道」であると説かれ、その教えを継承する雲照律師が近代の世で十善を広めんがために、当初久邇宮殿下を上首と仰ぎ、通仏教で国民道徳の復興を目的に設立された一つの道徳的教会組織である。この碑は賑々しく沢山の稚児行列をもって催行された雲照律師三回忌法要の折に建立されたものであった。
それからその日特別に、庫裏の前に陳列されていたので、衛門三郎の名の入った石も拝見した。後から知ったのだが、その日は旧の4月8日で、茶堂前で甘茶の接待を受けた。どうりで参詣者が多いはずだった。そのあと二時間ほど参道の入り口付近で托鉢をさせていただいた。持参していた鉄鉢ならぬ木製の小さな鉢に入りきれないくらいの賽銭を頂戴した。
そして、石手寺を後にして温泉街に入り、道後温泉本館の神の湯に入る。着替えをしているとあちこちからねぎらいの声を掛けられる。石の湯槽につかる。しみじみ道後の湯は肌にいいと感じた。お湯からあがり衣を着ていると、またお接待を頂戴する。草鞋を履いて歩き出すと心持ち身体も軽くなったように思えた。心も軽やかに温泉街を歩いていくと、通りの右側に山頭火が晩年を過ごした一草庵があった。ぐるりと庵の周りを回ってみる。小さな家だが、管理が行き届いていて、窓から位牌や使われていた笠、鉄鉢などが見えるように並べられていた。
一草庵を出て、すぐに歩き出す。国道へ出て、また左に続く遍路道を入る。次の札所52番は太山寺だが、道の途中先に53番円明寺に札を打つ。もとは和気西山の海岸に位置し、七堂伽藍を備えた大伽藍だったという。戦国時代兵火に焼かれ江戸初期に須賀重久によって現在地に再建を果たした。本堂の厨子に貼られた銅板の収め札が有名である。慶安3年(1650)江戸で材木商として巨万の富を築いた樋口平太夫家次翁が奉納したもので、家次翁は京都の五智山蓮華寺を再興したことでも知られている。
余談ではあるが、この蓮華寺とは、江戸時代の学僧・曇寂(1674-1742)が住持した寺であり、曇寂は備後出身。草戸明王院で出家し、京都五智山に宗学を学び住持となり、明王院をも兼務した。弟子に備中寶島寺に晋住する梵学の大家で寛政の三書僧と言われる寂厳がある。なお、曇寂は経疏・事相に亘る沢山の著作を残しているが、備後國分寺には明王院現住曇寂書の「備後國々分寺鐘銘併序」が伝えられている。
夕刻を迎えていたので本尊阿弥陀如来を拝して、急ぎ太山寺に歩く。山門をくぐったのに、延々と参道が続く。坂道にさしかかり、民家も軒を連ねる道を進むとやっと右手に寺務所が見えた。お参り前なのに恐縮するが暗くなりかかっていたので、この日は寺務所手前の通夜堂にお世話になることにした。
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土産物や昔懐かしい玩具類を置いた店など楽しい仲見世を通り過ぎると、大きな仁王さんの立つ国宝の門が姿を現す。お遍路さんや観光で参る人も多く、また地元信者さんも混じって人が行き交う中、正面の本堂に到達する。鰐口を勢いよく叩く参詣者の横で理趣経を唱える。落ち着かない気持ちを抑えつけるように先を急ぐ。そんな姿を見ている人もあるのか、袖の中に手が入りお接待を何人かから頂戴する。お礼も言えず、ただ会釈する。
そこから右手奥に進み、大師堂を参ってから、ビルマの仏像を祀ったパゴダへ。その途中坂道を降りるところに「雲照律師供養塔」と陰刻された大きな石碑があった。明治の傑僧・釈雲照律師(1827-1909)はここ石手寺において松山十善支会を催されていた。十善会とは、江戸時代の高僧慈雲尊者(1718-1804)が十善の教えは「人となる道」であると説かれ、その教えを継承する雲照律師が近代の世で十善を広めんがために、当初久邇宮殿下を上首と仰ぎ、通仏教で国民道徳の復興を目的に設立された一つの道徳的教会組織である。この碑は賑々しく沢山の稚児行列をもって催行された雲照律師三回忌法要の折に建立されたものであった。
それからその日特別に、庫裏の前に陳列されていたので、衛門三郎の名の入った石も拝見した。後から知ったのだが、その日は旧の4月8日で、茶堂前で甘茶の接待を受けた。どうりで参詣者が多いはずだった。そのあと二時間ほど参道の入り口付近で托鉢をさせていただいた。持参していた鉄鉢ならぬ木製の小さな鉢に入りきれないくらいの賽銭を頂戴した。
そして、石手寺を後にして温泉街に入り、道後温泉本館の神の湯に入る。着替えをしているとあちこちからねぎらいの声を掛けられる。石の湯槽につかる。しみじみ道後の湯は肌にいいと感じた。お湯からあがり衣を着ていると、またお接待を頂戴する。草鞋を履いて歩き出すと心持ち身体も軽くなったように思えた。心も軽やかに温泉街を歩いていくと、通りの右側に山頭火が晩年を過ごした一草庵があった。ぐるりと庵の周りを回ってみる。小さな家だが、管理が行き届いていて、窓から位牌や使われていた笠、鉄鉢などが見えるように並べられていた。
一草庵を出て、すぐに歩き出す。国道へ出て、また左に続く遍路道を入る。次の札所52番は太山寺だが、道の途中先に53番円明寺に札を打つ。もとは和気西山の海岸に位置し、七堂伽藍を備えた大伽藍だったという。戦国時代兵火に焼かれ江戸初期に須賀重久によって現在地に再建を果たした。本堂の厨子に貼られた銅板の収め札が有名である。慶安3年(1650)江戸で材木商として巨万の富を築いた樋口平太夫家次翁が奉納したもので、家次翁は京都の五智山蓮華寺を再興したことでも知られている。
余談ではあるが、この蓮華寺とは、江戸時代の学僧・曇寂(1674-1742)が住持した寺であり、曇寂は備後出身。草戸明王院で出家し、京都五智山に宗学を学び住持となり、明王院をも兼務した。弟子に備中寶島寺に晋住する梵学の大家で寛政の三書僧と言われる寂厳がある。なお、曇寂は経疏・事相に亘る沢山の著作を残しているが、備後國分寺には明王院現住曇寂書の「備後國々分寺鐘銘併序」が伝えられている。
夕刻を迎えていたので本尊阿弥陀如来を拝して、急ぎ太山寺に歩く。山門をくぐったのに、延々と参道が続く。坂道にさしかかり、民家も軒を連ねる道を進むとやっと右手に寺務所が見えた。お参り前なのに恐縮するが暗くなりかかっていたので、この日は寺務所手前の通夜堂にお世話になることにした。
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やはり,この人はまったく何もわかっていないという事があらためて了解されました。と同時に,先の民主党の代表戦で彼を支持した[205名]の国会議員も彼同様“政治”音痴です。
お大師様も嘆いておいででしょう。彼らには即刻議員辞職して欲しいです。お大師様またお遍路,そして四国の人々,さらには日本国民に対する冒涜です。彼が向かうべきは四国でなく,東北です。
石手寺は一度訪れた事があります。子規の「南無大師/石手の寺よ/稲の花」の句が思い出されました。
NHKの司馬遼太郎の『坂の上の雲』を見ながら貴僧の『遍路行記』を思い出し,『街道を行く』の伊予路編を探しました。
しかしながら,司馬氏は四国の街道を全て歩かれた訳でなく,単に『空海の風景』執筆のための取材旅行でごく一部を訪れたに過ぎないという事に気付きました。
そういった不完全なものを『街道を行く』シリーズで売り出したのは出版社の編集部の“売らんかな”主義。不見識です。
氏が全国各地例えば自分の郷里に就いてどのような評価をしているのかという強い関心があったのですが,見事肩透かしを喰わされました。このような経験をなさった方は沢山いらっしゃるのではと思われます。
小生は別段司馬氏のファンでもなかったのですが,これまで自分がなぜ氏の著作に親しまなかったのかという理由が明らかになったように思います。
世間では司馬史観などと称してもてはやしていますが,そんなに大げさなものでなく,単なる“物書き”でしかないのです。読者は氏の風貌とテレビドラマに騙されています。
あらためて,テレビは四六時中見るものではないと思いました。自らを振り返る静かな時間が必要です。
と同時に,大宅壮一の言った“一億総白痴化”という言葉が思い出されました。
別にテレビという新しいメディアに洗脳された結果,戦後の日本人が白痴化した訳でなく,元々考える力がなかったそれに輪がかかっただけの話でしょう。
明治以来の日本の学校教育が“考える”人間を育てるためのものでなかったという当然の結果です。
学校教育の中でメディア・リテラシーについて教えていないのは,大きな問題だと思われます。
この『遍路行記』,若き貴僧と二人,まさに同行二人でお遍路をさせていただいている気分です。岡山が本籍の菅氏にも紹介したいです。
次回を楽しみにしております。
四国はいつでも誰でも受け入れてくれる、懐の広いところです。菅氏はそこで何を思い、これからの糧にされるのか。
気楽な遍路旅と言えばそれまでですが、その間になした過ち、なすべき事をしなかったことの懺悔行かもしれませんし、一日も早く日本がまともな状態に復帰する祈願かもしれません。
昔は為政者はとても信心深かったものです。自ら出家し修行し教えを真摯に学ぶ人も多くありました。皇室の方々も、貴族も、武士たちも、学者も。そして庶民も。
拝金主義者ばかりで心の教えを顧みることのない人々ばかりがこの国を動かしています。一人くらい首相経験者がお遍路するのも良いのではないかと私は思っています。