今回、大法輪の特集記事執筆の依頼を受けて、『般若心経』について改めて深く勉強する機会を得た。そして、夜寝静まってから、突然心経の深秘かと思われるような内容が頭にひらめき、夜中に起きだして書き取ったこともあった。
心経全体が、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼(真言)だと解釈すると、一字一句解説するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのではないか。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、つまり最終的な悟りに至るために、完璧に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観自在菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないか、などということが頭に浮かんできたりもした。
今心経を受持し、読誦し、また写経する私たちにとって大切なことは、この心経の呪術的とも言える功徳とは何かと考えるべきでなのではないかと思う。読誦し書写する私たち自身がその心経が教えられている意味内容から救われ、また多くの人たちが救われて、はじめてその功徳、力があると言えるのではないか。
心経が、私たちが今を生きる大切なことを教えてくれていてこそ大きな力になる。だからこそ今誰もが求めている、今をいかに受け入れ生きるべきか、それをこそ心経は説いていると解釈してはいかがかと思うのである。
「毎日マントラ(真言)を唱えたり、諸尊を観想したりしても、それだけで根本的な無知に対処することは出来ない」(『ダライラマ般若心経入門』春秋社刊より)このように、チベット仏教の最高指導者であるダライラマ法王もアメリカ各地での講演で述べておられる。
周りのものを眺めるとき、それらを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という物事の真のありようで、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのだと言われる。
庭先の雑草も、何年前の種か分からずとも、種がそこに風で飛ばされ存在する原因があり、土壌と気温と湿度の条件が調えば発芽し、私たちを悩ませる。そして、その場所が庭先ではなく、家の裏なら何とも思わないのかもしれない。
そのような他のものによる原因と条件によって存在する。そのものだけで生まれ存在しているのでなく、すべて他に依存しあっている。そのようなあり方を空という。
そんなことはあたりまえのことだと思われるかもしれない。しかし、自分も空なのだと言われて、それがどんなことか頭で分かっても、なかなか本当に、そう思いきれるものではない。たとえば、自分や家族が大病と診断されたとき、自分の家や財産が津波に流されたとき、なんの動揺もせずに他人事で居られるだろうか。
すべてのものを空として見切る。深い瞑想状態の中で本当に空としてみられるようになると、すべてのものに対する価値、こだわり、レッテル、好悪など見えてこないのだという。
こうした空なるものの見方を理解するためにはその基礎となるお釈迦様の教説も必要であろう。心経に網羅された段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。そして禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。
お釈迦様の根本教説について少し見てみよう。五蘊は、私とは何であるか、それは心と体という形あるものとがあわさったものだということだろう。
十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。
十二因縁は、六道の中に輪廻を繰り返し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。
四聖諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。
そして心経では、観自在菩薩のように、すべてのものが空であると、究極のもののあり方を既に直接的に体験している心には、それらのことはあてはまらないと述べるに過ぎない。
それなのに、般若心経に関する通俗的な解説には必ずといって、このお釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨し、単に真言を唱えるだけでよいとする説き方が横行した。そして、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまった。それは余りにも乱暴な説き方であったと言えよう。
こうして心経はお釈迦様の教説を否定し、大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為に日本仏教として、仏教の基本的な教えが説けなくなってしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言えよう。
何度も繰り返すようではあるが、心経は観自在菩薩の境地を開陳したものであり、凡夫である我々は、まずは、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び瞑想して、そうして空を体得しつつ、悟りを人生の最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力する必要がある。
そして、心経はそこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し、督励した教えなのであろう。
私たちを取り巻く環境は、過酷である。沢山の苦しみ、困難、災難、災害多い人生ではあるけれども、何かあったとき、いやすべては空なのだ、こうあるべくしてあったのだ、家族、家、財産は死ぬるときもってはいけない。悟りへの前進こそ来世への土産なのである。つまり本当に求めるべきものは悟りなのだと言い切り、それをこそ求めて生きよ、と強く私たちを押し出してくれるのが、この心経なのではないかと思うのである。
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心経全体が、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼(真言)だと解釈すると、一字一句解説するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのではないか。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、つまり最終的な悟りに至るために、完璧に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観自在菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないか、などということが頭に浮かんできたりもした。
今心経を受持し、読誦し、また写経する私たちにとって大切なことは、この心経の呪術的とも言える功徳とは何かと考えるべきでなのではないかと思う。読誦し書写する私たち自身がその心経が教えられている意味内容から救われ、また多くの人たちが救われて、はじめてその功徳、力があると言えるのではないか。
心経が、私たちが今を生きる大切なことを教えてくれていてこそ大きな力になる。だからこそ今誰もが求めている、今をいかに受け入れ生きるべきか、それをこそ心経は説いていると解釈してはいかがかと思うのである。
「毎日マントラ(真言)を唱えたり、諸尊を観想したりしても、それだけで根本的な無知に対処することは出来ない」(『ダライラマ般若心経入門』春秋社刊より)このように、チベット仏教の最高指導者であるダライラマ法王もアメリカ各地での講演で述べておられる。
周りのものを眺めるとき、それらを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という物事の真のありようで、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのだと言われる。
庭先の雑草も、何年前の種か分からずとも、種がそこに風で飛ばされ存在する原因があり、土壌と気温と湿度の条件が調えば発芽し、私たちを悩ませる。そして、その場所が庭先ではなく、家の裏なら何とも思わないのかもしれない。
そのような他のものによる原因と条件によって存在する。そのものだけで生まれ存在しているのでなく、すべて他に依存しあっている。そのようなあり方を空という。
そんなことはあたりまえのことだと思われるかもしれない。しかし、自分も空なのだと言われて、それがどんなことか頭で分かっても、なかなか本当に、そう思いきれるものではない。たとえば、自分や家族が大病と診断されたとき、自分の家や財産が津波に流されたとき、なんの動揺もせずに他人事で居られるだろうか。
すべてのものを空として見切る。深い瞑想状態の中で本当に空としてみられるようになると、すべてのものに対する価値、こだわり、レッテル、好悪など見えてこないのだという。
こうした空なるものの見方を理解するためにはその基礎となるお釈迦様の教説も必要であろう。心経に網羅された段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。そして禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。
お釈迦様の根本教説について少し見てみよう。五蘊は、私とは何であるか、それは心と体という形あるものとがあわさったものだということだろう。
十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。
十二因縁は、六道の中に輪廻を繰り返し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。
四聖諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。
そして心経では、観自在菩薩のように、すべてのものが空であると、究極のもののあり方を既に直接的に体験している心には、それらのことはあてはまらないと述べるに過ぎない。
それなのに、般若心経に関する通俗的な解説には必ずといって、このお釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨し、単に真言を唱えるだけでよいとする説き方が横行した。そして、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまった。それは余りにも乱暴な説き方であったと言えよう。
こうして心経はお釈迦様の教説を否定し、大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為に日本仏教として、仏教の基本的な教えが説けなくなってしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言えよう。
何度も繰り返すようではあるが、心経は観自在菩薩の境地を開陳したものであり、凡夫である我々は、まずは、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び瞑想して、そうして空を体得しつつ、悟りを人生の最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力する必要がある。
そして、心経はそこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し、督励した教えなのであろう。
私たちを取り巻く環境は、過酷である。沢山の苦しみ、困難、災難、災害多い人生ではあるけれども、何かあったとき、いやすべては空なのだ、こうあるべくしてあったのだ、家族、家、財産は死ぬるときもってはいけない。悟りへの前進こそ来世への土産なのである。つまり本当に求めるべきものは悟りなのだと言い切り、それをこそ求めて生きよ、と強く私たちを押し出してくれるのが、この心経なのではないかと思うのである。
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真言僧の中には、『密教は顕教より勝り、釈迦など、草履の鼻緒にも足らぬ』とトンチンカンな事を言っていた人が過去に居た様です。今でも真言僧の中には、『顕教は密教より劣る』と考えている人が居たりする。
私は同じ真言信者として凄く情けなく、悲しく思います。確かに密教は優れている。けども、お大師様が伝えたいのは、顕教を蔑ろにしてまで密教を優位に立たせるものではないと私は思います。あくまでも、顕教という土台をしっかり築いた上で密教を最上位に立たせるという思想ではなかったかと思います。顕教をしっかりと学ばずして、密教はあり得ません。それは、土台の無い『砂上の楼閣』の様なものと私は心得ます。
釈尊無しに仏教はあり得ませんし、釈尊無しの密教では、真言宗は成り立ちません。お大師様が何故あれだけ密教の体系を最高にまで高めたかと言えば、根底に釈尊の教えがあったから。釈尊の教えという、強固な土台があったからこそ、最高の密教が出来たと言っても過言ではないと思います。何事も、基礎が無ければ、応用は出来ない。お大師様はそこを教えたかったんだと私は感じました。
釈尊の教えを無くして真言密教は語れないものだと私は思います。
般若心経は、一部の宗派を除いては、全ての宗派で唱えられるお経。
宗派を越えて唱えられる事、それは、釈尊の教えであると同時に、密教の精神の現れではないかと思います。
般若心経秘鍵には、般若心経が、諸教を孕むお経である事をしっかりと説いています。
密教は優れた教えですが、それは釈尊の教えに裏打ちされているからこそ。だから、私は『密優顕劣』という言葉に違和感を感じずには居られないのです。
土台を蔑ろにされている様に感じて嫌なのです。その言葉は、お大師様の思想から遠ざかるものです。
私はちゃんとお大師様の思いを伝える人が増える事を願ってやみません。
密教を学ばせる前にきちんと仏教を教える。それをマスターせずして与えられることはない。戒定慧の三学の基にその先を教えていく。
三学なくしてもともと密教もない。なしえない。心経を説くことは出来てもそれを実現することすらおぼつかない。
何事も同じだとは思いますが。
ですが、だからこそ昔では想像できないほどの広がりと探求も出来るのかもしれません。
これと思ったことを一生続けるということはとても難しいことです。
これと思うものに出会えた人は幸せでしょう。