正月、皆様はどこぞやに初詣に出られたであろうか。この辺りだと、広島県福山市・草戸稲荷、岡山の最上稲荷に出かけた人が多いという。草戸稲荷の隣には明王院という国宝の金堂に五重塔のある福山きっての名刹があるのに、こちらに参る人はごく一部の篤信家に限られているらしい。なぜか福山の人たちはお寺があまり好きではないようだ。
ところで、私はこの地に来る前には、東京の下町、深川七福神の一つ、冬木弁天堂にいた。正月ともなれば、大勢の人たちが「深川七福神」と隷書で書かれた色紙を持って、それぞれのお姿の朱印をもらいにお参りに来られた。冬木弁天堂は当時は、正月ともなると地元の富岡八幡の神輿総代会の方々や下部組織で睦み会の人たちが大勢お手伝いに来られていた。年末には大掃除をして正月の飾り付けをして、大晦日の晩から泊まり込みで皆さんお堂の番をする。
晩の11時頃になるとそろそろと初詣のお参りの方たちが来出す。弁天様なのに、一つ前に富岡八幡の福禄寿を拝んでくる人が多いので、つい拍掌して手を合わす。そうすると必ず、「ここはお寺だから手を叩かなくていいの」と言って教えるおじいさんもいた。色紙に朱印をもらうと百円。その上に納経帳に書き込みを頼まれる方もあり、そのときには他で用事をしていても、私が呼ばれて書いてあげていた。
昼間お参りの人で狭い境内が一杯となり、お堂の中にも人で一杯にるようなときには、納経帳が、十数冊も積まれてしまうこともあった。色紙の他には焼き物の七福神の顔を七つ集めて笹に取り付けていく縁起物や弁天様の巳年ごとにお衣替えをするその衣入りの肌守りも人気があった。弁天堂のお堂の中には、現在の新しいお堂を再建したときの寄付額が掲示されている。ここ弁天堂の信者団体「開運講」の講員の芳名録だ。その名前を見ていると町の名士から始まり、門前仲町の御茶屋さんの女将さん、芸者さん、富岡八幡の神輿総代、木場の旦那衆の名前がずらりと江戸文字で刻まれていた。
今では数えるほどしか門仲には芸者さんもいないが、一昔前には結構たくさんの方たちがおり、またその頃でも浜町やらからお参りになる芸者さんがあったので、少し前にはかなり方々から芸の神様ということで沢山の芸者さんや幇間(男芸者)さんがお参りにこられていたようだ。
弁天様は、もとはインドの神サラスワティといい、河の神であり、河のせせらぎが音として美しいので音楽の神ともなり、また作物を実らせることから五穀豊穣の神、そこから財宝の神ともなった。だから弁財天。だが元は辯才天と書いたもののようだ。インドの神で仏教とともに日本に入ったものなのに、なぜか明治の廃仏毀釈の折には日本の神のように扱われ神社となっているところもある。
日本三弁天の筆頭・厳島神社もその一つで、そもそもの本尊様は大願寺に今では祀られている。琵琶湖に浮かぶ竹生島弁天も宝厳寺に祀られている。この後に書く江ノ島弁天は神社に祀られ、お寺は廃寺になっている。
冬木弁天堂はもともと江戸時代の材木商冬木屋の邸内にあったお堂で、冬木屋は紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門と並び称される大商人だった。ただ彼らが派手に大尽遊びにうつつを抜かしているとき、冬木家では茶の湯を嗜み、尾形光琳のパトロンとして、また後には乾山をも支援した。光琳が筆をとった国宝の冬木小袖は冬木家の奥方のために描かれたもので現在国立博物館に収蔵されている。
この冬木屋の弁天様は、裸弁天で、もともとは江ノ島の弁財天の座像を模刻したものだったと言われる。いまも裸の上に白衣着物をお召しになっているが、残念ながら現在の御像は琵琶を持つ立像である。この正月の七日間と正五九、つまり一月五月九月の縁日・巳の日に行われる大祭の時だけご開帳されていた。
大祭と言えば、前日には主だった信者さんの家にパック詰めの赤飯が配られ、いやが上にも皆さん御供えを持ってこられていた。当日は、沢山の近隣や長年の信者さんたちがお堂一杯に詰めかけて、沢山の御神酒が上がる中、萬徳院御住職がお越しになり息災護摩が焚かれ、読経。講元の、当時は渡辺さんという元建具師の方が講元をされていて、老齢をおしてお申し込みの家内安全祈願などの護摩札を火にあぶっていた。
終わると、賑やかに会食が始まる。下町の歯切れのよい江戸言葉が飛び交う中、暗くなるまで宴会は続いた。弁天様はお使いが蛇ということもあって、必ず卵の御供えが上がる。大祭にも沢山のゆで卵を用意して、お供物としてお持ち帰りいただいていた。
もちろん何もない時期にも毎朝お参りにられる人もあるし、お昼には狭い境内に置かれた長椅子に、迎えにあるビルからOLたちがお弁当を持ってきて食べていた。毎日お参りに来られるおばあさんがあり、あるとき、毎日何を拝んでいるのと尋ねたことがあった。すると、「毎日?そうね、お嫁さんと今日も一日平穏無事でありますようにって拝むのよ」と教えてくれた。
で、御利益はどうですかと聞くと、「まあ、ぼちぼちね」と。東京の下町で狭い中に二世帯が暮らすのだから、それはいろいろあるだろう。それからしばらくして、巳の日があり、午後護摩を焚いた後、ちょうどお参りになったそのおばあさんに、「最近はどうですか」と水を向けると。
「それがね、この間の突然の大雨の時、あちらの出ていた洗濯物を片付けてあげたのよ、そしたら、随分丁寧にお礼を言われてね、その後、私も気をよくして、買い物に出たとき、ちょっとした甘いものを上げたりしてたら、今までと違う雰囲気になってさ。ついこの間お二人も一緒にどうですかって、外に食べに行くから来いっていうのよ。どういう風の吹き回しかと思ったわよ。でも、そこはおじいさんと、ハイハイとついて行って、・・・でも、結局お金払わされて帰ってきたわ。」(笑)
「それでもいいじゃないですか、ご飯一緒に食べるのが家族と言いますから、若い人から認められるというのもおかしな話ですけど、近くに感じられるようになっただけでも」そんな話を今でも記憶している。お釈迦様は、在家者への説法の時には施論戒論生天論を語られたという。施論は施し、戒論は戒律を守る規則正しい生活、生天論は、そうすれば死後天界に生まれるということだが、ここでの施論は、施しをするというよりも、拝んだり、お祭りをすることよりも実務的実用的な良いことをしなさいということだろう。そうすればよいことがあると。良いことをしたら必ず結果が返ってくる。善業には善果がともなうということだ。
お参りに来られる人の中には、沢山の卵やミネラルウォーターを御供えして行かれる人たちもあった。もちろん悪くなる前におろしてセッセと頂戴したが、少ない手当の身にはことのほかありがたく思われた。おそらくその後御供えした方にはよいことがあったであろう。
冬木家も自分のためだけでなく将来のある光琳などを支援したからこそ、一代で終わった大店が多かったのに何代にもわたって身代を相続して江戸末期まで存続できた。善因には善果。功徳を積めば必ず良い結果が現れる。因果応報、何事も自業自得の世の中。今年も正月から良いことをするとしよう。
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ところで、私はこの地に来る前には、東京の下町、深川七福神の一つ、冬木弁天堂にいた。正月ともなれば、大勢の人たちが「深川七福神」と隷書で書かれた色紙を持って、それぞれのお姿の朱印をもらいにお参りに来られた。冬木弁天堂は当時は、正月ともなると地元の富岡八幡の神輿総代会の方々や下部組織で睦み会の人たちが大勢お手伝いに来られていた。年末には大掃除をして正月の飾り付けをして、大晦日の晩から泊まり込みで皆さんお堂の番をする。
晩の11時頃になるとそろそろと初詣のお参りの方たちが来出す。弁天様なのに、一つ前に富岡八幡の福禄寿を拝んでくる人が多いので、つい拍掌して手を合わす。そうすると必ず、「ここはお寺だから手を叩かなくていいの」と言って教えるおじいさんもいた。色紙に朱印をもらうと百円。その上に納経帳に書き込みを頼まれる方もあり、そのときには他で用事をしていても、私が呼ばれて書いてあげていた。
昼間お参りの人で狭い境内が一杯となり、お堂の中にも人で一杯にるようなときには、納経帳が、十数冊も積まれてしまうこともあった。色紙の他には焼き物の七福神の顔を七つ集めて笹に取り付けていく縁起物や弁天様の巳年ごとにお衣替えをするその衣入りの肌守りも人気があった。弁天堂のお堂の中には、現在の新しいお堂を再建したときの寄付額が掲示されている。ここ弁天堂の信者団体「開運講」の講員の芳名録だ。その名前を見ていると町の名士から始まり、門前仲町の御茶屋さんの女将さん、芸者さん、富岡八幡の神輿総代、木場の旦那衆の名前がずらりと江戸文字で刻まれていた。
今では数えるほどしか門仲には芸者さんもいないが、一昔前には結構たくさんの方たちがおり、またその頃でも浜町やらからお参りになる芸者さんがあったので、少し前にはかなり方々から芸の神様ということで沢山の芸者さんや幇間(男芸者)さんがお参りにこられていたようだ。
弁天様は、もとはインドの神サラスワティといい、河の神であり、河のせせらぎが音として美しいので音楽の神ともなり、また作物を実らせることから五穀豊穣の神、そこから財宝の神ともなった。だから弁財天。だが元は辯才天と書いたもののようだ。インドの神で仏教とともに日本に入ったものなのに、なぜか明治の廃仏毀釈の折には日本の神のように扱われ神社となっているところもある。
日本三弁天の筆頭・厳島神社もその一つで、そもそもの本尊様は大願寺に今では祀られている。琵琶湖に浮かぶ竹生島弁天も宝厳寺に祀られている。この後に書く江ノ島弁天は神社に祀られ、お寺は廃寺になっている。
冬木弁天堂はもともと江戸時代の材木商冬木屋の邸内にあったお堂で、冬木屋は紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門と並び称される大商人だった。ただ彼らが派手に大尽遊びにうつつを抜かしているとき、冬木家では茶の湯を嗜み、尾形光琳のパトロンとして、また後には乾山をも支援した。光琳が筆をとった国宝の冬木小袖は冬木家の奥方のために描かれたもので現在国立博物館に収蔵されている。
この冬木屋の弁天様は、裸弁天で、もともとは江ノ島の弁財天の座像を模刻したものだったと言われる。いまも裸の上に白衣着物をお召しになっているが、残念ながら現在の御像は琵琶を持つ立像である。この正月の七日間と正五九、つまり一月五月九月の縁日・巳の日に行われる大祭の時だけご開帳されていた。
大祭と言えば、前日には主だった信者さんの家にパック詰めの赤飯が配られ、いやが上にも皆さん御供えを持ってこられていた。当日は、沢山の近隣や長年の信者さんたちがお堂一杯に詰めかけて、沢山の御神酒が上がる中、萬徳院御住職がお越しになり息災護摩が焚かれ、読経。講元の、当時は渡辺さんという元建具師の方が講元をされていて、老齢をおしてお申し込みの家内安全祈願などの護摩札を火にあぶっていた。
終わると、賑やかに会食が始まる。下町の歯切れのよい江戸言葉が飛び交う中、暗くなるまで宴会は続いた。弁天様はお使いが蛇ということもあって、必ず卵の御供えが上がる。大祭にも沢山のゆで卵を用意して、お供物としてお持ち帰りいただいていた。
もちろん何もない時期にも毎朝お参りにられる人もあるし、お昼には狭い境内に置かれた長椅子に、迎えにあるビルからOLたちがお弁当を持ってきて食べていた。毎日お参りに来られるおばあさんがあり、あるとき、毎日何を拝んでいるのと尋ねたことがあった。すると、「毎日?そうね、お嫁さんと今日も一日平穏無事でありますようにって拝むのよ」と教えてくれた。
で、御利益はどうですかと聞くと、「まあ、ぼちぼちね」と。東京の下町で狭い中に二世帯が暮らすのだから、それはいろいろあるだろう。それからしばらくして、巳の日があり、午後護摩を焚いた後、ちょうどお参りになったそのおばあさんに、「最近はどうですか」と水を向けると。
「それがね、この間の突然の大雨の時、あちらの出ていた洗濯物を片付けてあげたのよ、そしたら、随分丁寧にお礼を言われてね、その後、私も気をよくして、買い物に出たとき、ちょっとした甘いものを上げたりしてたら、今までと違う雰囲気になってさ。ついこの間お二人も一緒にどうですかって、外に食べに行くから来いっていうのよ。どういう風の吹き回しかと思ったわよ。でも、そこはおじいさんと、ハイハイとついて行って、・・・でも、結局お金払わされて帰ってきたわ。」(笑)
「それでもいいじゃないですか、ご飯一緒に食べるのが家族と言いますから、若い人から認められるというのもおかしな話ですけど、近くに感じられるようになっただけでも」そんな話を今でも記憶している。お釈迦様は、在家者への説法の時には施論戒論生天論を語られたという。施論は施し、戒論は戒律を守る規則正しい生活、生天論は、そうすれば死後天界に生まれるということだが、ここでの施論は、施しをするというよりも、拝んだり、お祭りをすることよりも実務的実用的な良いことをしなさいということだろう。そうすればよいことがあると。良いことをしたら必ず結果が返ってくる。善業には善果がともなうということだ。
お参りに来られる人の中には、沢山の卵やミネラルウォーターを御供えして行かれる人たちもあった。もちろん悪くなる前におろしてセッセと頂戴したが、少ない手当の身にはことのほかありがたく思われた。おそらくその後御供えした方にはよいことがあったであろう。
冬木家も自分のためだけでなく将来のある光琳などを支援したからこそ、一代で終わった大店が多かったのに何代にもわたって身代を相続して江戸末期まで存続できた。善因には善果。功徳を積めば必ず良い結果が現れる。因果応報、何事も自業自得の世の中。今年も正月から良いことをするとしよう。
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いつも補足して下さってありがとうございます。
http://d.hatena.ne.jp/amantbonus/
ようこそ、お越しでございます。
難しいことはよう書きませんので、この程度のことです。
どうぞご活躍下さい。
本堂で自由に参拝出来るのはいいですね。
私のおりましたときにも、昼間は正面のガラス戸を少し開けておき、自由にお参りしていただくようにしていました。
小さなお堂ですが、地元の人たちの心意気が感じられるいいお堂ですね。
冬木屋という材木商が尾形光琳などのパトロンとして、文化芸術を支えたというのは、今日の大企業が美術館を作ったりすることなどに通じていて、良き伝統の先駆けだったのでしょう。
子供の頃、土鈴を頂きながら八幡宮さんの横の恵比寿さんから友人達とわいわい歩いた思い出がよみがえってきて、懐かしく思った次第です。
井原鉄道からてくてく歩いてお邪魔した国分寺さまもかつての堂宇の後が示されていたりと、またゆっくり歩いてみたいと感じました。お邪魔いたしました。
初めまして、コメントありがとうございます。
また機会ありましたら是非お立ち寄りください。