住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記-18

2009年01月21日 14時09分55秒 | 四国歩き遍路行記
翌朝、6時頃だっただろうか。他の遍路旅の宿泊者たちとともに権現造りの岩本寺本堂のお勤めに参詣する。はるか奥に須弥壇が見えた。たくさんの様々な絵が格天井にはめ込まれている。花や鳥、子供の顔もある。みんな信者さんの作品だろうか。見ているだけで心が和む。

藤井山五智院岩本寺、聖武天皇の勅願で行基菩薩の開創という。もとは福円満寺といったが、弘法大師が立ち寄って修法され藤井寺となり、五体の本尊様を刻んで、新たに五か寺を造られた。しかし、ここも明治になって一時廃寺となった。復興した際に今日のような寺号となり、五体まとめて本尊様としてお祀りしたという。阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩の五体。日本広しといえども、五体もの本尊様がお祀りされているお寺はここだけだ。

食堂で朝食をいただき歩き出す。曇り空。国道に出て、歩道を歩く。途中切り出した材木を横倒しにした木材の搬送所がいくつかあった。そのあたりでカブに乗った奥さんから、「はい」という感じで白い紙に包んだお布施を頂戴する。礼を言い、頭を上げるともう走り出していた。窪川は標高三百メートルあり、畜産と養豚の町として知られている。

ひたすら国道を歩く。アスファルトの道は足が重い。今日はどこでお昼が食べれるのかと考え出したら、通り沿いにたくさんの車が止まった食堂が眼に入った。これは食べなさいということかと思い、中に入る。丼ものを注文し、一人カウンターで味わいつつ食べ、レジに向かった。どうも途中から見ていたのだろう、一人の男性がお金を払い終わると話しかけてきた。

「どうね、車に乗らんかね」とでも言われたのであったか。それが、今でも連絡を取り合う高知市内に住むS氏との出会いであった。事業所向けの清掃会社を当時されていたので、たくさんの清掃用具を載せたワゴン車の助手席に同乗した。「あなたはただ食事しとったから声をかけたんよ」と言われた言葉を今も憶えている。

普通の遍路さんは、食事をしながら何か物思いにとらわれているのだとか。思い悩むことがあるのか、いろいろなものを背負って苦しいのか。そんな風がまったく私にはなかったから、声が掛けやすかったのだ、とのことであった。途中、中村市の街中で仕事の打ち合わせとかで車の中で待たされた。すると腰掛けの脇に見たような本があった。インドの聖人・クリシュナムルティの本だった。

「自我の終焉―絶対自由への道」篠崎書林刊。かつて私も食い入るように読みふけった本に、こんなところで出会うとは。今でもその本を所持しているが、いくつも鉛筆の線が入っている。クリシュナムルティは、二十世紀初頭、神智学協会の次世代の宗教的指導者と指名されて英才教育をされた人で、三十才頃の日記には、「私は自分自身から離れてしまいました。私はあらゆるものの中にいるのです。と言うよりもあらゆるものが私の中にあるのです。無生物も生物も、山や虫や呼吸しているすべてのものが私の中にあるのです・・・」とある。

Sさんが車に戻ると早速その話を始めた。Sさんも驚き、彼の話や真理について語り、意気投合した。気がつくと遍路中であることも忘れ、Sさんの土佐清水市にある実家にお邪魔していた。鰹漁師のお父さんはごっつい手をした眼のきれいな方で、突然の遍路坊さんの登場にも顔色一つ変えずに温かく迎えてくれた。

獲れたての鰹のたたきをご馳走になり、くつろいだ。夜もまた語り合ったと記憶している。翌朝は朝食の後、仏壇に手を合わせ、一宿一飯のお礼に心経一巻。唱え終わると、目を閉じて聞いていたSさんは、「お経をこれまであまり心して聞いたことはなかったが、お経の波動には真理が生きてるが」と言っていた。

三十八番金剛福寺まで送って下さる予定が、途中ホテルの喫茶店に案内され、もう少し話をしようで、ということになり、そこでまた二時間。よくそこまで話すことがあったと今では思えるけれども、Sさんの亡くなったお兄さんの話やお互いの歩みなど話し始めたら尽きない話を二人でやりあったのであった。

Sさんは人の放つ光(オーラ)が見える方で、その時の私からは透明に近い白い光が見えると言われていた。ようやく、金剛福寺門前まで送ってくれて、お別れした。Sさんとは、その後も高知の寺に坐禅に行った折にお会いしたり、翌年の遍路の際には高知市内のご自宅に泊めていただき、ご家族と川遊びもさせていただいた。今は産業カウンセラーとして活躍中である。

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11 コメント

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ejnewsさま (全雄)
2009-02-11 07:30:18
いろいろとお心遣いありがとうございました。

おっしゃるとおりですね。薬害の事件でも、あれだけの人たちに悲惨な思いをさせて死に至らしめているのに、企業は何のおとがめもないに等しい。それなのに、個人になると死刑ばかりが目につきます。

凶悪犯と決めつけられると当たり前であるかのような雰囲気さえあるこの頃です。そこに至らしめた社会の責任、国のあり方などは何も反省されない。問題を起こした個人がすべて悪いと決めつけられる。

考えなくてはいけないことですね。いつもありがとうございます。
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Unknown (ejnews)
2009-02-02 09:16:57
ファンさん、でしゃばってすみません。この“死刑”の事については前に御住職から『質問が在ればなんでもどうぞ』と言う事だったのでので質問させて頂いたのですが、私のコメントを読んで頂ければ理解して頂けると思いますが、人間のする事は誤りが多く裁判と言えども人間の行為なので誤りも多いと思います。終身刑なら間違いが起こっても修正の可能性が残されているのですが、死刑は取り返しがつかないので進歩した社会の刑法に含まれるべきではないと思います。しかも刑法はどの国家でも不公平に作られていて、例えば企業が明らかに犯罪である公害、不完全な製品により何千何万人を殺害しても死刑になる経営者、株主はいないのです。特に株主は利益だけを要求し責任は取らない様に法律で保護されているのです。それに比べて支配階級にコネクションの無い一人の個人が何かの理由で殺人をすると今の日米では死刑になる確率が非常に高いのです。
 其れと、御住職のファンさんに対するコメントは手短ですが冷たいとは感じられないのですが?
仏教は感情に頼らない様に教えている宗教哲学でもあると思うなですが?若し冷たく受け取られたとしても『冷たいコメントありがとうございます。』よりも別の仏教的反応の仕方が在ると思います。ここでの我々の目的は意見の交換ですから仏教的な態度を守りましょう。私も完全ではない人間ですのでその様に心がけています。若しファンさんが“冷たい”を私の知っている以外の日本語の使い方をしていたなら私の誤解ですのでお許しください。長い間日本を離れていると日本語も変化しているので分からない事もあるのです。
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Unknown (ファン)
2009-01-31 16:26:48
冷たいコメントありがとうございます。質問が分からないとの事ですが答えの出ない案件なのであなたの意見が聞いてみたかっただけです。答えは求めていますん。死刑に関しては実際に執行される拘置所のそばに住んでいる事も執行のニュースがあると特に考えられます。自分のなかでは賛否両方です。
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ファンさんへ (全雄)
2009-01-30 07:48:41
何度もコメント下さり、恐縮です。大変申し訳ありませんが、お尋ねの趣旨がよく分かりません。

死刑に関するご意見がおありでしたら、はっきりとあなたの意見をお書きになった上で、何をお聞きになりたいのか明解なご質問をお書き下さい。宜しくお願いいたします。
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Unknown (ファン)
2009-01-29 15:36:22
全雄様
いつも分かりやすいコメントで感心してたのですが今回のコメントはいかがなものでしょうか。いろんな意見や立場があって然るべきじゃないですか。被害者や加害者の立場になって考えるのはいけない事でしょうか。仮定の話では云々とありますがすべて実体験の上での話ができますでしょうか。また交通事故の例をだされていますがこんな方が果たしてどれだけいらっしゃるでしょうか。稀有な例を出されても感心はしますが納得は出来ません。
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ファンさんへ (全雄)
2009-01-29 08:05:38
ようこそお越し下さいました。コメント下さりありがとうございます。死刑についてこの場で否定肯定を言うことにどれだけの意味があるのでしょうか。死刑は殺人に値するものだということは書いたとおりですから、殺生を犯すことになると思っております。

被害者になった場合とありますが、仮定でものを申し上げるのもいかがなものでしょうか。昔お会いした方は、横断歩道ではないところで道を渡ろうとしていた奥様を、出会い頭に猛スピードで走ってきたオートバイにひかれる事故で失いました。

オートバイを運転していたのは、医学生で、その人は大学を辞めて働き慰謝料を払い償いたいと申し出ましたが、その方は、大学を出て立派な医者になり多くの人を救ってこそ、奥様が救われると考え、何の慰謝料も請求しなかったと聞きました。

その学生は、その後命日やお盆には必ず仏壇に手を合わせに毎年来ているのだとうかがいました。死刑に該当する事件ではありませんが、同じ被害者でも、考え方は様々なのではないかと思います。
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結局 (ファン)
2009-01-29 01:20:01
はじめまして。貴プログのファンであります。このプログの内容とあまり関係のない死刑についてのコメントが入ってますが結局肯定なのか否定なのか分かりません。否定も肯定もしないのが正しいのかもしれませんが事件の被害者になったとすれば同じことが言えるのでしょうか。
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Unknown (全雄)
2009-01-26 16:38:15
ejnews様

そうですか。アメリカでの実例を様々ご覧になられると切実に感じられるということですね。当然日本人も白人ではない。三浦和義氏も白人ではなかった。

インドでも、カーストは否定されてはいますが、いまだに、入学就職の願書などには、ジャーティという欄があって、生まれを書くことになっています。インドでは逆差別もあって、指定カーストは、優遇枠があったりします。しかし、インドでも、彼らの命は未だにぞんざいに扱われているように感じます。

日本でも、原発の本当に危ない作業は、被差別民によって行われてきたと聞きます。ですから、当然被爆し病気になって亡くなっていく。労災やら慰謝料を請求して裁判してもとても厳しい戦いになるようです。

死刑は当然、殺生ですから、大変重い罪です。地獄に堕ちる。墜ちなくて人間に生まれても短命になる。そう経典にはあります。その人が死刑に関わり、殺生の業を背負うのは、その人の認識には関係ありません。

意識するしないにかかわらず、悪業を犯したならば、その人にきちんと報いが返ってくるのだと思います。悪いことをしたという意識無くとも、陪審員として、死刑に意思を表明し、死刑に処されたとしたならば、それ相応の報いが必ずあるはずです。

それは大統領であろうが、首相であろうが、地位には一切関係がない。とてつもない強大な権力にあればあるほど、かえって、罪が重い。厳然たる業がすべて事細かく将来に必ず報いとなってやってくるのです。因果応報、自業自得です。

だからこそ、お釈迦様は世の中のことをすべて理解された上で、静かに見守られるだけだったのではないかと私は思います。
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Unknown (ejnews)
2009-01-24 20:55:33
早速お答え頂ありがとうございます。ロスはここ1週間暖かい日が続いています。数日日中25℃以上の日が続いていましたが昨日から雨が降り始め(ロスは冬が雨季で冬に降らないと其の1年水不足になるのです。最近は山の頂に積もる雪もメッキリ少なくなり水が不足がちの状態が何年も続いています。)気温は日中14~15℃程に下がっています。
 処で、死刑は社会の一つの大きな罪であるとアメリカに着てから気がついたのです。理由は殺人によって正義は行われない事も勿論ですが、アメリカの裁判では陪審員で現在まで陪審員の人種によって判決が決定されるケースが非常に多く有色人種の場合有罪になるケースが非常に多いのです。裁判に参加する陪審員の人種構成も政治的な意図で選ばれた例も多いそうです。陪審員は今まで白人が圧倒的に多いようで有色人種は、特に黒人は有罪になる確立が非常に高いのです。警察も証拠や承認をでっち上げるケースも多く刑務所に入所している黒人は人口の比率で考えると異常に多いのです。多くの黒人が無罪なのに刑務所で何十年も月日を無駄に過ごし、無罪であるにも拘らず死刑になる人が多いのです。ある一人の人間の命を取る事に大勢の人間が加担していて、個々の人間は国の体制の中で参加しているのですから深く考えないで正義だと思えるのでしょうか?間違って無罪の人間を殺してしまっても裁判を通し死刑と言う法律で、自分の手で直接殺してないのですから罪悪感を感じないのでしょうか?『私が決めた事ではないから』とか『皆がやっている事だから』とか『私は国家に対する義務を果たしているだけだ』とか考えているのでしょうか?一度殺してしまうと後で『ごめん!間違いだった!』と謝罪する機会はなくなってしまうのです............................。
 私は『皆でやれば怖くない!』が悪い方向に作用しているのが死刑問題だと思うのです。仏教でも殺生は禁じられていると思うのです。この『皆でやれば怖くない!』精神が環境破壊、汚染の原因でもあると思います。
 日本に居た頃、あるアメリカ人がビザが切れているのに気がつかず、暫くの間不法滞在になっていました。警察から出頭命令が届き、私は其のアメリカ人に同行し警察の指定するオフィスに行きました。取調べ担当者は英語が出来ず私も当時は殆ど英語は解らなかったのですが取調べの通訳をしていたのですが、其処にやっと通訳担当の上級警察官が着き、私は部屋に居る必要がなくなったので部屋を出る時『一寸とした間違いで別に犯罪を犯す積もりはなかったので宜しくお願いします。』と其の上級警察官に言ったのです。彼は物凄く怒り、声を荒げて『有罪か無罪かは俺達の決める事だ!お前がツベコベ言う事ではない!』と怒鳴ったのです。私は驚いて『警察は有罪無罪の決定権はない!そんな事も知らないのか!しかも私達の税金があなた方の給料になっていると言う事を知らないのか!』と言い返そうと彼を睨み付けた時、問題のアメリカ人が『ここで問題を大きくしないでくれ!』と頼むので何も言えず終わってしまいましたが、警察はどの国でも同じ事をするようです。彼等が何か変な力を持っていると思っているようです。
 長くなってしまいましたが、この様な事から犯罪は取り締まらなければならないのですが、死刑は一度死刑にしてしまうとそれで最後ですから、社会の制度として死刑制度は違法ではないのかと言う私の“疑問”でした。
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弱さ (全雄)
2009-01-24 14:36:20
ejnewsさま。今朝は随分冷えました。福山の市内から三十分も北に入っていますから、今朝はマイナス4度くらいでしたか。そちらはいかがですか。

高知のご出身とは。私は縁がありまして何度も行く機会がありました。この記事に書いてありますように、遍路したときと、その前から市内井口町にある護国寺さんに座禅に二度伺っています。

ところで、精神的な弱さについてですが、結局無知ということになるのでしょうが。私も実感しています。頭で分かることと本当に分かることの違いでしょうか。だから仏教では、修行が必要になるのでしょう。

体験が必要だということですが。先日、お酒を飲まない方がいて、体質的に飲めないのかと聞きましたら、そうではなくて、19歳の時に飲み過ぎて身体をこわし、かなりの重症になって、それ以来飲まないのだということでした。

そういう体験からくる意志の力というものがすべてにわたって自分を律することのできる体験こそが悟りの体験ということなのでしょう。

死刑については、お釈迦様は何もおっしゃられていないのではないかと思います。その時代には当たり前のことだったでしょうから。ですが、アングリマーラなど人殺しをたくさんしたような人でも、出家をさせて悟らせています。

基本的には、その人の業が分かられていたでしょうから、なぜそのような死刑にならねばならなかったのかも分かる。死刑にした側もそのあとの来世ではどうなるかも分かられているので、何も言われないということだったと思います。

お釈迦様のような人でなければ人を裁くなどということができるものではないということだけははっきり言えるのではないでしょうか。しかし、その制度によって、口封じをするということが歴史的にも為されてきたのが現実でしょう。

死刑しか極悪人を裁けないというのも、お釈迦様のような智慧に欠ける私たち人間の業と言えるのかもしれません。
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Unknown (ejnews)
2009-01-23 19:26:12
御元気ですか?私も高知出身ですが、清水は余りにも遠いので行った事がないのです。
処で“疑問”について未だ考えています。一番の疑問は勿論“私は如何して精神的に弱いのだろう?”ですが、この問題は人間であれば皆悩んでいる問題だと思います。
アッ!今思いつきました!死刑問題です。先進諸国間では死刑は残酷でしかも警察、司法も人間の行為なので完全とは言えず、間違って無罪の人間を死刑にする可能性も大きい訳で人道的ではないと考えられているのです。先進諸国で死刑を執行しているのは日本とアメリカだけだと思うのですが、死刑が許される限り私は日本は野蛮な国家だと思うのです。これが私の疑問です。
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