
平成21年1月17日神辺町観光協会主催・かんなべ史跡めぐりにおける『國分寺の話』
本日は、神辺町観光協会主催の神辺史跡めぐりということで、ここ備後國分寺にもご参詣下されまして、ご苦労様に存じます。少し國分寺についてお話しを申し上げます。
國分寺は皆さんご存知の通り、今からおよそ1270年ほど前、天平13年、741年に聖武天皇が、國分寺の詔という勅令を発せられまして出来たお寺です。全国66州、それに島に二つ、都合68の国に國分寺が出来て参ります。当時は今のように日本の国という観念がありませんで、それぞれ各国でバラバラに暮らしていた。
それが、國分寺の詔の100年くらい前に大化の改新という大改革がありまして、中央集権体制となって、都を中心に一つの国にしていこうということになります。その50年後には大宝律令が制定されて中国をまねて律令制度という国の統一した制度によってまとめていこう、そのために各国に國分寺を造り、中央には奈良の東大寺を造って、人々の心を中央に向けて国を統一する礎とされたわけです。ですから、國分寺は、鎮護国家、それに万民の豊楽を祈願するというのが仕事でした。
備後國分寺は、皆さん今参道を歩いてこられました入り口に南大門があり、古代の山陽道に面していた。少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂があった。金堂は、東西30メートル、南北20メートル、七重塔は、基壇が18メートル四方であった。講堂は東西30メートルあったと、昭和47年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。
これは、奈良の法起寺式の伽藍であった。また、寺域は600尺四方、およそ180メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には12の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。
当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約5メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われますが、当時の國分寺の中心には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経10巻が七重塔に安置されており、正式な國分寺の名称が『金光明四天王護国の寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。
それは、護国経典として、とても当時珍重されたものでもあります。で、その「紫紙金字金光明最勝王経10巻」、今どこにあるかと言えば、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、ここから持ち出されて、沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されております。国宝に指定されています。
その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。
おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたであろう。4年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。
そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す、江戸時代には、延宝元年、1673年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、2年前ですか、文化財となっております。
そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種候の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、人の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍ということであります。元禄7年にこの本堂が出来ました、今から310年前のことです。
それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。
それが仁王門前の詩碑に刻まれておりますから、帰りにでも、よくご覧下さい。それで、茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時の文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたのであります。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。
皆さん、ところで、福山検定受けられましたでしょうか。関連しまして、「知っとる?ふくやま」という公式テキストが、発行されておりますが、初版では、この國分寺は、創建時の國分寺と歴史が分断されているかのような書き方をされていました。
しかし、連綿と國分寺の歴史が続いていることは、先ほどの発掘でも明らかでありまして、そのことを出版先に伝えまして、最近出ました第4刷には、全文が訂正されております。どうか興味のある方はご覧いただきたいと思います。
長くなりましたが、國分寺の変遷を通しまして、このあたりの歴史にも触れお話しをさせて頂きました。当時の人々は今の私たちには想像も出来ないほどに、目に見えないもの、大きな私たちを支えてくれている存在に深く感謝とまことを捧げるために、このような立派な建物をお造りになった。その御心についてもどうか思いを馳せながら國分寺を後にして頂ければ有り難いと思います。本日は、ご参詣誠にありがとうございました。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

本日は、神辺町観光協会主催の神辺史跡めぐりということで、ここ備後國分寺にもご参詣下されまして、ご苦労様に存じます。少し國分寺についてお話しを申し上げます。
國分寺は皆さんご存知の通り、今からおよそ1270年ほど前、天平13年、741年に聖武天皇が、國分寺の詔という勅令を発せられまして出来たお寺です。全国66州、それに島に二つ、都合68の国に國分寺が出来て参ります。当時は今のように日本の国という観念がありませんで、それぞれ各国でバラバラに暮らしていた。
それが、國分寺の詔の100年くらい前に大化の改新という大改革がありまして、中央集権体制となって、都を中心に一つの国にしていこうということになります。その50年後には大宝律令が制定されて中国をまねて律令制度という国の統一した制度によってまとめていこう、そのために各国に國分寺を造り、中央には奈良の東大寺を造って、人々の心を中央に向けて国を統一する礎とされたわけです。ですから、國分寺は、鎮護国家、それに万民の豊楽を祈願するというのが仕事でした。
備後國分寺は、皆さん今参道を歩いてこられました入り口に南大門があり、古代の山陽道に面していた。少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂があった。金堂は、東西30メートル、南北20メートル、七重塔は、基壇が18メートル四方であった。講堂は東西30メートルあったと、昭和47年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。
これは、奈良の法起寺式の伽藍であった。また、寺域は600尺四方、およそ180メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には12の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。
当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約5メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われますが、当時の國分寺の中心には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経10巻が七重塔に安置されており、正式な國分寺の名称が『金光明四天王護国の寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。
それは、護国経典として、とても当時珍重されたものでもあります。で、その「紫紙金字金光明最勝王経10巻」、今どこにあるかと言えば、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、ここから持ち出されて、沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されております。国宝に指定されています。
その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。
おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたであろう。4年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。
そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す、江戸時代には、延宝元年、1673年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、2年前ですか、文化財となっております。
そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種候の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、人の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍ということであります。元禄7年にこの本堂が出来ました、今から310年前のことです。
それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。
それが仁王門前の詩碑に刻まれておりますから、帰りにでも、よくご覧下さい。それで、茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時の文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたのであります。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。
皆さん、ところで、福山検定受けられましたでしょうか。関連しまして、「知っとる?ふくやま」という公式テキストが、発行されておりますが、初版では、この國分寺は、創建時の國分寺と歴史が分断されているかのような書き方をされていました。
しかし、連綿と國分寺の歴史が続いていることは、先ほどの発掘でも明らかでありまして、そのことを出版先に伝えまして、最近出ました第4刷には、全文が訂正されております。どうか興味のある方はご覧いただきたいと思います。
長くなりましたが、國分寺の変遷を通しまして、このあたりの歴史にも触れお話しをさせて頂きました。当時の人々は今の私たちには想像も出来ないほどに、目に見えないもの、大きな私たちを支えてくれている存在に深く感謝とまことを捧げるために、このような立派な建物をお造りになった。その御心についてもどうか思いを馳せながら國分寺を後にして頂ければ有り難いと思います。本日は、ご参詣誠にありがとうございました。
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でも、試験は苦手だから福山検定?は受験しません。