住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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『天平の甍』を読んで―鑑真和上顕彰

2009年02月09日 11時19分09秒 | 仏教書探訪
昨年、鑑真和上開山の唐招提寺に参る機縁をいただいた。山門、金堂、戒壇、講堂、食堂。そして、御影堂に執事の方がご案内下さった。御影堂はかつての興福寺一条院の宸殿を移設したもので、明治になって奈良県庁の建物として使われていたが手狭になり、こちらに貰われてきたとうかがった。

中に入ると広間の襖には見事な海の波の青々とした絵が描かれている。ご存知東山魁夷画伯の襖絵である。鑑真和上が日本に渡るのに12年の歳月をかけられたのと同じ12年間かけて鑑真和上に捧げられた日本海の絵だ。何度も当時の小さな舟で日本に向けて戒法を伝えんがために命をかけられた鑑真和上が夢見た日本の海。

前方の襖を開けるとそこにはやはり青々した日本の山の情景が現れた。いかにも東山魁夷画伯の絵。おぼろげに見えて繊細なその絵は、風を肌に感じさせるような不思議な空間を醸し出す。お堂の正面の襖を開けると鑑真和上のおられるお厨子が現れた。国宝鑑真和上像が納められたその前で、心経一巻。心に染みいる深閑とした霊気にうたれた。

御影堂の庭には、東山画伯の供養塔もあるという。その供養塔のみが12年間の画伯へのお礼とうかがった。東山画伯がどれだけ鑑真和上に敬慕し感謝し心酔してこのふすま絵を描かれたかを表している。そのことを思うとき、今日の私たち日本仏教はこれでよいものかと改めて考えさせられた。

その時からもう一度井上靖氏の『天平の甍』を読みたいと思っていた。取り紛れていたが、昨日やっと読了した。鑑真和上が何度も渡海を試み、暴風雨等のためにどこへ漂着されても、行く先々で地方長官自ら大勢の人々が出迎えて歓待され、仏堂を建てたり、授戒をされたり。それだけの高僧が65歳という高齢にもかかわらず失明までして、なお自らの命をかけて伝えたものを今私たち日本仏教は全く蔑ろにしてしまっていることを思う。誠に申し訳ないことではないか。

井上靖氏の『天平の甍』が書かれるまで、さして鑑真和上のことは広く知られてもいなかったと聞いた。知られていなかったのは知らさなかったためであろう。破戒から無戒と言われる日本仏教ではあるけれども、いま一度この鑑真和上の顕彰により、私どものあり方を振り返る縁(よすが)としなければならないのではないかと思う。

(以下WIKIPEDIAより鑑真和上の項を転載します。ご覧下さい。)

鑑真(がんじん、鉴真、jiàn zhēn 688年(持統天皇2年) - 763年6月25日(天平宝字7年5月6日))は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。

鑑真と戒律
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。

仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。

しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。

日本への渡海
最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。

その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。

748年、栄叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡がのこされている。

751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう(完全に失明していなかったとする説もある)。

752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに渡日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂はひそかに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

日本での戒律の確立
唐招提寺754年(天平勝宝6)1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

758年(天平宝字2)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

759年(天平宝字3)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。

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