住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「千の風になって」の誤解

2007年05月16日 10時38分10秒 | 様々な出来事について
『千の風になって』
   
 私のお墓の前で 
 泣かないでください
 そこに私はいません 
 眠ってなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています
 秋には光になって 
 畑にふりそそぐ
 冬にはダイヤのように 
 きらめく雪になる
 朝は鳥になって 
 あなたを目覚めさせる
 夜は星になって 
 あなたを見守る

 私のお墓の前で 
 泣かないで下さい
 そこに私はいません 
 死んでなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 あの大きな空を
 吹き渡っています

アメリカで話題となった『Do not stand at my grave and weep』に、小説家の新井満氏が訳詩を手がけ、自ら作曲して話題となった。原詩の作者は不明だそうで、アメリカ女性Mary Fryeが友人のMargaret Schwarzkopfのために書いた詩がもとになっているともいわれている。

また、この歌はナチスドイツから逃げてきた亡命者がナチスドイツに残してきた母の訃報を知り悲しむ親友のために慰める為に作ったという説もあるようだ。9.11同時多発テロの犠牲者追悼式でも唱えられ、またJR福知山線事故など様々な犠牲者の遺族を慰める曲として社会現象にもなった。

そして、今、この曲が一人歩きして宗教界、特に仏教界に一つの波紋を投げかけている。実は、私のところにも、年初からこの曲の歌詞には亡くなった人が「私はお墓にいません」とありますが、と問われる人があった。

中外日報5月8日付社説「千の風の曲が宗教界に響く時」には、「死者は墓にいないで風になっているというのだから、葬儀の脱宗教化と、どう結びつくであろうか」とある。

また、ある宗派の研究機関の問題提起として「仏教が弘まっているはずの日本で『千の風になって』が注目されているのは仏教の教えが理解されていない、支持されていないということでしょうか」とも記されている。

短いコメントなので、その真意が計りかねるのだが、日本仏教として、お墓と亡くなった人とがどうあると考えるのかがはっきり示されていないように感じる。もしくは、はっきりと言えないのだろうか、または理論と認識が相違しているのであろうかとも思える。

それぞれに宗派によっても考え方が違い、それぞれ僧侶も考え、思いが違うのではないか。そこには、宗派の教えばかりを重んじ、本来しっかり学ぶべき仏教教理の根本が理解されていない今の日本仏教の現状を露呈しているようにも感じる。

丁度、先週開かれた國分寺仏教懇話会でこの話題が話し合われた。石仏の取り扱いに触れたときに、この「『千の風になって』の歌詞にあるように、亡くなった人はお墓にはいないのですから」と言うと、一人の方から「お墓に亡くなった人は居ないんですか」と問われた。

これまでにも懇話会では、お墓の話をしてきているので、皆さん理解されているだろうと思っていたが、ことはそう簡単ではないとこの時了解した。小さいときから、亡くなった人に会いに行こうとか、お墓に参って静かにお眠り下さいと思ってきた思いはそう簡単には払拭されないということだろう。

また昨日、近くの知人が来てこんなことを言われた。「これまでお墓参りして馬鹿を見たわ、『千の風になって』で、お墓に私はいませんって歌っているのに」と。川柳でもこの手の笑い話があるそうだ。お墓に亡くなった人がいないのだから、墓参りをしないいい口実ができたというものらしい。

はたして、このような理解でよいのであろうか。千の風に歌われているから、お墓に亡くなった人がいないのだから、お墓にも参る必要もない。実に現代的な割り切り方とも言えようか。まず、歌にうたわれているから、何事も正しいと思ってしまうことは、余りにも短絡的過ぎよう。

また、お墓に亡くなった人がいないとして、だから墓参りは必要ないというのも、いかがなものか。それでは、ここで、はっきりと仏教的にどのように解釈すべきかを述べてみよう。まず、亡くなった人はお墓にいるとはどのようなことか。

お墓に亡くなった人の心がおられるということは、仏教では生きとし生けるものは死後六道に輪廻転生するとしているのに、転生できずにこの世に未練を残したままとどまっていることだと言えよう。亡くなった人は、49日後に来世に行かれているのだから、お墓にはいない。

私たちは、この身体が自分だと思いこんでいる。だから、亡くなった人もその遺骨がその人だと思ってしまう。私たちはこの身体をもらって、生きているだけで、身体は寿命を終えたら、脱ぎ捨てて、来世に行かねばならない。

どこへ行くかはその人の一生の行いによってもたらされる亡くなった瞬間の心に応じたところと言われている。だからこそ、私たちは仏教の教えを学び間違いのない生き方をしなくてはいけない。

では、お墓にいるからお参りが必要で、いないなら墓参りは必要ないのであろうか。お墓とは、亡くなった人に仏塔建立の功徳をささげ、その功徳を回向するために建立するのである。

だから、亡くなった人がいなくても、足繁く墓に参り灯明線香花を供えて荘厳し、その功徳を来世に赴いた故人に、前世の家族として回向してあげることは大事なことであろう。

また、亡くなった人が、風になったり、雪になったりする歌詞に反響があったことで、あたかもアミニズム(自然精霊崇拝)が支持されたごとくに解する人もあるようだ。

しかし、あくまでその部分は、突然家族を亡くし心傷ついた人が、亡くなった家族は身近にいてくれるのだと思うことで、心を癒すための設定程度に理解したらよろしいのではないか。

この曲に心癒され、身近な人の死から、人が生きるということ、死ぬということをしっかりと捉え、豊かに生きていくための一つのステップだととらえればよいのではないか。

歌詞の一つ一つにこだわり、そこから現代に生きる私たちの宗教観を問うこともなかろう。それよりも、この話題から、きちんと人の生き死にについて、それがどのようなことか、ではいかに生きるべきかと語ることが先決なのではないか。

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25 コメント

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この歌より前に様へ (全雄)
2021-11-30 08:22:55
私も宗派仏教は好きになれません。
まずはお釈迦様の教えをきちんと学び、そのあとに日本での仏教の展開を知るべきであって、宗祖ありきで、その言葉だけでこと足れりとするべきではないと考えます。明治には、原始仏教なるものが重きをなし、欧州に留学してサンスクリット語などを学ぶ学僧も現れ、そのような趣旨から、浄土宗でも、真言宗でも、まずはお釈迦様の教えあり、その上で各宗兼学すべしとされる高僧もありましたが、戦後はみなまた宗派仏教に逆戻りしました。

私は、在家の出で、はじめに初期仏教を学び、インド僧も経験して、今があります。おっしゃるところその通りと考えます。
返信する
Unknown (この歌より前に)
2021-11-29 21:03:40
私が日本の仏教から離れた理由はまず宗祖無謬。つまり自分が属する宗派の宗祖の言葉と釈迦の言葉が矛盾したら釈迦の言葉を否定する、というのが日本の仏教だ、と読んだため。次が仏教徒ならまずパーリ語を学び、釈迦は何を言ったのか知ろうとすべきなのに日本の僧はそれをしないこと。漢文の経典にはバグが含まれている筈で、まずどこまでが釈迦の言葉なのか知ろうとすべきなのにそうしていない。これに挑む僧の話なら聞くに値するがそれはいない。
墓も仏壇も日本の為政者が作った制度で、釈迦に問えば眉をひそめるんじゃないだろうか。釈迦は葬式にすら否定的だったと聞く。
そんなわけで私はこの歌が流行る前に仏教徒であることを辞めた。今は小理屈のない神道だけを信じている。が、釈迦の教えを知りたいという気持ちは失っていないので宮崎哲弥氏には期待している。氏はパーリ語の勉強をする、という仏教徒の正道を歩んでおられるようなので。
返信する
旅人様へ (全雄)
2017-11-22 07:55:18
コメントありがとうございます。

どの部分についての問い合わせかわかりかねますが、亡くなられた方の心の存在については、過去のいろいろな体験からも、あると思っておりますが、それは四十九日の間に来世に行かれるとも思っています。

この記事だけでなく他も少し読んでいただけましたら知識の切り売りではないことがご理解いただけるかと存じますが。
返信する
あなたに問う (旅人)
2017-11-21 17:51:36
「仏教では・・・」と根拠を示しておられますが、他宗教の人に聞けばそれぞれの宗教の経典なり教祖のこtばを根拠とするでしょう。でもそれはどこまで行っても他聞です。私が聞きたいのは、あなたの知識ではありません。あなた自身がご自分の人生の中で確信している事です。あなたはどう思うのか? それをスルーしてしまったら、本や辞書や先人からの知識の切り売りでしかありません。
返信する
レビンとしっぽのママさまへ (全雄)
2017-02-04 07:45:09
コメントありがとうございます。

命のつながりを感じる。

生きている今のたくさんの生きとし生ける者たちとのつながりによって、そのおかげによって生かさせてもらっていることを感じ取る。

自分はみんなとのかかわりの中で生きている。みんなもそれぞれに他のとのかかわりのおかげで生きている。その他のみんなもみんなのおかげ。

生きているというのはありがたいことなのですね。
返信する
Unknown (レビンとしっぽのママ)
2017-02-01 17:15:33
お墓の存在は、その故人がそこにいるわけではない、亡くなった人とのチャネリングの場所だと聞いたことがあります。

宗教に現世の枠組みを当てはめなければ理解できない人が増えていることに、喜怒哀楽という感性を自然と現せない心のありようが乏しい世の中になったと驚きます。
日頃の生活の中で、小さい気付きがある時に、何らかの感謝の気持ちが出ると、私は見守られていると実感します。それが宗教の信仰の根元ではないかと、自分なりに解釈しているのです。
『お陰様』の言葉にもあるように陰となり知恵を授けて下さっているから自分が生(活)かされていると思ったら、お墓参りに意味があるのか無いのかなどという議論は起きませんよね。
ましてや、お墓参りに異論を唱えるならば、なぜ自宅に仏壇があるのかまで考えなければならなくなります(笑)
心のありかたが殺伐としている世の中を感じます
返信する
悲しいですね (全雄)
2014-06-27 12:51:37
通りすがり様へ、

身近な人が亡くなるというのは悲しいし寂しいし何とも言えない喪失感になりますね。

千の風になっては、そんな人にいつも近くにいるよと声をかけてくれて、励ましてくれている。

この世にはいろいろな死についての考え方がありますが、仏教的にはどうかという観点から書いた記事に過ぎません。

いろいろな考え方があっていいわけですが、ただ亡くなったからといって、すぐに何もなくなるわけではないというのはどの考え方にもあるはずです。

仏教は生まれ変わると考えますが、生まれ変わって、またどこかで生きてくれていると考えると、自分もがんばろうという気持ちになれます。

何もない、無になるだけと考えればむなしさしか残りません。

ご自分との時間をもって様々な思い、心を経られた人がどこかで生きていて下さるというのは励みになることでしょう。


遠藤周作の「深い河」にあるように、様々な亡くなった人との接し方があるのだと思います。
返信する
Unknown (通りすがり)
2014-06-27 02:21:40
今月上旬、最愛の人を失いました。社会人2年目の時、同じチームで仕事をするようになり、知り合って2年後から付き合いはじめました。かなり年上で彼は既婚者。2~3年付き合いましたが、私が結婚の対象になる人と付き合いたいため別れました。その後、私は結婚退職。彼は独立し自営。退職後も彼が主催する食事会などがある時は声をかけていただきましたが、子育てが忙しく参加はしませんでした。私の結婚生活は18年で破たんし、一人暮らしにもどりました。
離婚後、父が逝去や仕事で心が弱っている時に、支えてくれたのが彼で、奥様を大切にしているのを知りつつ、5年前からまた付き合いました。
奥様が大切だからこそ、奥様に見せれない部分を私に見せてきたのだと思います。
奥様とは年に数回海外旅行に行かれていて、いつも私も行きたいと言っていたところ、今年初めて、2人で海外旅行に行きました。元気な状態で最後に会った時も「お盆休みにまた行こう」と言ってくれました。
GWは奥様と海外に行かれ、帰国後体調不良と連絡が入り、疲れかと思っていたところ、胆嚢癌で入院するとのこと。でも、手術できるから大丈夫だよと言っていたのに、入院し3週間で逝去しました。
「奥様がいるから面会に行けない」と言ったところ、「いても構わないからおいで」と言ってくれ、3回ほどお見舞いに行きました。1回目は体調は悪そうでしたが、「手術できるから。今週はいつ来れる?」など言ってくれ、4日後に行ったところ、酸素マスクをして起きれない状態でした。でも、「手術ができるように頑張るから」と「ありがとう」と言われました。私が「ありがとう」と言うと、2度と会えない気がし、「また来ていい?」と聞くと、うなずきました。3回目は彼とは会えずに帰ってきました。
逝去した翌日、普通にベッドで寝ている彼に会い、お通夜、告別式にも参列、棺には手紙を入れさせていただけました。
不倫の身でここまでできた私は幸せだと思っています。
グリーフケアの本を読んだりしていますが、かつぽんさんの書いてある通り、葬儀や法要などは生きている人のためのものだと思います。
父や姪を亡くした時は、悲しかったですが、親族としてやることが多く、悲しみがまぎれました。
今回はただ悲しむことしかできません。
生前、私が落ち込んでいる時は「ずっとそばにいるから大丈夫だよ」と言ってくれていました。私も「先に死んだら、私もすぐに死ぬから」と言っていました。
お見舞いに行った時「ずっとそばにいると約束してくれたんだから、約束を守ってよね」と言ったところ、「年の差を考えろよ」と言われました。たぶん、手術ができないことを知っていたんだと思います。
私も、先に死んだら、私も死ぬからと言ってましたが、生きています。
亡くなる4時間前、彼の夢で起きました。病室に二人でおり「心配掛けたけど、もう大丈夫だから」と言っていました。告別式の翌日も、夢の中で「先に逝ってごねんな。でも、こうやって会いに来たから」と言っていました。
彼が死んで、この歌をちゃんと聞いたのは初めてです。
歌詞に、「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません」とありますが、今後は、彼のお墓に会いに行くしかありません。

思いつくままに書いてしまい、まとまりのない文章になってしまいましたことをお許しください。
返信する
はじめまして (全雄)
2014-05-27 11:37:51
かつぽん様へ

お便りありがとうございます。いろいろな考え方があって、思いが違ってよいのだと思います。その曲で、癒やされ、心落ち着き、生き直す機会になれば。

音楽や歌はすごい力があるのだと思います。昔からまつりごと、祭典には欠かせなかったものでしょう。

歌い踊り五感によつて伝わるものがあるということでしょう。

返信する
ごめん!しっかりブログ読みました (かつぽん)
2014-05-27 00:37:55
葬式とは誰の為?

亡くなった人のため?

違うよー!

残された人達が悲しみを癒し明日から元気に生活する為だよー!

死んだ人が
残された人に
なんで死んだんだよー!悲しいよー!
と言われ救われるか?

叫んだ人が救われるんだよ

言いたかった 悲しい 伝えたかった

残された人が言いたいことを言って

マスターベーションするのが葬式

だってそうだろう?

テレビでCMしてるじゃない?

ていのいいこと言ってお涙頂戴

それって故人をおもって?

自分を褒めて欲しいんじゃない

なんて

冠婚葬祭全てそうだけどさ



死んでる人が偉い?

違うよ!生きてる人が偉いの!

だから家族葬が広がるの

みんなわかっているから



親と子供が崖にぶら下がっていたら

私は子供をえらぶ

4児の父で痴呆症の母を抱える私

母は離婚後、私を含め、姉、私、妹を大学まで上げた

それでも愛する母より子供に手をのばすでしょう

母はわかってくれます

親になった私が子供に同じことをされても理解できるから

そうだよね

あなたとわたしは親子で血がつながっている

それはDNAと呼ばれる根本から伝えられてきたことなのかもね

笑顔で答えます

好きだから

愛してるから

千の風はそういう宗教によるものと思っています

墓や骨、遺体に魂は居ない

亡くなったらあなたの周り、あなたの心の中に魂である私は居ます

それは貧富や土地の違いを超越しません?
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お盆の日は? (かつぽん)
2014-05-26 23:34:41
お盆にご先祖様をお迎えして自宅に連れ帰ります。その後の墓にご先祖様はいません。今核家族化が進み、それぞれの家庭がお盆に墓参りに行きます。先着順でご先祖様はその家にいきます。その後来る家庭はからの墓に墓参りしてます。笑える。ましてやお寺さんはその事を教えない。腹の中でぷぷっと笑っているから。そういうことでしょう?

千の風はご先祖様は墓の中にいない、皆さんの心の中にいるのです!という日本否定の宗教でしょう?

遺体に魂宿るの日本でむかっ!と思った人は多いハズ

アメリカ合衆国のキリスト教徒には受けるんでしょうけど
返信する
霊と風 (幸福の科学松原俊)
2013-12-15 20:50:15
霊と風という言葉は語源が同じだそうですヾ(@⌒ー⌒@)ノ
風は目に見えませんが、あるのは誰もが知っておりますヾ(@⌒ー⌒@)ノ
風が吹いているのが分かるのは風で木の葉が舞う時ですヾ(@⌒ー⌒@)ノ
同様に霊も肉眼では見えませんが、霊があると分かるのは人が生きて動いている時ですヾ(@⌒ー⌒@)ノ
無神論者のうちの母は、この説明で霊が実在する事をうっすらとですが、理解して下さいましたヾ(@⌒ー⌒@)ノ
返信する
Unknownさんへ (全雄)
2013-10-07 17:21:41
少し時間が経って落ち着かれたでしょうか。

この世は無常であるということが仏教の真理です。

亡くなった方に生きていて欲しいという気持ちは叶えられるはずも亡く、早くそのような気持ちを捨てて死を受け入れねばならないのです。亡くなった人はいつまでも生きていて欲しかったという気持ちは理解できても、生き返ることはできないのですから困り果てるだけではないでしょうか。

亡くなった方を困らせては何にもなりません、それは残された者の我が儘に過ぎないのではないですか。

千の風になってを聞いて、無理矢理にでもそうして亡くなった人も自由に飛び回り楽になられたのだと思うことが残された者の慰めなのではないですか。

誰もが永遠の命を保つなどということはできないし、たとえそうなったとしたらかえって苦しみの中で、老いさらばえて気の毒な状態のままということになります。

命に際限があり、誰もがそれが分からないまま生きているからこそ私たちには生きていられるし、頑張って生きる意味があるのではないでしょうか。

ただ、ずっと身近に居て欲しかった、何か心残りがある、という気持ちを拭いきれないだけだということに気づいて下さい。

みんな無常の中で生きているからこそ、今という瞬間を大切に私たちは、何事もおろそかにせず生きていかねばならないということなのです。



亡くなられたことを受け入れてお元気になられ、以前と変わらぬ生活に早く復帰なされますことを願っています。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-10-05 08:06:35
もう一言ごめんなさい

もしも幽霊か何かで亡なられた方が本人がこの詩をいったら
本当に愛情のある人たちはみんなその本人のいった言葉を否定して生きてここに残って欲しいと伝えるはずです
本当はいかれたら困るはずです

だからこの詩を聞いてうなずいてしまう人は手放しても良いと思ってる人だと思います
さらにもしも残された人側がこの言葉を代弁して言い出したのなら本当に救いが感じられないと思います
止める立場にある人がそういっているのですから

そこがどうしても理解できないのです
返信する
Unknown (Unknown)
2013-10-05 08:00:31
こんなに、時間がたってからのコメントだと言うのにこんなに早いご返事ありがとう御座います
それが癒されないのです
傷口に塩を塗られているような痛みを感じます

死を受けまだ入れられない人にとっては、お墓にいようと千の空気になっていようと同じです
死を突きつけられてるのと同じ出す
この人は死んだんだと聞かされて喜ぶ人はいないと思います

この歌で何で癒される人がいるのでしょうか
そこが疑問です

そっとして欲しいのです
それか、もしいうなら、死んだ事そのものを否定して欲しいのです
まだ生きているっていうなら救いがあります
でも、人間と違うものになって見守っていますなんていって死んだと言う言葉を置き換えてるだけじゃないですか

だからこの歌は意味がこの人は死んだんだよこの人は死んだんだよこの人は死んだんだよと連呼しているようにしか聞こえないのです・・・
聞かされるだけで辛い

一緒にずっといたいなら自分も千の風になるしかないじゃないですか
そう思います

故人に愛情の無い人がその人を手放してもいいと思ってる人、そういう人でなければこの歌を良いと思えないと思います
手放すための歌なのでしょうから

自分も追いかける為にはどうすればいい?
自分も死ぬしかない?
そういってるように聞こえます

返信する
Unknownさんへ (全雄)
2013-10-04 15:38:50
コメント有り難う御座います。

今もお葬式でこの曲を流す人がいるのですね。

どのような思いでされるのかは皆それぞれでしょう。

おっしゃるとおり、残された者の勝手な思いなのかも知れませんが、それによって、少しでも心癒される人があるならそれはそれで良いのかもしれないと思います。

曲を流した人よりも深く傷つき悲しみに沈んでいる人の心を軽くしてあげたいという思いでなされたものかもしれません。

お墓の前で泣かないで、というのは泣くなと言うのではなくて、故人がお墓の中で暗くつらい思いでとどまっているわけではないということでしょう。

故人は、亡くなるときにはたとえ苦しみもだえて亡くなっていったとしても、いまは身体の束縛を離れ、自由になり、次の世のために心羽ばたいていますよという曲だと私は思っています。

残った人が勝手に言っているのではなく、そう思いたい、そう思えば少しでも気持ちが楽になれますということではないでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-10-03 19:58:31
6年もたってからごめんなさい
最近知人の葬式で流れてきたもので一言
それが本当に亡なられた方の想いだったならいいのですが
それを担ぎ出しているのは残された側の人です
残された側が勝手に自分たち残された人に「泣かないで」と言ってるのです
おかしいと思います
本当は悲しんでいないんじゃないかと思ってしまいます

故人が泣かないでと言った事に生きてる人がいやだいかないでと駄々をこねるならとても分かります

その逆で残った人が勝手にいってもいいと言ってるのが不快です
返信する
お二人に (全雄)
2007-12-29 08:34:48
keisさん、そうですか。日本ではあまり知られていませんね。他の人の情報からこのように書いてしまいました。

flogさん、いろいろと仏教者がとかく言うものですから、私なりの意見を書いたまでです。

お墓はインドでは作りませんし、お墓参りもしません。ですが、亡くなった人の命日にはお坊さんを招待して食事を食べてもらい簡単なお経を唱えてもらって功徳を積み回向することはなされています。

ですから、お墓、お墓参りというのは私たち日本人の風俗習慣に基づき仏教的な意味づけによって、なされているものだと思います。
返信する
素直に受け取りたいもの (flog)
2007-12-28 18:14:31

亡くなった人から残された人へその想いを伝える詩として、素直に受け取ればよいのではないのでしょうか。
ところで、仏教ではお墓という物理的な存在、あるいは墓参りという行為が無いと、死者は救われないのですか?
返信する
歌詞の原詩 (keis)
2007-12-18 20:58:56
この詩は、ネイティブインディアンが残した言葉です。
ディパックチョプラ氏の書籍で紹介されています。
インディアの哲学者は誰もが知っている歌です。
正しく伝えて欲しいものですね。
返信する
文学性 (全雄)
2007-05-25 13:12:38
お久しぶりです。お元気そうで何よりです。そうですね、文学として鑑賞するということになれば、それはそれで、きちんと良くまとまった内容で素晴らしいものだと思います。

だからこそここまでみんなの耳に届き、耳に馴染んで普及したのでしょうね。ただ、内容が良い、聞きやすいというだけでは駄目だということなのですね。

私の駄文は未だその程度ということなのかもしれません。
返信する
文学として。 (さんとう花)
2007-05-24 23:19:10
おじゃまします(^o^)
「千の風になって」は、私も友人からの紹介で拝聴しました。
和訳された、深くて静かな精神性の感じられる詩も素晴らしいものですが、英語の方は美しく韻を踏んでいて曲がなくても文学としても堪能できるとのこと。
この詩は聴いた人、読んだ人が各々の感想を持って故人を偲ぶきっかけとなれば良いのではと思いますが。
ただ、短絡的に亡くなった人がお墓にいないならお墓参りは不要と考えるのはあまりにも安易ですよね・・・(-_-;)
返信する
癒しとは心を鈍感にすること (全雄)
2007-05-18 07:43:35
なるほと゜。そうかもしれません。

余りにも一つの心に突き刺さった悩み、傷ついた心にとらわれている状態を鈍感なものにすり替える切っ掛けが千の風になってなのかもしれませんね。

そう何か刺激がないと覚醒しない。みんな覚醒せずにどんより日を送っているということですか。

千の風になっては、それを聞いてそこに留まることなく、その後の心の歩みに移行していかねば何にもならない。その切っ掛けとしてあるのだと思います。
返信する
理由をつけたがる、、、 (たかひろ)
2007-05-17 20:09:30
全雄 君へ

さて、「千の風になって」は自然と人の繋がりを
まろやかに心地よく、当たり障りなくぼんやりと
表現しているので、の多くの曖昧な人々の心を
掴んでいるのでしょう

癒される、心地良いと感じていると、人の脳は
あまり働いていないという学者もいますし、、、

リラックスと鈍感、緊張と覚醒は「紙一重」な状態
なので、もう少し心身に刺激を与えれば良くなる
と感じています、、、

昨日の件も、そういう事だったと感じています

では、また
返信する
お久しぶりです。 (さるなーと)
2007-05-17 14:51:07
昨年の今頃、三原より自転車で立ち寄りました者です。
その節は、お忙しいご様子で、話が出来ませんでした。
ブログもまた、仏縁かと感じ、コメントさせて頂いております。
ぶしつけですが、思いのままに、遍路紀行を、フィクションにしてみました。
ご意見など、いただければ有り難く存じます。
お体に気を付けて、日々、お勤めください。
返信する

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